主任司祭の窓

主任司祭 場﨑洋神父
主任司祭 場﨑洋神父

主の降誕(日中)  2014年12月25日 「聖書と典礼」表紙解説」

福音朗読 ヨハネによる福音書 1章1~18節

初めに言があった。言は神と共にあった。 言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。 成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。 命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。 暗闇は光を理解しなかった。 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。 彼は証しをするために来た。 光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 言は世にあった。 世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、 神によって生まれたのである。 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。 「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。 父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

(福音朗読 説教 場﨑洋 神父様)

(以下24日と同じ文を掲載しています)

クリスマスおめでとうございます。今日、神が人間の姿でご自身をお現しになりました。

長い、救いの歴史の中で、預言者たちは、救い主の到来を絶えず待ち続けていました。そして、今から2000年前、今のエルサレムの隣りの町、ベトレヘムでイエス・キリストがお生まれになったのです。

誕生の物語は今朗読したルカ福音書にあった通りです。ヨゼフは人口調査のためにマリアと一緒にナザレから約140キロの道のりを経て、ベトレヘムへやってきました。ところがマリアにお産が迫ります。しかも泊まる宿屋がありません。ヨゼフは必死になって宿屋を探し回ったに違いありません。そんなときに見つけたのが飼い葉桶だったのです。飼い葉桶、それは家畜が餌を食むところです。神である御父が人間としてお生まれになったとき、宮殿やお城ではなく、貧しい飼い葉桶でお生まれになったのです。これがわたしたちへのしるしです。

皆さん、どうしてわたしたちは、今日、これほどまでに、飼い葉桶の乳飲み子に目を注ぐのでしょうか。皆さん、乳飲み子を腕に抱いてみて下さい。皆さんが飼い葉桶のような貧しさの中におられるのであれば、乳飲み子を抱きあげることができるでしょう。

まぶねの中の乳飲み子に不思議な力があります。見れば、普通の赤ちゃんです。この寝息を立てて眠っている小さな命がわたしたちを変えるのです。眠っている乳飲み子と共にいると、わたしたちは注意を払います。わたしたちの心は穏やかになります。平安になります。静かになります。乳飲み子よりも力強いわたしたちは赤ちゃんの前で身を低くして、力を抜くのです。

さらにわたしたちは乳飲み子を抱くと、わたしたちの一人ひとりの過去を思い起こします。わたしたちもかつてはこのような赤ちゃんだったことを忘れてはなりません。わたしは一人で生きることができませんでした。誰かの愛をいっぱい、いっぱい必要としていました。食べること、着ること、眠ること、すべて与えられて生きて行かなくてはならなかったのです。無力のうちに生かされて今日のこのときまでわたしたちは生きているのです。天の父は小さな乳飲み子としてわたしたち一人ひとりの飼い葉桶に降りてきたのです。御父はわたしたち一人ひとりの成長の中でみことばを教えておられるのです。この幼子が飼い葉桶に寝かされたというのは、へりくだりのしるしなのです。赤ちゃんを通して神はご自身をわたしたちに触れさせてくださっているのです。赤ちゃんは信頼がないと、育ちません。必ず信頼があって、赤ちゃんは育っていくのです。赤ちゃんはわたしたちに神への信頼を教えておられます。


今日のイザヤ書では、「闇に住む民は、大いなる光を見た。死の陰の地にある住む者に、光が輝いた。深い喜びと、大きな楽しみをお与えになります」と預言しています。

第二朗読のテトスの手紙では「愛する者よ、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、祝福に満ちた希望、救い主の現れを待ち望んでいるのです」

この恵み、光とは何でしょうか。創世記で神は天地を創造しました。地は混沌、秩序がありませんでした。神は「光あれ」とおしゃいました。この光は善でも悪でもありません。この世にある昼と夜の司る光です。

ギリシア神話にあるプロメテウスの火という有名な神話があります。プロメテウスはゼウス(神々の主)に逆らって人類に火(光)を与えてしまいました。人類は火を用いて文明や技術の恩恵をあまた受けきましたが、その火に力によって武器をつくって戦争もはじめました。この戦争は今も続けられています。この火はこの世の光であるかのように、この世の幸福をもたらしてくれるかのように絶えず人類の発展や文明に大きな影響を与えてきました。しかし、それは大きな誤りでした。今や、世界は一歩間違えば、この地球を消滅させる闇の力にまでなっていきました。プロメテウスの火は、原子力など、人類の力では制御できないほどに強大なものになりました。現代の科学文明に警鐘を鳴らしている言葉として、1975年に著された原子力事故を扱った小説「プロメテウス・クライス」として話題になった言葉でした。  

神はこの世の闇に光を投じたのです。クリスマスはこの世の闇、すなわち、この世の偽りの光、人工の光に警鐘を鳴らします。わたしたちはこの世の光に向かって歩んでいますが、偽りの光をまことの光と勘違いして歩んでいることに気づきません。今日はまさにまことの光が闇の中で輝いていることをわたしたち教えています。

「闇は光の中で輝いているのです」。 この世の闇は、まことの光に勝利することはできません。まことの光は闇を圧倒させるのです。すなわちクリスマスは、2000年前のことではありません。どの時代にも、神がわたしたちの内に生きていて、まことの光を輝かせているのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

主の降誕(夜半)   2014年12月24日  「聖書と典礼」表紙解説

        福音朗読 ルカによる福音書 2章1~14節

そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。 宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。 天使は言った。 「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。 「いと高きところには栄光、神にあれ、 地には平和、御心に適う人にあれ。」                                (福音朗読 フィリップ神父様)

主の降誕(夜半ミサ)・説教   12月24日   於手稲教会  場﨑 洋 神父様

クリスマスおめでとうございます。今日、神が人間の姿でご自身をお現しになりました。
長い、救いの歴史の中で、預言者たちは、救い主の到来を絶えず待ち続けていました。そして、今から2000年前、今のエルサレムの隣りの町、ベトレヘムでイエス・キリストがお生まれになったのです。
誕生の物語は今朗読したルカ福音書にあった通りです。ヨゼフは人口調査のためにマリアと一緒にナザレから約140キロの道のりを経て、ベトレヘムへやってきました。ところがマリアにお産が迫ります。しかも泊まる宿屋がありません。ヨゼフは必死になって宿屋を探し回ったに違いありません。そんなときに見つけたのが飼い葉桶だったのです。飼い葉桶、それは家畜が餌を食むところです。神である御父が人間としてお生まれになったとき、宮殿やお城ではなく、貧しい飼い葉桶でお生まれになったのです。これがわたしたちへのしるしです。
皆さん、どうしてわたしたちは、今日、これほどまでに、飼い葉桶の乳飲み子に目を注ぐのでしょうか。皆さん、乳飲み子を腕に抱いてみて下さい。皆さんが飼い葉桶のような貧しさの中におられるのであれば、乳飲み子を抱きあげることができるでしょう。
まぶねの中の乳飲み子に不思議な力があります。見れば、普通の赤ちゃんです。この寝息を立てて眠っている小さな命がわたしたちを変えるのです。眠っている乳飲み子と共にいると、わたしたちは注意を払います。わたしたちの心は穏やかになります。平安になります。静かになります。乳飲み子よりも力強いわたしたちは赤ちゃんの前で身を低くして、力を抜くのです。
さらにわたしたちは乳飲み子を抱くと、わたしたちの一人ひとりの過去を思い起こします。わたしたちもかつてはこのような赤ちゃんだったことを忘れてはなりません。わたしは一人で生きることができませんでした。誰かの愛をいっぱい、いっぱい必要としていました。食べること、着ること、眠ること、すべて与えられて生きて行かなくてはならなかったのです。無力のうちに生かされて今日のこのときまでわたしたちは生きているのです。天の父は小さな乳飲み子としてわたしたち一人ひとりの飼い葉桶に降りてきたのです。御父はわたしたち一人ひとりの成長の中でみことばを教えておられるのです。この幼子が飼い葉桶に寝かされたというのは、へりくだりのしるしなのです。赤ちゃんを通して神はご自身をわたしたちに触れさせてくださっているのです。赤ちゃんは信頼がないと、育ちません。必ず信頼があって、赤ちゃんは育っていくのです。赤ちゃんはわたしたちに神への信頼を教えておられます。

                                          北26条教会玄関にて
                                          北26条教会玄関にて

今日のイザヤ書では、「闇に住む民は、大いなる光を見た。死の陰の地にある住む者に、光が輝いた。深い喜びと、大きな楽しみをお与えになります」と預言しています。
第二朗読のテトスの手紙では「愛する者よ、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、祝福に満ちた希望、救い主の現れを待ち望んでいるのです」
この恵み、光とは何でしょうか。創世記で神は天地を創造しました。地は混沌、秩序がありませんでした。神は「光あれ」とおしゃいました。この光は善でも悪でもありません。この世にある昼と夜の司る光です。
ギリシア神話にあるプロメテウスの火という有名な神話があります。プロメテウスはゼウス(神々の主)に逆らって人類に火(光)を与えてしまいました。人類は火を用いて文明や技術の恩恵をあまた受けきましたが、その火に力によって武器をつくって戦争もはじめました。この戦争は今も続けられています。この火はこの世の光であるかのように、この世の幸福をもたらしてくれるかのように絶えず人類の発展や文明に大きな影響を与えてきました。しかし、それは大きな誤りでした。今や、世界は一歩間違えば、この地球を消滅させる闇の力にまでなっていきました。プロメテウスの火は、原子力など、人類の力では制御できないほどに強大なものになりました。現代の科学文明に警鐘を鳴らしている言葉として、1975年に著された原子力事故を扱った小説「プロメテウス・クライス」として話題になった言葉でした。  
神はこの世の闇に光を投じたのです。クリスマスはこの世の闇、すなわち、この世の偽りの光、人工の光に警鐘を鳴らします。わたしたちはこの世の光に向かって歩んでいますが、偽りの光をまことの光と勘違いして歩んでいることに気づきません。今日はまさにまことの光が闇の中で輝いていることをわたしたち教えています。
「闇は光の中で輝いているのです」。 この世の闇は、まことの光に勝利することはできません。まことの光は闇を圧倒させるのです。すなわちクリスマスは、2000年前のことではありません。どの時代にも、神がわたしたちの内に生きていて、まことの光を輝かせているのです。

       福音朗読 ルカによる福音書 1章26~38節

〔そのとき、〕天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。
ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。 天使は、彼女のところに来て言った。
 「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。 神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。 「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。
だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。 不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。 神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。               (福音朗読 フィリップ神父様)

説教  場﨑 洋 神父様  「カトリック新聞福音解説キリストの光・光のキリスト」 より    

                 希望の人、マリア


マリアは希望の人であった。受胎告知のマリアは祈りの原点でもある。1997年1月、イタリア、フィレンツェにあるサン・マルコ修道院を訪ねた。ドミニコ会修道士フラ・アンジェリコ(1390~1455)が描いたフレスコ画「受胎告知」を見たかった。幼い頃から慣れ親しんでいた作品だっただけに、原画の前に立つと素朴さの中にも神への信頼が満ち溢れてくる。彼は「天使のような修道士」という愛称で呼ばれ、絵筆を持つときは祈りを唱え、キリストの磔刑を描くときには涙した。1982年、ヨハネ・パウロ二世によって列福された。彼の生涯はこの上なく謙遜で天使やマリアを神聖な美しさで描写した。神秘的な預言者とも称されていた。

         
         

彼の影響を受けたミケランジェロもサン・ピエトロ寺院にある「ピエタ」でマリアの信仰を表した。彼の使命は大理石の中から生き埋めになっているいのちを彫り出すことだった。マリアは十字架から降ろされた我が子の亡骸を腕に抱き見つめている。アーヴィング・ストーンの書いた「苦悩と歓喜~ミケランジェロの生涯」(新庄哲夫訳・二見書房)の中で、このマリアの表情は実に若いことを告げている。この静謐な姿は「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えたときの祈りである。

                               画像 共にwikimediaより
                               画像 共にwikimediaより

大天使ガブリエルによってもたらされた神のお告げ。マリアは戸惑い、恐れ、不安を抱いた。しかし、マリアの祈りには両親、エリザベトの懐妊、ヨゼフの信頼、そして絶対者への信頼があった。シーナ・アイエンガー著「選択の科学」(訳:桜井祐子。出版社:文藝春秋)が世に出て久しい。彼女は盲目でありながらも、出生と慣習によって運命づけられてきた自分の人生を選択によって甦らせた。「選ぶべきか、選ばざるべきか」と言う問いは人生から引き離すことはできない。もし選択しないということであれば、選択しないという選択をしたことにもなる。選択の幅を広げようとしても、選択の幅を絞ってみても苦しみから回避することはできない。選択の本質は信頼である。信頼があるからこそ、すべての逆境は二の次になる
福者フラ・アンジェリコの作品にはためらいがなかった。完成した作品に後から筆を加えることも、修正することもなかった。彼の描く姿勢はみ言葉への信頼であった。わたしたちも希望の人、マリアへの御取次ぎを願わずにはいられない。み言葉がわたしたちの内に宿るように、仕えるものとなったマリアに倣っていきたい。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

待降節第3主日     2014年12月14日   「聖書と典礼」表紙解説

福音朗読 ヨハネによる福音書 1章6~8、19~28節

神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、 「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、 彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。 彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。 更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。そこで、彼らは言った。 「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。 「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。 『主の道をまっすぐにせよ』と。」 遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。 彼らがヨハネに尋ねて、 「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。 「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」
これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。

説教、待降節第3主日 2014年12月14日
 ガウデーテ「喜びなさい」。今日は待降節第3主日、主の到来が真近かに迫ってくることを喜びのうちに待ち続けます。祭服の色がバラ色です。紫と白の間の色でしょうか。降誕がすぐそこまでやってきます。四旬節第4主日、レターレ「歓喜しなさい」。祭服はやはりバラ色になって、祈り、節制、断食を和らげるかのように優しい色で励ましています。
さてイザヤはやがて訪れる救い主の姿を垣間見ています。
「貧しい人には良い知らせを伝えるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれた人には自由を。つながれている人には解放を告げるために」。この箇所はルカ福音書の中で引用され(4・18)、神の国の到来がまさにイエスによって告げられています。「わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしたちに着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる」。今日の答唱詩編はマリアの賛歌(マグニフィカト)が歌われています。この箇所はサムエル記上(2・1~10)のサムエルの母ハンナの賛歌に似ています。マリアはすでにこのハンナの賛歌を暗唱していたものと思われます。マリアは喜びと希望の人です。今日のテサロニケへの手紙では、「いつも喜んでいない。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と勧告しています。わたしたちは預言を軽んじてはいけません。預言者は絶えず希望と喜び(救い)を待ち望んでいるのです。ヨハネ福音書は、洗礼者ヨハネが光を証しするためにきたことを伝えています。わたしたちも福音を述べ伝えること、神の言葉を証しするものとして生まれてきています。洗礼者ヨハネは旧約最大で最後の預言者でした。彼は希望と救いを携えて、来たるべき救い主を証しようとしています。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。わたしはその履物のひもを解く資格もない」。

説教するヨハネ アレッサンドロ・アローリ (イタリヤの画家) 1601年 wikimediaより
説教するヨハネ アレッサンドロ・アローリ (イタリヤの画家) 1601年 wikimediaより

「証し」とは何でしょうか。神から与えられた恵み、信仰を人々に伝えること、これを「証し」と言います。わたしたちは日々の生活の中でキリストをどうように「証し」しているでしょうか。「いつも喜んでいない。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」この手紙を耳にしたときに、「そんなことが出来るわけがない!」という声があちこちから聞こえてくるような気がします。わたしたちは皆、日々の生活の中で、何度も喜びを失うという経験の方が多いのではないでしょうか。イライラしたり、赦せないことがあったり、悲しいことがあったり。つらいことも数え切れません。 とにかく毎日、自分に降り注いでくるものは、喜びではなく私たちから喜びを奪っていくものなのです。神はわたしたちから喜びを奪おうとされているのでしょうか。生きづらさを与えようとされているのでしょうか。神は何ものにも奪われない内的な深い喜びを、わたしたちに与えようとされているはずです。それではどうして、私たちの人生は「いつも喜ぶことができない」のでしょうか。ここで4つの「喜びドロボウ」をあげてみることにしましょう。第1に、状況が私たちの願いどおりでないとき、私たちは喜びを失ってしまいます。「こんなはずではなかった。どうしてそうなるのか」。現実には自分の望みとは違った結果に嘆くばかりです。第2、思い通りに行かない人々に対していつも嘆いています。その人の存在、言葉、行動が私たちの喜びを奪っていきます。 せっかく良い気分になったと思ったら、気の合わない人に会ってしまい自分をいらだたせます。その時、わたしたちは、喜びを奪われた被害者だと思い込んだり、同時に、隣人から喜びを奪う加害者にもなっていたりします。第3に、私たちが所有することによって喜びと喪失が繰り返されます。モノは私たちから喜びを簡単に奪ってしまう厄介なものなのです。第4に、私たちは明日に何が起きるのか分かりません。そんなことですから、実に様々な思い煩いによって喜びが奪われていきます。「あれはどうなるのだろうか。とにかく心配でならない」。わたしたちは常に思い悩み、動揺し、気が晴れないでいるのです。さて、私たちが立派に神様を信じたからといって、人生でこの4つの「喜びドロボウ」に絶対に出くわさないというのではありません。大切なのは、いくら「喜びドロボウ」に遭遇しても、モノや思い煩いの問題が襲って来ても、決して奪われることのない「喜び」を持つ知恵を神から与えられていることを忘れてはなりません。実はそれこそが、神が与えて下さる本当の「喜び」、私たちの人生を本当に満たしてくれる「喜び」なのです。それはどのような喜びなのでしょうか。私たちが喜びを失うのは、喜びの土台を、過ぎ行くもの、変化するもの、信頼のないものに置いていることに原因があります。喜びの土台を、決して過ぎ行かない永遠のもの、変わらないもの、絶対に信頼して裏切るものでないものとして置くなら、私たちの喜びはどんな時にも奪われることはないでしょう。聖書は永遠に変わらない信ずべきものは救いの歴史、特に御子イエス・キリストの福音から教えられています。「あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」(ヨハネ16・22)。「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」(フィリップ4・4)。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

待降節 第2主日    2014年12月7日   「聖書と典礼」表紙解説

福音朗読 マルコによる福音書 1章1~8節

神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。
「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。 荒れ野で叫ぶ者の声がする。 『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、 罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

      福音朗読 フィリップ神父様

待降節第2主日・説教    12月7日   於手稲教会  場﨑 洋 神父様

 第一朗読、イザヤの書の「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる」(イザヤ40・1)。この出だしの「慰める」という原文は「深く息をする」という意味です。神は、民を愛するがために息を深く吸って、見つめ直し慰めをお与えになるのです。神はバビロン捕囚の身であったイスラエルの民に深く心をとめられます。バビロンとエルサレムの間の山地の凸凹を平らにして、新しい道を敷くのです。やがてイスラエルの民はエルサレムへの帰還が許されます。「荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷になれ」。この預言は今日読まれたマルコ福音書の中に登場してくる洗礼者ヨハネの叫びでもあります。神のみ言葉は長い歴史の中に働いていますが、絶えず希望と喜びに導くものです。 第二朗読のペトロの手紙は時間も空間もないような次元で語っています。 「主のもとでは、一日は千年のよう、千年は一日のよう」。わたしたちはいつも時間と空間に囚われて生きています。時間とは何でしょうか。時間がどんどん過ぎていくということはどうしたことでしょう。いのちとは時間です。この時間がこよなく幸福であったり、孤独であったり、苦しかったり、寂しかったりします。ペトロは時間と空間を越えて存在している救いの歴史を希望と喜びのうちに垣間見ています。手紙では「今まで昔から天と地は何ひとつ変わっていないのではないか・・・と思いますが・・・・」と綴ります。それは人間的見方だからそうなるのです。しかし、わたしたちは神がご覧になっている救いの歴史をゆっくり思い起こしたことは殆どないのではありませんか。神がわたしたちに示す希望と喜びの道、それは、主キリストがわたしたちの心の中に入ってくださったという救いの道、希望の道なのです。旧約の人々も、今を生きるわたしたちも変わらない道を歩んでいます。険しい山が立ちはだかっている、凸凹で道ではない、狭い道を歩んで行けるのか・・・・。しかし、神が準備し、整えてくださった道は、どんな暗やみでも、険しい山地でも、逆境でも、希望と喜びの道へといざなってくださるものなのです。 

                 説教するヨハネ ブリューゲル 1566年 wikimediaより

待降節  第1主日     2014年11月30日 

福音朗読 マルコによる福音書 13章33~37節

[そのとき、イエスは弟子たちに言われた]「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、 門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。 主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。 目を覚ましていなさい。 」 

                説教   場﨑洋 神父様


4回の待降節を定められた 第64代ローマ教皇グレゴリウス1世 (在位590~604年) wikipediaより
4回の待降節を定められた 第64代ローマ教皇グレゴリウス1世 (在位590~604年) wikipediaより

待降節に入りました。キリストの誕生を待ち続ける季節です。何となく心が躍動してきます。イザヤ書で、「唯一、求めているのはあなただけです・・・あなたを待つ者を計らってくださる方、あなたのほかに神はいません。・・・わたしたちは神の手でつくられたものにすぎません。わたしは粘土、あなたは陶工、わたしたちは皆、あなたの御手の業の中にあります」。第二朗読ではコリントの手紙では「わたしたちは主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます」と語ってメシアの到来を願っています。福音書では「気をつけて、目を覚ましていなさい」と諭しています。門番には、いつ、何者かがやってくるか分からないのだと、忠告します。「目を覚ます」というギリシア語は「グレーゴリオー」と言います。これは「目を開けて寝込まないようにする」「気をつけて・・・・しっかり見る」という意味があります。しかしながら、わたしたちは、しっかり見るべきものを見ていないのです。信仰の目でもって、しっかり見ること。信仰の耳をもってしっかり聞くこと。信仰の心をもってしっかり待つことが大切です。終末がきたかのように熱狂的になるのもいけません。待つときの姿勢に重点がおかれているのです。右です。左です。そっちでなく、こっちです。足元に気をつけて!鍵は、お財布は、携帯は、メガネは・・・・忘れないように、と言われても・・わたしたちは忘れることが多いです。気をつけての「気」に関係する言葉は日常生活の中に溢れるほどあります。天気、元気、気持ち、気に入った、やる気、気が強い、気が弱い、気が張る、気が晴れる。気をもむ、気が散る。気が抜ける。やる気がでない。気落ちして、気持ちがいい、覇気がない、気合いを入れる。気絶する。でも、いつも気を張り巡らしていると、どうなるでしょうか。完璧であろうとすると神経がすり減ってしまうでしょう。表面に現れる成功の陰には、いつも緊張して疲れすぎてしまう自分がいるものです。自分の失敗や成功、あるいは相手の成功など、雑音のようなものにまで気を遣っている自分があります。無条件に自分自身を受け入れていく姿勢。それは見返りを求め過ぎている自分ではなく、ありのままの自分に立ち返ることです。信仰に目覚めているということは、愛されていることに目覚めていることにもなります。それは感謝と賛美につながっていきます。希望のうちに待ち続ける確信した真理。この確信があるからこそ、目覚めて用意していくことができると思います。

-----------------------------------------------------------


王であるキリスト     2014年11月23日   「聖書と典礼」表紙解説

晩秋の晴れ間、14名の方の堅信式です。勝谷司教様、場﨑神父様、フィリップ神父様の共同司式で執り行われました。おめでとうございます。ミサ後の祝賀会も楽しかったです。

教会の暦が最後の週となりました。今日は「王であるキリストの祭日」。北26条教会ではベルナルド勝谷太治司教様をお迎えし14名の方々が堅信の恵みを受けられました。

司教様は説教の中でこうおっしゃられました。

・・・カトリックではもともと「入信の秘跡」として洗礼・堅信・聖体がひとつでした。その後、幼児洗礼が授けられるようになり、成長とともに聖体、さらに堅い信仰を新たにするために司教から塗油を受けて堅信の式に与ることとなりました。こうして「入信の秘跡」が完成していくことになったのです。・・・・教皇フランシスコは宣教に対して恵みを教義で押し付けるのではなく、恵みに招くことを教えておられます。そのためにわたしたちが社会に出かけて行って寄り添うことが大切です。・・・・日本の宣教でもなかなか信者は増えません。どうしてなのでしょう。昔、初聖体をこの日に執り行っていたことがありましたが、子どもたちにいいお話はないものかと考えました。そこで例によくあげたのが、アンパンマンというキャラクターです。弱い人のところへ行ってパンである自分の顔をちぎって差し出すのです。このようにこのキャラクターはとても子たちに人気があります。とても分かりやすく、人の心に響いてきます。作者は「やなせたかし」さんも、苦しかった昔の体験から、このようなキャラクターを創造されたことでしょう。・・・・・・どうぞ、皆さんも社会に自ら出向き福音を述べ伝えるものになってください。今日は本当におめでとうございます・・・・・。

このような主旨で今日の堅信式で励ましの言葉を述べられました。

福音朗読 マタイによる福音書 25章31~46節 (朗読フィリップ神父様)

[そのとき、イエスは弟子たちに言われた]「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。 そして、すべての国の民がその前に集められると、 羊飼いが羊と山羊を分けるように、 彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。 『さあ、わたしの父に祝福された人たち、 天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、 旅をしていたときに宿を貸し、 裸のときに着せ、 病気のときに見舞い、 牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。 『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、 裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、 牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。 『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』それから、王は左側にいる人たちにも言う。 『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、 旅をしていたときに宿を貸さず、 裸のときに着せず、 病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。 『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」


             公審判 フラ・アンジェリコ  1395年頃

カトリック新聞・福音解説 キリストの光・光のキリスト より          場﨑 洋 神父様

          ラジオでの説教に臨む教皇ピオ11世
          ラジオでの説教に臨む教皇ピオ11世

最も小さな者の中にいる王               

紀元前1000年頃、イスラエルの民は王を求めた。「我々にはどうしても王が必要なのです。他の国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかうのです」(サムエル上81920)。イスラエルの民から王を求められた預言者サムエルはそれが悪と映った。イスラエルが神を捨てて他の神々に仕えてしまった過ちを重々知っていたからだ。しかし、神はイスラエルに王を与えることを許してサウルに油を注いだ。第2代ダビデ、第3代ソロモンと栄華を極めたが、その後イスラエルは神に背き、流浪の民となってしまう。紀元30年頃、総督ピラトは祭司長から引き渡されたイエスに尋問した。「お前がユダヤ人の王なのか・・」(ヨハネ1833)。イエスはお答えになった。「わたしの国はこの世に属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう」(1836)。イエスは受難が近づいたとき、人の子が栄光の座に着き、すべての民が集められて王の前で裁かれるたとえを語った。それが今日の福音である。マザー・テレサはよくこのたとえをもって自分の信条を語った。

「王は言う。・・・お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ・・・・裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいるときに訪ねてくれたからだ。・・・・『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである』」。彼女にとって王とは最も小さい者の一人の中におられる神の子・イエスなのである。 1925年、教会は典礼暦に「王であるキリストの祭日」を定めた。その背景には教皇ピオ11世(在位192239年)の苦難があった。在位中二つの大戦の狭間で社会の世俗化、教会が国家権力に利用されることを畏れ、憂いた。すでにイタリア国家とバチカンは長い間断絶状態だった。教皇も自から「バチカンの囚人」とさえ言った。しかし、1929年、バチカンはラテラノ条約によってイタリア国家と和解しバチカン市国となったことは決して忘れてはならない。 イエスはこの世に属していない。イエスは御父から生まれ、御父のもとへ行く。わたしたちも、仕えられるためではなく仕えるために来られた方(マルコ104345)、十字架の死に至るまで御父に仕えた「王であるキリスト」に向かって歩むのである。



年間第33日主日     2014年11月16日     「聖書と典礼」表紙解説


福音朗読 マタイによる福音書 25章14~30節

〔そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。〕

「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。 早速、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。 同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。 『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』 主人は言った。 『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。 主人と一緒に喜んでくれ。』 次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。 『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』 主人は言った。 『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。 主人と一緒に喜んでくれ。』ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。 『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、 散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。 御覧ください。これがあなたのお金です。』 主人は答えた。 『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、 持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」

                     冬の手稲山

       説教 場﨑 洋 神父様 於 手稲教会


今日の福音のたとえ話に登場してくるタラントンはギリシアの貨幣単位で、私たちはタレントという言葉で使っています。タレントは言うまでもなく、才能、芸能、能力を意味しています。この貨幣単位はかなりの額になります。一般に1タラントンは16年分の給与になると言われていますから、だいだいの推測は可能かと思います。たとえば月額18万円の給与をもらう人は、年間で216万円になります。そうなると1タラントンが16年分の給与ですから、16掛けると、3456万円にもなります。

 ここに登場してくる2タラントン、5タラントン預かった僕は、商売をしてそれぞれ2タラントン、5タラントンを儲けています。しかし、1タラントン預かったものはそれを土の中に隠しておきました。商売をして預かった1タラントンを失ってしまうことを恐れたからです。

 ここで大切なことは主人(神様)がそれぞれの力に応じて財産を僕(私たち一人ひとり)に預けていることです。要するに預けた金額はそれぞれの才能に併せているものです。この数字の違いはここでは問題にしていません。むしろ、その才能をどのように生かしたかが問われています。けれどもわたしたちは与えられている才能で劣等感や優越感に浸ることが多いのではないでしょうか。特に学歴偏重主義がそうでしょう。学力試験の偏差値によって、成績の順位(=いい人間)を決めてしまうことがあります。

 しかし、それは間違った考え方です。イエスはおのおの与えられた才能の優劣ではなく、その才能をどのように人々のために分かち合ったかを問うているのです。才能は自分の自慢のため、相手を見下すためにあるのではありません。社会のなかでそれぞれ与えられた職業、役割があります。それぞれが役割を果たし、生かし合っていることを忘れてはなりません。もちろん学業に優れている人、芸術に秀でている人がいます。中にはコミュニケーション豊かで個性あふれる人もいます。さらに病気や障がいを担った人に対して同じ目線で交わりを深くし、苦しむ意味、生きる意味を模索して生きている人々もいます。それも与えられた恵みです。才能(タラントン)は自己顕示欲のためのものではありません。才能はすべての人々を支配するためのものでもありません。才能はみんなが幸せになるため、みんなで分かち合うためにあるものなのです。神様から与えられた恵みを真の幸せのために用いていく、それがわたしたちの使命です。

 金子みすずの詩、 「わたしと小鳥とすずと」の中に、与えられた恵みについて描かれています。

  わたしが両手をひろげても / お空はちっともとべないが / とべる小鳥はわたしのように地面(じべた)ははやく走れない / わたしがからだをゆすっても / きれいな音はでないけれど / あの鳴るすずはわたしのように / たくさんうたは知らない / すずと、小鳥と、それからわたし / みんなちがって、みんないい。

 


ラテラン教会の献堂    2014年11月9日  「聖書と典礼」表紙絵解説

福音朗読 ヨハネによる福音書 2章13~22節

ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。
そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、 座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、 両替人の金をまき散らし、その台を倒し、 鳩を売る者たちに言われた。 「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、 「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、 弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、 聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。

           説教   場﨑 洋 神父様


 イエス・キリストの死と復活によって、キリスト教とは地中海一帯に広がっていきました。地中海はローマ帝国の支配下にあり、皇帝にとっては厄介な存在でした。64年、ローマで大火が起こり、皇帝ネロはその犯人をキリスト教徒になすりつけました。多くのキリスト教が殺されては殉教していきました。

 長い迫害が続きましたが、313年にコンスタンティヌス皇帝はキリスト教を信じてもいいという勅令をだしました。これがミラノ勅令です。キリスト教徒にとってそれは本当に大きな喜びでした。皇帝は教会にラテラン家が使用していた宮殿を贈与します。これがラテラノ聖堂の始まりです。要するにヨーロッパに初めてキリスト教聖堂が献堂されたのです。正式に献堂されたのは324年のことです。ローマの司教はここに住み、やがてローマの司教が拡大し、権威をもったことからローマ教皇となりました。今、教皇フランシスコはバチカンのサンピエトロ寺院においでになっていますが、ローマ教皇であっても、ローマの司教であり、聖週間典礼はローマ司教座聖堂、ラテラノ聖堂で聖香油ミサを捧げて典礼を執り行います。ですからラテラン聖堂は教会の中の教会として名高いものになりました。教皇は長い間、このラテラン宮殿に住んでいましたが、14世紀、フランス出身の教皇が選ばれますとフランスのアビニョンに住居を移しました。不幸なことに、ローマとアビニョンが対立して2人の教皇を擁立しました。その間この問題を解決するために教会会議が開かれましたが、そこにまた新しい教皇がたてられたのです。当時、カトリック教会に3人の教皇が自分こそが教皇だと主張し続けたのです(一般にこのことを「教会大分裂」と呼ぶ)。この事態に心を痛めたのが、シエナの聖カタリナでした。彼女は教会が一つであるべきなのに分裂してしまうことを大変悲しまれました。彼女は教皇がローマに戻るべきことを願い手紙をしたためています。こうして教皇がローマに戻るわけですが、その時にはラテラン聖堂が荒れ果ててしまっていました。それで一時、サンタ・マリア・マジョーレ聖堂に住み、その後、サンピエトロ聖堂の建築がはじまったのです。それから教皇は今のバチカン宮殿に住むことになったのです。 さて、イエスの時代にヘロデの神殿があり、まだ完成には至っていませんでした。イエスが生まれる13年前から神殿の建築が始まっていたことになります。このイエスはご自身の体を神殿にたとえました。聖書は魂(ソール)、霊(スピリット)、体を区別しています。体はこの世界とのコミュニケーションの場で感覚意識の世界です。霊は神意識の交わりです。魂は自己が宿っている自己意識、自己の座です。イエスは神殿の境内で商売をする人たちを追い出しました。これは商人たちと神殿の祭司長、祭司との癒着があったからです。イエスは神殿そのものが汚れていることを知っていました。ですから熱意のあまり、商人を神殿の境内から追い出したのです。      

サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ・大聖堂 wikipediaより
サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ・大聖堂 wikipediaより

わたしたちはよく誤解をして生活の実りを感じようとしてしまうことがあります。たとえば、人の意志の力によって、文明の利器を利用して生産される 「プラスチックの実」に、騙されることがあります。人間は、自分の力によって、表面的に、それは早く、便利で、五感で、生みだされやすい「実」の奴隷になりやすいのです。それは、霊によって生み出されたものではありません。わたしたちはいつも外見の実に惑わされてしまいます。それは本当に本物に見えてしまうのですが、その実が様々な試練に出会うと、すぐに負けてしまうのです。霊的実り、それはどんな試練にも耐えうるものなのです。本当の霊の実は、周囲の人たちや、またその人たちの行動に依存する必要がないのです。 本当の霊の実りは神と共にある生活の中から沸き起こります。周りの人たちに現れる実に出会ことがあります。たとえば、愛、励まし、喜び、寛容、親切、善意、柔和などがそうでしょう。でもひと目見ただけでは、その実が本物の実なのか、わからないのです。私たちは見せ掛けの実を装いたいと無駄な努力をしてしまいます。本物の実は、燃え盛る炉の中に入れられて試練の中を通ってきているので動揺することはありません。しかし、偽りの実はプラスチックの実ですから溶けて、なくなってしまいます。キリストはぶどうの木と言われます。それと同じように木の枝の中に本当の命が流れるときにのみ、ぶどうの実はキリストの木に繋がって成長していることになります。それは一晩で容易に生まれてくるものではありませんし、工場で生産することもできないのです。これが現代人の落とし穴です。だから豊かなになっていても幸せになれないのです。もう一度、霊的体について考え、じっくり、黙想しましょう。今日の第一朗読、エザキエル書では、神殿から流れる泉、わたしたちに働きかける神の霊によって新たにされることを教えています(エゼキエル47812)。わたしたちが神の霊に導かれた霊的体になるように努めて参りましょう。霊的体は自己である魂をより豊かにしてくださいます。体は老いていっても霊によって生かされていくことを忘れてはなりません。この霊によってわたしたち一人ひとりが神から創造されたまことに霊的存在として成長していくことができるのです。 ラテラン教会献堂のお祝い日に、わたしたちは自分の体と自分の魂を意識しながら神様から与えられているいのちの霊を招き入れましょう。わたしたちの体が神様のお住まいとなる神殿となりますように。 


----------------------------------


死者の日      2014年11月2日   「聖書と典礼」表紙絵解説

       今日の司式は萱場 基 神父様とフィリップ 神父様です。

福音朗読 ヨハネによる福音書 6章37~40節

[そのとき、イエスは人々に言われた。]「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、 自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、 終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、 子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」


死者の日 説教 2014年11月2日 於手稲教会  場﨑 洋 神父様           

 人間にとって死は、暗闇、暗黒、無、恐れ、不安、未知、終わり、絶望、悲しみ、嘆き、憂い、苦しみ、憂鬱、矛盾、戸惑い、不信など、いろいろな言葉で表現することができます。今年は西アフリカでエボラ出血熱が発生し、いまもなお蔓延し続けていますが、中世においてはヨーロッパを襲った黒死病、ペストは人々に脅威を与えました。ラテン語の警句、「メメント モリ」(memento mori)は 「死を覚えよ」です。人々は貧乏人であろうが、金持ちであろうが、死は必ず訪れるという事実です。中世では「今のうちに楽しめ」、という流行語もあったのですが、逆に言えば、「死を覚えよ」ということと同じなのです。 死はいのちの終焉です。死はいつもわたしたちと隣り合わせです。今日は死者の日ではありますが、死んで世を去った人々のことを思い起こさない人はいないでしょう。思い起こすということは死んだ人は死ではなく今も生き続けているということを忘れてはならないということです。わたしたちは朽ちないいのちを求めて歩んでいます。朽ちないいのちとは、霊的存在として、わたしたちが生きているという証しとなります。キリスト教は死を永遠のいのちの通過地点に過ぎないことを教えています。キリスト者のみならず多くの日本人は、死後のことを語らない人はいません。わたしは天国へ行けるかしら?それとも地獄かしら?わたしは聖人のように立派ではないけれど、少しは善いことをしている筈だと思ってしまったりします。もしかしたら、救いはあるのかもしれないと・・・・?(左上の版画 ミヒャエル・ヴォルゲムート  「死の舞踏」1493年wikipediaより)


カトリックの教えでは天国へ至る途上に煉獄という清めの期間があることを教えています。人は完全に神の愛に従って生きていくことができません。そうです。完全ではないのです。神の御手に招かれる前に、神の愛に招かれて清めに入るのです。信仰深い人間であっても、人生の終わりを迎えた時点で、不完全でありながらも神に近づいていることには間違いありません。人間は不完全のうちに神に近づいていく存在です。煉獄とは自分の生き方に神の愛が照らされているという状態、神の愛に気づかされる霊的体験の世界、浄化とも言えます。ですから、教会の歴史の中で死者の救霊のために祈るという習慣「死者ミサ」が盛んに捧げられるようになった時代がありました。最近と言えば、第二バチカン公会議前まで、司祭は死者の日に煉獄の霊魂のために、ミサを3回続けて捧げなくてはなりませんでした。古い教会聖堂の中に小さな聖堂がたくさんあることに気付いた方もいるかもしれません(ヨーロッパの聖堂には多いです。日本では古い教会にあります)。あれを脇祭壇と言っていました。かつて司祭は共同司式ではなく、個人ミサだったのです。たくさんミサを捧げることによって死者の魂が救われるという信心が続いたのです。しかし、イエスが整えてくださった食卓は死者ミサだけのものではありません。賛美と感謝をもって、すべての人々を愛の宴に招いてくださる慈しみ深い御父がおられることを忘れてはなりません。そういう意味でわたしたちは、生きている者も、死んだ者も、霊的な存在として主の食卓に招かれているという恵みに与ることができるのです。(右上の画像 ダンテ「神曲」挿絵 「煉獄の入り口」 ギュスターブ・ドレ画 wikipediaより)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


年間第30主日   2014年10月26日      「聖書と典礼」表紙絵解説

本日、障がいと共に歩む札幌大会・プレ大会が催されました

今日の司式は森田健児神父様です

福音朗読 マタイによる福音書 22章34~40節

[そのとき、]ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、 一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。 「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。 『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

カ障連・札幌大会(プレ大会)での説教 場﨑神父様  藤女子大学にて

  カ障連のマーク
  カ障連のマーク

今日の第一朗読、出エジプト記で神は言われました。「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。 もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く・・もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである」。第二朗読、パウロがテサロニケの信者に手紙を送っています。「あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、すべての信者の模範となるに至ったのです」。そして福音は重要な掟を宣べています。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。・・・・そして隣人を自分のように愛しなさい」です。なぜ、わたしたちは主の食卓に招かれるのでしょう。それは、神が 神を呼び求める人たちの叫びを聞くからです。神は憐み深い方です。神がその人の心となって、その人のために食卓を整えたいのです。イエスは「隣人を自分のように愛しなさい」と言います。それは自己中心的な愛し方ではありません。人にとって必要な愛とは何でしょうか。子供はもっと愛が必要です。でも、大人になれば愛し方、愛され方が変わっていきます。いままで望んでいたものが必要でなくなったり、もっと違った愛をもとめていきます。主の食卓に招かれたものは幸い、それは、あなたと神だけの関係でしょうか。主の食卓はわたしたち一人ひとりを招いていますが、自己中心的なエゴではありません。エゴは差別と偏見を生みます。しかし、「わたし」から、「わたしたち」に変わっていくことによって食卓は豊かになっていきます。みなさん、みなさんは自分の信仰をどのように証ししていますか。自分の信仰を証しすることは何となく分かるかもしれませんが、隣人の信仰を証しすることはできるでしょうか。隣人を自分のように愛しなさいということは自分も隣人も主の食卓に招かれている者だということを証しすることです。人間は生きている以上、交わり、出会い、対話があります。意識のない患者、声の出せない障がい者さえ、神様から賜った命であることには変わりありません。わたしたち一人ひとりには、それぞれ距離があります。その距離を繋いでくださっているのが、神の憐れみ、いつくしみです。馴れ合いの中にもルールがあります。夫婦でさえルールがあります。関係の中にある憐れみ深い方の存在をどのようにわたしたちは招いているのでしょうか。みなさんは隣人の中に神の憐れみをどのように証ししていますか。イエスは食卓をもって、十字架の死をもって、御父の愛を証しされました。御自身のいのちを、パンとぶどう酒の形でお捧げになりました。パンとぶどう酒は植物です。植物は捧げ物となったとき、何の抵抗もなく捧げられます。しかし、わたしたちはいつもためらいがあり、差別や偏見を生み出して壁をつくります。御父のみ旨を果たすこと、それはイエスのいのちと共に裂かれていくことです。この世の苦しみについて神は生きる意味を与えて、イエスと共に裂かれていくことを望んでおられます。それは感謝と賛美をもって主を証しすることです。それが主の食卓なのです。イエスは自ら食卓を整えてくださっています。それは御父の心を心としたいからです。その食卓は悲しみにあっても、苦しみにあっても、賛美と感謝にかえてくださるものです。 苦しんで死んでいった人々、すでに苦しみ、嘆いている人、悲しんでいる人・・・・・わたしたちはその人たちの証人になれるということを忘れてはなりません。イエスを証しすることは、病床にある人々、悲しんでいる人々の証人となるということです。証人になったからこそ、人々の痛みを知り、イエスの捧げられる宴に招かれるのです。いま私たちはイエスの証人としてここに招かれています。この証しをもってイエスと共に歩んで行くことを喜びとしたいです。わたしたちは病人、障がいをもつ人々の証し人です。主の食卓に招かれることとは、招かれて終わりではありません。あるいは最終到達点、天国でもありません。主の食卓とは、苦しみと喜びとが表裏一体です。わたしたちに正しい苦しみ方、正しい喜び方を教えてくださるイエスからいのちを学び、イエスが整えくださった感謝の典礼に与かることができますように歩んで参りましょう。

-------------------------------------

 

カトリック新聞、キリストの光・光のキリスト (場﨑 洋 神父)

      年間第30主日  1026日(日) 

        隣人愛とは忠実であること 

隣人とは誰であろう。わたしはわたしで、他者は他者である。しかし、他者が隣人となれば、他者もわたしを見れば隣人となる。駅のホームが混雑している。電車を待つ列の中でこんな会話が聞こえる。「どうしてこんなに混んでいるの!」。この人は自分が中心で他者に不平を言っている。他者も自分に対して同じことを言われている、そのことに気づいていない。 「愛する」という動詞は聖書の中では一様ではない。原典から日本語に翻訳することは至難の技である。ギリシア語で書かれている新約聖書をみても愛を使い分けていることが分かる。すでにギリシア世界にはキリスト教が伝わる前に3つの愛があった。情熱的な愛、自己充足な愛をエロス、友情の愛をフィリア、自己奉献の愛をアガペと呼んでいた。これらは人間関係の中で絶えず入り混じっているものだが、イエスはアガペを説き、アガペを実践した。 日本語の「愛」は誤解を生むことが多い。何もかも「愛が一番だね」と頷いたら、恐ろしい世界に引きずりこまれていく。未練、情け、儚さ、憎しみ、嫉妬、見返り、復讐・・・・・。本当の愛し方、愛され方を知らないと、関係性が行き詰ってしまう。完璧な処方箋はない。互いにバランスのとれた共依存になればいいが、それが崩れると、どちらかが倒れてしまう。 「隣人を自分のように愛しなさい」。この聖句を安易に鵜呑みしてはいけない。共に生かしあっていくための隣人愛、相互愛である。正しく理解し、正しく行動しなければならない。相手が望んでいないのに、自己満足のために隣人を愛していることがある。ときには忠実に愛を実行していくためには厳しさも覚悟しなければならない。自分の主体性を失ってはならない。相手の人格に飲み込まれてはならない。自分に忠実であることである。 典型的なのが平和のための戦争である。正義(愛)を行うために戦争をして普遍の平和を構築するというものだ。この戦争は相手国のために平和を悟らしめるためのものだ、と主張する。しかし、その戦争は人類の歴史を見ても繰り返されてきた歪んだ愛国心、支配と権力の病巣になってしまうだろう。 そうすると、「愛しなさい」は、我武者羅に愛することではない。ひとつひとつの物事に忠実であるということである。わたしたちの愛はいつも歪められ、絶えず変化する。しかし、忠実さをもって愛を培っていくことによって、愛の本質は深まっていくだろう。 

 

年間第29主日  2014年10月19日     「聖書と典礼」表紙絵解説

今日の司式はフィリップ神父様です

福音朗読 マタイによる福音書 22章15~21節

[そのとき、]ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、
だれをもはばからない方であることを知っています。 人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。 皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。 「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。 税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。 彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。 「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

-------------------------------------------------------------------------------

 説教        手稲教会にて  場﨑神父様

      手稲教会です

 

札幌教区内で働いていた宣教師から聞いた話です。車を運転しているとき、よくスピード違反で捕まったそうです。お巡りさんに車を止められ追及されたので、神父(宣教師)は英語でペラペラ、分からないことを手振り身振りで伝えというのです。結局、お巡りさんはあきらめてしまいました。すると神父は車窓からきれいな日本語で「どうもありがとうございました」と言って車を走らせたということです。わたしも司祭になって車を走らせていたとき、よくスピード違反をして捕まったことがありました。ある時は夏期学校の準備もあって忙しかったので罰金を振り込むのを忘れてしまいました。すると警察本部から出頭命令が下りました。それですっかり忘れていたことを伝えると近くの郵便局で振り込むことになりました・・・・・。わたしたちは社会的人間ですから、社会的義務として税金(法人税、消費税など)を納めることになります。その税金で道路、橋、線路、施設、病院などの公共施設をつくります。イエスの時代にも税を納める義務がありました。ユダヤ人には10分の1税といってユダヤ教組織を維持管理(祭司、神殿維持)していくために税金を納める義務がありました(穀物の10分の1もあった。レビ記、申命記)。またローマ皇帝の支配下にありましたから、いく先々で通行税(徴税人)などが支払われました。今日の福音ではファリサイ派の人々はヘロデ派の人々と結託してイエスを罠に掛けようと企みました。彼らが企んでいたことは、ローマ皇帝に支配されていたユダヤ人社会での矛盾です。それは「皇帝に税金を納めることは、律法にかなっていることか?かなっていないか」ということです。ヘロデ派はローマ皇帝から庇護されて分国王としてパレスチナを統治していました。ファイサイ派の人たちには唯一の礼拝の場所、神殿があって、神殿税を納めることは義務ですから、ローマ皇帝を神と崇めているローマのために税金をおさめることは汚らわしい行為だったのです。もし、イエスが「皇帝に税を納める必要はない」と言ったとしたら、ローマ皇帝に逆らうことになります。また「神殿税は必要なく、ローマの税を納めさせなさい」と言えば、ユダヤ人たちから非難されてしまいます。イエスは何と答えたのでしょう。イエスは彼らに「デナリオン銀貨を見せなさい」と言いました。イエスは「これは誰の肖像か」と尋ねると、彼らは「皇帝のもの」ですと答えました。それでイエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われました。この言葉にはこれ以外、深い意味を加えられていませんが、わたしたちが単純に理解すると、「国に治める税金はきちんと納めなさい。そして神に返すものはきちんと神に返しなさい」と考えます。しかし、皇帝のものは皇帝であっても、すべてを支配するものは神であることを知らなければなりません。わたしたちにとって、生きている限り、与えられた義務と責任を負います。イエスが示したデナリオン銀貨には皇帝の名が記されていますが、神の名はどこにしるされているのでしょうか。神の名が刻まれているのは私たちの魂でしょう。わたしたちの魂に神の銘が刻まれていることを忘れてはなりません。わたしたちは社会的人間ですから果たすべき義務は生じてくるはずですが、もっと深いものに導かれていくことも知っています。そして、この世界を創造したとき、神は「我々にかたどり、我々に似せて人を造ろう」(創世記1:26)と言われました。人間は神のかたどりなのです。神の刻印が押されているということです。受難劇のなかでイエスはこうも語っています。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」(ヨハネ1836)。イエスは御父から生まれ、わたしたちをいざなってくださっています。わたしたちもイエスの後に従って、神から与えられたいのちを神への捧げ物としてささげていきたいです。わたしたちも日々社会的義務を担っていますが、それ以上に人生そのものの生きる意味を探究してやみません。わたしたちは神に自分の魂をどう委ねていくのでしょうか。今日の福音から問いかけられていると思います。

---------------------------------------

 

 

年間第28主日  2014年10月12日     「聖書と典礼」表紙絵解説」

福音朗読 マタイによる福音書 22章1~14節

[そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに語られた]たとえを用いて語られた。 「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。
 王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。
『招いておいた人々にこう言いなさい。 「食事の用意が整いました。 牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。そして、家来たちに言った。 『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、 見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。」 王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。 王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、 王は側近の者たちに言った。 『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」

--------------------------------

                      説教

           マララ・ユスフザイさん
  マララ・ユスフザイさん

 パウロは手紙の中で感謝を述べています。「満腹しても、空腹であっても、物が有り余っていても、不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めて下さる方のお蔭で、わたしにはすべてが可能です。それにしてもあなたがたは、よく、わたしと共に苦しみを共にしてくれました」(フィリピ41214)。ノーベル平和賞委員会はノーベル平和賞をパキスタンで女子教育の権利を求め、2年前に銃撃され、奇跡的に生還したマララ・ユスフザイさん(17歳)に与えると発表しました。女子教育の未来のない環境の中で、タリバンの恐怖にも動じない不屈の精神をもったマララは世界の人々に勇気と感動を与えました。彼女は毅然として語ります。「銃弾が私たちを黙らせようとするやり方は終わりました。一人の子供、一人の教師、一冊の本、一本のペンが世界を変えるのです」。「わたしが死ぬなら、二つの死に方があります。戦わないで死ぬこと。もう一つは闇に打ち勝つために死ぬことです。わたしは後者の方を選びます」。マララの原動力はどこからくるのでしょうか。銃弾の闇に立ち向かうマララの姿は先週のぶどう園のたとえの神の子・イエスの姿に似ています。神の愛はぶどう園の収穫や、今日の第一朗読(イザヤ)の宴会のたとえで語られています。今日も天の国についてイエスはたとえで話されました。それは王が自分の王子のために婚宴を催したのに似ているということです。王が王子のための婚宴に人々を招待しましたが、出席しませんでした。王は牡牛や家畜を屠ったというのにどうしたのでしょうか。しかも、すでに婚礼の準備が終わり、来るのを待つだけなのです。王は家来たちを使いに出しましたが、人々はそれを無視して商売をし、しまいには王の家来たちを殺してしまいました。この招かれた人々とはイエスの時代に権力を握っていた祭司長や長老たちのことです。王子とは神の子イエス・キリストです。そこで王は彼らを滅ぼしてしまいます。王はこれに怒り、家来たちに「大通りへ行って、善人も悪人も招くように」と命令します。これはイエスが招いた罪人や善人、異邦人たちです。しかし、その中に礼服を着ていない者がいたのです。この礼服とは何でしょう。神の子の食卓に招かれたものは幸いなのですが、神の子が示された愛に感謝することをしない人たちです。神の愛の価値を受け入れ、心から感謝していないこということです。礼服とは感謝です。結婚式でも葬儀でも、やはり私たちは敬意を示します。身だしなみや、おしゃれもその一つかもしれませんが、大切なのは感謝する心なのです。今日は赤ちゃんの洗礼式がありますが、最後の晩餐の送別のことばでイエスはこう言います。女は子を生む時に苦しむものだ。しかし、一つの命が生まれると、その喜びのために苦しみを思い出さない。苦しみが感謝に変わるからです。詩編のなかにもあります。「夜は嘆きに包まれても、朝は喜びに明け染める」(詩編306)。「あなたは粗布を晴れ着に替えてくださった」(3012「涙のうちに種蒔く人は、喜びのうちに刈り取る」(1265婚礼の服とは感謝と賛美のあらわれなのです。 マララ・ユスフザイは昨年の国連演説(201310月)で感謝と賛美を捧げていたのですから。「・・・・・どこからスピーチを始めたらいいでしょうか。みなさんが、私にどんなことを言ってほしいのかはわかりません。しかし、まず、はじめに、我々すべてを平等に扱ってくれる神に感謝します。そして、私の早い回復と新たな人生を祈ってくれたすべての人たちに感謝します。私は、みなさんが私に示してくれた愛の大きさに驚くばかりです。世界中から、温かい言葉に満ちた手紙と贈り物をもらいました。それらすべてに感謝します。純真な言葉で私を励ましてくれた子どもたちに感謝します。祈りで私を力づけてくれた大人たちに感謝します。・・・・・これは、私がガンディー、マザー・テレサから学んだ非暴力という教えなのです。そして、これは私の父と母から学んだ『赦しの心』です。まさに、私の魂が私に訴えてきます。『穏やかでいなさい、すべての人を愛しなさい』と。」(以上、201310月、国連での演説から抜粋)。・・・・・わたしたちもイエスと共に賛美と感謝と典礼にあずかりましょう

---------------------------------------------------------

 

 

 

年間第27主日  2014105日     「聖書と典礼」表紙絵解説」

今日の司式は新海雅典 神父様 です

福音朗読 マタイによる福音書 21章33~43節

[そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに言われた。]「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、 見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、 僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、 一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、 主人は自分の息子を送った。 農夫たちは、その息子を見て話し合った。 『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」 彼らは言った。 「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」イエスは言われた。 「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。 『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。

--------------------------------------------------------------------------------------------

説教   手稲教会にて  場﨑 洋 神父様

今日のイザヤの預言は神の慈しみの愛に応えないイスラエルの頑なな有様を実らないぶどうの木として語っています。「わたしの愛する者は、肥沃な丘に、ぶどう畑をもっていた。よく耕して石を取り除き、良いぶどうを植えた。・・・・・しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに、なぜ酸っぱいぶどうが実ったのか・・・・」(イザヤ515) 

そしてイエスは人類の歴史のなかで御父がなさってきたことを、たとえをもって話されました。このたとえ話はたとえ話の中でも最も残忍な内容です。このたとえ話に登場する主人は、ぶどう園をつくり、垣を巡らして、その中に絞り場を設け、見張りのやぐらを建て、これを農夫たちに貸しました。この主人は救いの歴史の中に働いておられる慈しみ深い御父、神です。 

たとえで主人は収穫のために、ぶどう畑に僕を送っています。しかし僕たちは農夫たちに袋叩きにされて殺されてしまいます。この農夫たちは、ユダヤ権力者、祭司長、長老、ファリサイ派の人たちのことを指しています。僕は旧約の預言者たちです。イスラエルの権力者は預言者たちを受け入れませんでした。そこで主人は最後に自分の最愛の息子をぶどう園に送ったのですが、これは跡取りだと言って、ぶどう園の外に連れて行き殺されてしまいます。この遣わされた最愛なる息子とはイエス御自身のことです。 

他の箇所でもイエスは悔い改めない権力者たちのために嘆いているところがあります。 

「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外のところで死ぬとは、ありえないからだ。エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ。めん鳥がひなを羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度も集めようとしたことが。だが、お前たちは応じようとはしなかった」(ルカ133335)。 

今日の福音の中でイエスは詩編118を引用して「家造りの捨てた石が隅の親石となった」と語ります。捨てた石とはイエスのことです。捨てられてしまったイエス、それはエルサレム郊外、ゴルゴタの丘で十字架に磔にされ殺されたイエス自身です。しかし、それは捨てられて終わりではないのです。御父のみ旨を全うしたからこそ、イエスは高みにあげられ、すべてに勝る名を与えられたのです。 

  人類の歴史は救いの歴史と言われます。反対にわたしたち一人ひとりと神様との歴史を語ることも必要です。わたしたちの命にたえず語り掛けてくださってきた霊的歴史を振り返るのです。 

神は絶えずわたしたちがよいぶどうになることを望んでおられます。 

第二朗読のフィリッピの手紙が一番分かり易くわたしたちへ勧告しています。この勧めのことばの冒頭に自分自身の名前〇〇〇を入れて味わってください。みことばは今もわたしたちの中で生きているのです。 

「〇〇〇よ、・・・どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いとを捧げなさい。・・〇〇〇よ、・すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なこと、・・・・・・そして実行しなさい。 

そうすれば平和の神は〇〇〇と共におられます」(469)。 

 これから洗礼式が執り行われます。洗礼を受けられる金野惣さん、今日あなたは神に召され、神の子として新しい人となります。キリストを着る者として新しい道を歩んで下さい。あなた一人で歩むのではなく、神がいつもあなたと共に歩まれます。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

年間第26主日       2014年9月28日        「聖書と典礼」表紙絵解説

札幌地区使徒職大会 

テーマ「信仰者として障がいと共に歩むために」 

会場:光星学園 

 

福音朗読 マタイによる福音書 21章28~32節

(そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに言われた。)

「あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」

説教 

 つらいこと、大変なこと、望まなかったこと、孤独を感じること、それがなかったとしたら、本当にわたしたちは幸せになっているでしょうか。 もし、そんなことは、ありませんという人がいましたら、教えてください。そのような人がいたら、本当の人間ではないと思います。皆さんから見て、この世の中に、幸福に暮らしている人がいると思うかもしれません。しかし、ひとつひとつの家、屋根の下ではどのような物語があるでしょうか。おそらく、すべて思い通りに行って、楽しい生活をしている人なんかいないでしょう。みんな何かを背負い、何かに迷い、何かに苦しんでいると思います。子供の問題を抱えていたり、親が問題を起こしたり、病気の家族がいたり、自分が病気であったり、障がいを抱えていたり、老いていくことに対して悲観的になったり、儚さを感じたり、心の問題があったり、経済的な問題があったり、子供が引きこもっていたり、家族の不和であったり、財産争いであったり、・・・・実に数え切れないことが屋根の下で起こっているのです。はっきりいいますと、これが人生なのです。この人生のなかで何を求めて歩んで行くのでしょうか。その重荷をどう受けとめ、どう考え直し、どう生きていくか、それが障がいと共に歩む教会の姿、イエスが述べ伝えた福音なのです。 

 来年の82223日。障がい者が一つに会しての全国大会が札幌、藤学園で開催されることになりました。昨年の1月に、全国大会に向けて、実行委員会が発足いたしました。初会合のとき「障がい者とは何か」から議論が始まりました。障害者手帳を持っているひとがそうなのか。何を基準にして定めるのか・・・・、いろいろ議論を交わしました。話し合いをしていくうちに、生きづらさを抱えて生きているのは、わたしたちひとりひとりだということに気づかされたのです。わたしたち実行委員会は、障がい者という名称に囚われるのではなく、みんなが背負う苦しみ、生きづらさ、それを、みんなで考え、気づいていくことから始めることにしました。ですから「障がいと共に歩む札幌大会実行委員会」というなまえで準備し活動を行っています。これはわたしたちの教会とはまったく別のものではなくありません、教会の核心になるものなのです。イエスが述べ伝えた福音は病者や障がい持った人たちへ救いになります。頑なな心をもった人には束縛から解放されるという気づきががあります。 

キリストによって集められた場所は教会と言われいます。わたしたちは安定を求め過ぎてしまいますと、キリストのまなざしは失われてしまいます。反対に弱さの方にだけ行ってしまうと、弱い人間ですから、つぶれてしまいます。倒れてしまいます。

知的障がい者と一緒に歩んでいるジャン・バニエ、今年86歳になりますが、彼は「人間になる」という書物の中で二つの方向性についてこう語っています。・・・・・・二つの方向性が調和するならば、生きる力と、本当の一体感が失われないで、深まるだけではなく、他者に生きる力を与え、また受け取ることもできるようになります。そのときはじめて、共同体は真に「人間になる」ための環境になり、全員が心を開いて自由になります。そして共通の目標に向かって歩むことができます。 

 ですからイエスは、絶えず、福音の中で、わたしたちがみな同じ人間だということを教えているのです。ユダヤ人だけではなく、異邦人にも救いを述べ伝えています。 

大切なことはわたしたち一人ひとりが自分自身の美しさと自分の豊かな可能性を信じるようなるためです。それが共同体にとって大切なことなのです。 

そのために神は自ら人間になったのです。今日の第二朗読、パウロのフィリピの手紙は、救い主、キリストとはどんな人だったのかを伝えている有名な箇所です。 

 「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高くあげ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」。 

 神はわたしたちに真の「人間になる」ことを教えられたのです。そのためにわたしたちは愛に向けられて創造されているのです。 

まことの人間とは何でしょう・・・・これだ。あれだとか、はっきり分からないでしょう。でも、求めれば分かってきます。今日の福音にもありますように「考え直す」ことによって引き出されていくものです。 

最後に星野富弘さんの詩を読んで終わります。星野さんは教師になった24歳のとき、鉄棒から落下し、頸椎を損傷、手足の自由を奪われました。絵筆を口にくわえて花を描き、詩をつくるのが彼の人生となりました。今年68歳になります。彼は何日もかけて絵と詩をかきます。彼の「きく」という詩を朗読します。そこにこそ人間になるための真理、幸せが隠されています。真の教会もこの姿に似ているのではないでしょうか。そこに本当の幸せが隠されていると思います。生きづらさをもったわたしたちも、この詩で慰められます。星野さんもまた人間になるために生まれてきたのですから。

 

 

    「きく」

 

よろこびが集まったよりも

 悲しみが集まった方が  

 しあわせに近いような気がする  

 

 強いものが集まったよりも 

 弱いものが集まった方が 

 真実に近いような気がする 

 

 しあわせが集まったよりも 

 ふしあわせが集まった方が 

 愛に近いような気がする。

 

 

 

カトリック新聞 キリストの光・ 光のキリスト より

2014年9月28日  札幌教区 場﨑 洋 神父

           考え直すこと

「お父さん、承知しました」。今日の福音の中で、一番気持ちのいい言葉ではないだろうか。わたしたちもこのような言葉をよく口にする。だが、そのときはそうでも、時間が経つと、なかなか行動には移せない。しまいに「忙しくて」などと言い訳をしたくなる。他人の目を気にして、気前のよさを演じ、しかも相手の承認をとりつけたくて、その場しのぎに徹する。どうして素直に「はい」と言えなかったのか、いつもふっ切れぬ優柔不断の迷いがあって然りである。イエスの時代、娼婦や徴税人たちは律法を順守しているという自信は全くなかった。しかし、彼らは自ら罪びとであることを自覚し、日々負い目を感じて生きていた。それに対して祭司長や長老たちは自分の生き方を考え直すどころか、律法を盾に、美辞麗句を並べては権力を貪っていた。 十数年前、ある女性から電話が入った。「教会では水子供養はしていますか?」。彼女は結婚を前に悩み続けていた。以前に堕した経験があったのである。「水子供養というものはありませんが、お祈りすることができますよ」と助言した。すると「ぜひお願いします」と藁をもすがる声だった。かつてキリスト教系の病院に勤めていたこともあり、尊いいのちを殺めてしまったという良心の呵責に苦しめられていたのである。静まり返った聖堂で祈りを捧げた。彼女が赦しを求めてきたことを神に感謝した。愛と希望のうちに新しい結婚生活を送ることができるよう頭に手を置いて祝福した。彼女の眼から涙が流れた。苦しみ悩みながら考え直した彼女はまさに御父の懐に抱かれていた。 教皇フランシスコは言う。「・・痛みをもって述べたいのですが、貧しい人が苦しんでいるもっともひどい差別とは、霊的配慮の欠如なのです・・・彼らに、神の友情、神の祝福、神のことば、秘跡の執行、信仰における成長と成熟の道を促し、これらを差し出すことをやめてはなりません」(「使徒的勧告「福音の喜び」)。 今日、登場してきた兄は考え直して神に立ち返ったのである。まさしく回心する徴税人の姿である。「徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんで下さい』」(ルカ1813)。パウロも考え直したからこそ、貧しい人々に対して、愛の慰め、霊による交わり、慈しみや憐れみの心を抱くようわたしたちに勧告している。それは神の身分でありながら、僕の姿となったキリストの愛、キリストの十字架に圧倒されたからである。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

年間第25主日      2014年9月21日

今日の司式はフィリップ神父様です

 

福音朗読 マタイによる福音書 20章1~16節

1 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

 

 

イエス様の時代ではありません。現在南アフリカにあるブドウ園です
イエス様の時代ではありません。現在南アフリカにあるブドウ園です

 説教(原稿)  場﨑洋 神父様      手稲教会に於ての教話 

 

 イエスの時代、秋が深まってくると、ぶどうの収穫が急ピッチで行われます。ある限られた時期にぶどうを刈り取らないと雨期が始まり、残ったぶどうは腐って台無しになってしまいます。そうなると猫の手も借りたいほどの大忙しになります。イエスはこのような収穫の時期の風景を幼い頃からごく自然に見てきました。また労働者たちがぶどう園の主人から報酬を受け取っていく様子も興味深くご覧になっていました。 今日のたとえでは、主人から1日、1デナリオンで雇われた労働者たちが登場してきます。1デナリオンとは日当のことです。国によってちがいますが、日本で考えると5000円くらいでしょうか。さて、労働者が雇われた時間は、それぞれ午前9時、午後0時(お昼)、午後3時、午後5時です。そして、主人が働いてもらいたい時間帯は午前9時から午後6時まででした。主人は時間になったところで僕(しもべ)に命令して最後にきた者たちから順番に約束した1デナリオンを支払いました。ところが午前9時に雇われた者たちが不平を言いました。「最後にきた連中は、一時間しか働きませんでした。それなのに、まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは」という不満です。このたとえ話をはじめて読まれて方は、9時に雇われた労働者の気持ちに同情してしまうのではないでしょうか。もし、このやりとりが現在の雇用契約ですと、労働基準局からお叱りを受けてしまうでしょう。ここでは契約書がないにしろ、1日、1デナリオンという約束で了解していますから不正ではないでしょう。しかし、このたとえ話は一般の雇用関係のことを語っているのではありません。イエスは、わたしたちが神様から招れていることを労働者のたとえをもって話されたのです。神様はぶどう園にすべての人々を招いています。この招きは、後の者も、先の者にも同じ賜物を注いでいる憐われみ深い神様の存在です。 たとえばわたしは生まれてからすぐに洗礼を受けているから、他の人より、特にお恵みを沢山いただいているということではありません。信仰をもつことによって今まで以上に、神様の愛、神様の素晴らしさを感じることができるという恵みです。イエスが十字架上で一人の犯罪人を迎え入れたことを思い起こしてください。犯罪人の一人がイエスに言いました。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。するとイエスは「はっきり言っておくが、あなたが今日わたしと楽園にいる」と犯罪人に言われました。 この犯罪人は、生まれてから、これまで神に仕えていた善い人たちと同じように 天国の宴(うたげ)、永遠のいのちに与ることができたのです。 日本で生まれた言葉で「天国泥棒」があります。今までは悪いことをして、死が近づいたときに、天国に入るために洗礼を受けるということです。でも、人生は そう、うまくいくものではありません。神様はこの人生のなかで神様のみ旨が行われることをわたしたちに働きかけています。ぶどうの収穫は、いのちの輝き、いのちの喜び、いのちの喜びです。人生の半ばになると、わたしたちは、自分はもう駄目な人間だとあきらめてしまうことがありますが、神様は決してそれを望んでいません。60歳でも、70歳でも、80歳でも、90歳でも、決して遅くはありません。今、このとき、この瞬間、神様は、わたしたちを「まことのいのち」へと招いてくださるのです。わたしたちは 神様の呼びかけに、「はい」と答えていきたいです。神様はすべての人々を愛し、同じ賜物を与えたいほど、この世を愛してくださっているのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

十字架称賛         2014年9月14日

今日は場﨑神父様、フィリップ神父様の共同司式でした。

 

 

福音朗読 ヨハネによる福音書 31317

 

[そのとき、イエスはニコデモに言われた。]天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

 

キリストとニコデモ  1896年  フリッツ・フォン・ウーデ

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

年間第23主日    2014年9月7日

 

今日は森田神父様、フィリップ神父様の共同司式でした。

トピックス 
今日の手稲教会のミサは、藤女子大学の聖書講座のため来札されていた和田幹男神父様(大阪教区司祭)と共同司式でした。神父様は1938年神戸市生まれで、お父上は教会の伝道師でした。1966年に司祭に叙階され、今現在、梅田教会で共同司牧をしています。ローマで聖書学を学び、大学や神学校では聖書学を教え、共同訳のときは翻訳作業にも従事しました。著作も多く、今日は2010年に書かれた「死海文書聖書誕生の謎」(ベスト新書)をプレゼントされました。今日は突然の来訪に感謝し、お説教をしていただきました。特にエゼキエル書の「見張り」という言葉を引用し、外敵、すなわち悪人に神の言葉を伝えて、その責任を担うことを話されました。エゼキエルの深いところは石の心を取り除き、真の霊を送ってくださるよう願う聖霊の賜物です。写真はミサ後、香部屋での一枚です。

福音朗読 マタイによる福音書 18章15~20節 

「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。 言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。 すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。 教会の言うことも聞き入れないなら、 その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。  はっきり言っておく。 あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、 あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。 また、はっきり言っておくが、 どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、 わたしの天の父はそれをかなえてくださる。 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、 わたしもその中にいるのである。」

      フィリップ神父様

説教 年間第23主日  201496日(バザー前日の説教)

場﨑 神父様

       9月6日の北26条教会夜景
       9月6日の北26条教会夜景

 アシジのサンダミアーノ聖堂でフランシスコ(1182122644歳で帰天)が祈っているとき、十字架から声が聞こえてきました。「フランシスコ、フランシスコ、わたしの教会が崩れている、建てなおしなさい」。マザーテレサ(1910199795日、87歳で帰天)はカルカッタからダージリンに行く汽車の中で神の呼びかけ聞きました。「スラム街に行き、貧しい人々の中にいるわたしに仕えなさい」。フランシスコは壊れた教会を直し始めました。マザーは修道院を出て庶民が着るサリーをまとい、不毛の地、スラム街へ向かいました。フランシスコもマザーテレサも貧しい人々の中にあるイエスの交わりを見出していきました。イエスは二人、または三人がわたしの名によって集まるところにわたしもいると語られました。 

教皇フランシスコは使徒的勧告「福音の喜び」の中で霊的な聖俗性について述べています。霊的な世俗性は、それは主の栄光ではなく、人間の栄光と個人の幸せだけを求めようとしています。いつも相手から多くの誉れを受けているのに、神の誉れを受けようとしないのです。あるいはわたしたちはイエスを装って、目先のことを追い続け、歪んだ心、巧妙さをいつも獲得しようとします。福音を述べる代わりに、他者を分析し、格付けし、裁いているということです。もし、信仰が希少価値になっているとしたら、世の中が自己中心、利己主義になっていることでもありましょう。まさに今の世界がそうです。 

 福音の中のポイントとなる言葉は「忠告」です。これは「光の中に連れて行き、光にさらす」と言う意味です。個人が裁くのではなく神の愛によって裁かれるということです。 

第一朗読のエゼキエル書では「見張り」がポイントです、外敵が来るのを待ち構えるように耳をそばたてている姿、神の声に耳を傾けるという姿勢に変わります。そして悪人に神の言葉を告げるのです。告げるということは、告げたことに責任をもつということです。イエスは罪人を招くために来られたからです。 

イエスは「互いに愛し合いなさい」「隣人を自分のように愛なさい」といいます。 

わたしたちは自分も隣人であり、となりの人も隣人であることを知り、互いに愛されていることを学びます。これほど分かり易い福音はありません。同時にこれほど難しい福音はありません。人間関係に様々な負い目があります。しかし神の前では、どんなに努力しても借りが残ってしまうものです。 

いい出会いを求めていくためには、自らの苦しみをよい出会いとしなければならないでしょう。希望はかならず、叶うものでしょうか?自分の抱いている希望は叶わないことが多いでしょう。でも、大切なのは希望を失わないことです。違った形で訪れます。 

わたしたちはこの世に生きて、自分は人生に成功したのか、失敗したのか、この世での結果、成果をとても気にしてしまうものです。しかし、大切なのはいかに神に忠実であったということが求められます。 

さらに出会いのなかに、どんな意味があったのか、イエスはその出会いに何を望んでおられるか思い巡らすことが大切です。 

人生の終わりに残るものは何でしょう。わたしたちが努力して集めたものでしょうか。いいえ、違います。わたしたちが集めたものではなく、与えたものだけが残ります。 

マザーはイエスのいのち、フランシスコの生き方を愛しました。愛されることよりも 愛することを、慰められることよりも 慰めることを、理解されることよりも 理解することを 

すべて、集めたものではなく、すべて、与えたものだけが残るのです。愛したこと、慰めたこと、理解したことです。それによって真の恵みに与るのです。わたしたちは最近、老いを意識することが多いと思います。しかし老いを意識することによって、人はより豊かに、より謙虚に、より柔和になります。どうか、わたしたちの家庭、職場、教会のなかでイエスが宿りますように、互いにイエスの交わりに招かれますようにお祈りいたしましょう。 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

年間第22主日        2014年8月31日

今日の司式は山鼻・真駒内教会主任司祭 宋榮峻 神父様(こちらをご覧ください)です

涙のペテロ  バルトロメ・エステバン・ムリーリョ 1650年~55年 wikipediaより
涙のペテロ  バルトロメ・エステバン・ムリーリョ 1650年~55年 wikipediaより

福音朗読 マタイによる福音書 16章21~27節

(その時)イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、 長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、 三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。 「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。 「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。 神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、弟子たちに言われた。 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、 自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。

                宋 榮峻 神父様

エルサレムの破壊を嘆くエレミヤ レンブラント 1630年
エルサレムの破壊を嘆くエレミヤ レンブラント 1630年

説教 場﨑 洋 神父  山鼻教会にて 

 

1987頃 司祭になる2年前 27年前になりますが、茨城県の全国勝田マラソンに友人の神学生4人と出場しました。フルマラソンですから、42,195キロメートルを完走しなくてはなりません。1位と2位は、ボストンマラソンに招待されます。それは無理かもしれませんが、いい成績を狙いながらスタートしました。なかなかいいスタートです。このままだと2時間代がでそうです。前半はどんなもんだいと自慢しながら走っていました。ところが、どうでしょう。若い女の子に抜かれます。オジさんにも抜かれます。しまいにはオバさんにも抜かれます。そんなはずはないと思いながらどんどん抜かれてしまうのです。30キロ地点になると、足が固まってしまって、走るのが難しくなり歩くので精一杯でした。すると近くで応援した市民のオジさんが喝を入れます。「おい、がんばれ、お前だけが苦しいのではないんだぞ。みんな苦しんだぞ!走れ!」。そのときは、反発もする力もありませんが、心の中で「このオヤジめ、俺の苦しみを知らないくせに」と背中で睨みつけていました。・・・・・すると今度は、おばあさんから一本のバナナを手渡されました。これが何と不思議、頬張ると 何とおいしいことでしょうか。涙がでてくるではありませんか。こんな美味しいバナナ、生まれて一度も食べたことがありませんでした。・・・・・再び走り続けました。そしてどうにか、ふらつきながらもやっとゴールにたどり着きました。4時間9分。「わたしの負けです。あなたの勝ちです」。自分は傲慢でした。マラソン大会は人生物語です。今日のエレミアの告白と同じです。

 

 第2朗読でパウロは「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして捧げなさい」(ローマ12・1)と語り掛けています。パウロはおのおの与えられている体は神様に喜ばれる賜物であり、神様のために捧げられるいけにえとなるようにすすめています。

 

第一朗読のエレミアは繊細な性格の預言者です。若い時に神から召され、イスラエルの民のために神に立ち返ることを常に叫び続けました。今日のエレミアの言葉はこうです  「あなたに惑わされて、あなたに捕えられました。あなたの勝ちです」  「主の名を口にすまいと もう、その名によって語るまいと思っても 主の言葉はわたしの心の中で燃え上がります。押さえつけられて、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです」(エレミア2079)。どんなに自分の力で成し遂げようとしても、限界があります。神から逃れよとして逃げ回っても、神の御手から逃れられることはできません。エレミアの苦悩は果てしなく続いて、行く果ては、神の前に頭を垂れています。「あなたの勝ちです。わたしの負けです」と言うのが彼の告白です。

 

こんなお話があります。一人の重篤な病人が病院に搬送されてきました。二人部屋の病室、その廊下側に入室しました。すでに窓側にも患者さんがいて、運ばれてきたばかりの患者のことを気遣っていました。廊下側の患者さんが少しずつ、回復してくると言葉を発することができるようになりました。すると、窓際の患者さんはいろいろと気遣ったり、慰めたり、励ましてくれるのです。「窓からは草木が見えますよ。親子連れの風景がありますよ。ずっと向こうには山が見えます・・今日はとてもいい天気で・・・・」 このように窓際の患者は、廊下側の患者に外の様子を話し励ましつづけました。ですから廊下側の患者は次第に幸せを感じていきました。ところが、このような状態が続いてくると、廊下側の患者が、窓際の患者のことを恨むようになりました。自分で外の風景が見られない悔しさを感じたからです。それからほとんど口をきかなくなくなったのです。ある夜です。窓際の患者さんの具合が悪化しました。息が荒々しく、苦しんでいました。呼び出しボタンを押してあげればよかったのですが、廊下側の男はそれをしませんでした。しばらくすると、窓際の男は静かになりました。何の息もしなくなりました。早朝、女性の看護師が回ってくると、異変に驚き、すぐに宿直の医師を呼びました。彼はすでに息を引き取っていたのです。死んだ患者は病室から運ばれていきました。それで廊下側の患者が看護師にお願いしました。「すいません。窓際に移りたいのですが、できますか?」「はい、できますよ」「それではお願いします」看護士は廊下側の患者を窓際に移しました。そして一人になった患者はゆっくりと体を起こして窓の外に目をやりました。そのとき、彼は言葉を失いました。そこには何の風景もなかったのです。人影も、草木も何もないのです。彼の見たものはコンクリートの壁、塀だったのです。彼は自分の愚かさを悔いました。死んだあの男は自分のために、励まし、慰めの言葉を注いでくれていたことを知ったのです。窓際の患者と、廊下側の患者の思いはそれぞれ相手を思いやる心と自己中心的な心が交差しています。

 

今日の福音でイエスが道を示します。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。たとえ全世界を得たとしても自分の命を失ったら何の得があろうか」。この言葉はイエズス会を創立したイグナチオ・ロヨラが、この世の富み、地位を得よとして軍人から神の召し出しを感じたとき、回心に至らしめた聖書の箇所です。イエスは御自身が歩む道、十字架の道を示されました。それは多く苦しみを受けて殺され、三日目に復活するということでした。弟子のペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めました。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」。イエスは振り向いてペトロに言われました。「サタン、引き下がれ、あなたはわたしの邪魔をする者、神のことを思わず、人間のことを思っている」。それでイエスは自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさいとおっしゃったのです。もし、福音書からイエスの受難、十字架を抜き取ってしまったら、福音は何の意味を持たなくなります。わたしたちは自分の十字架を背負って自分の生涯が歩いていかなくてはなりません。それとも、ペトロのように十字架を避けて生きていきたいでしょうか。あるいは、神のことを思う生き方を選択しますか。

 

先ほど、二人の患者さんが登場してきましたが、二人の生き方は対照的でした。日々の生活の中でも窓際の患者になるか、廊下側の患者になるか問われています。愛していることが、憎しみや、妬みなったりすることがよくあります。わたしたち一人ひとりに与えらている十字架を思い起こし、それを受け留めて歩んで行くことが求められています。日々、自分で背負っていく十字架でありますが、多くの人々に支えられて背負っている十字架であることも知らなければなりません。わたしたちは神の前で頭を垂れて、信仰を証しします。わたしたちは神の前では勝利することができません。「わたしの負けです。あなたの勝ち」なのです。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

場﨑神父様はミサ後、カ障連関係での講話をなさいました。その中で、今回の甲子園大会で優勝した大阪桐蔭高校主将・中村誠さんが中学3年の時に書いた作文を紹介しました。内容は障害についてですが、内閣総理大臣賞を受賞しています。

          「友から学んだこと」 

中村 誠
(福岡県・糸島市立志摩中学校3年
) 

僕には、絶対叶えなければならない夢があります。僕には体に障害を持った友達がいます。体の右半分はマヒしていて、右手はブラブラしていますが、右足は少し動くので介助すると歩くことができます。えん下障害もあるので食べ物は細かくきざんだ物にとろみをつけて介助でゆっくり食べれます。水分は多く飲めないでお腹に開けた胃ろうからチューブを通して注入します。それから失語症もあり全く声が出ません。文字盤も使えないので自分の意志を伝えることはできないのです。とても不便な生活を送っています。その友達と知り合ったのは僕が小学五年生の頃、四年前です。僕が野球の試合に出るようになり、対戦相手だった子と友達になった。その子は同級生と思えないくらいに野球が上手だった。ポジションも一緒だった。試合にも負けた。僕はとても悔しかった。「絶対に負けたくない」この気持ちを胸に僕は一生懸命練習した。小学生の最後の大会の決勝戦でそのライバルのいるチームと戦った。延長戦で僕のチームが優勝することが出来た。でも僕は勝ったとは思えなかった。だから中学生になっても別のチームで戦っていくことを約束した。しかしその友達といるチームとの試合があっても友達はいなかった。友達は障害者になっていました。障害者になって三年になります。三年前のある日を境に突然障害者になってしまったのです。原因は病気です。本当に急な出来事でした。当時僕は大きなショックで友達を受け入れることができませんでした。そんな友達を見て、初め「かわいそう」だと思っていました。でも一生懸命にリハビリに取り組んでいる友達の姿を見ていると、僕は「かわいそう」と思うのは良くない事だと思うようになりました。なぜかというと、人に対して「かわいそう」と思うことは、その人を見下しているように思ったからです。友達は障害を持ちながら一生懸命に生きているのに、上からの目線はごうまんで大変失礼なことだと思いました。このことは友達に対することだけではなく、全ての障害者に対して共通する気持ちです。障害者になりたくてなった人は誰もいません。そして誰もが障害者にならないという確率はゼロではないのです。友達のように突然、病気になるかもしれないし、事故にあってけがをしたり、またどんな災害に出くわしてしまうかもしれません。もし僕がそうなったとしたら、想像するだけでもつらいことですが、そんなとき僕は人から同情されたくないと思います。「かわいそう」と思われたくないのです。人間はどのような障害を背負っていようとも、命ある限りは生きていかなければならないことはみんなに平等に与えられていることです。ただ生きていくための条件が良いか、少し悪いかという差だけのことだと思います。だから僕は障害者を見て「かわいそう」と思うことが許せなくなりました。僕はお見舞いに行くと友達の車いすを押して出かけることがありますが、よく他人の視線を感じることがあります。自分と違う人を見ると違和感を持つ人が多いのだと思います。でも自分と人は違っていて当たり前なのだし、その他人を認めることは最も大切なことだと思います。世の中のすべての人が自分と違う他人を受け入れることこそ、差別のない社会の実現につながっていくように思います。友達のためにも、僕は野球を一生懸命頑張りプロ野球選手になり活躍します。

年間第21主日     2014年8月24日

今日は場﨑神父様と中村神父様(後述)の共同司式でした

福音朗読 マタイによる福音書 16章13~20節

イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、 「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。 弟子たちは言った。 「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。 「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。 「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。 陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。

 

今日のミサ、福音と説教は 中村克徳神父様です。  

神父様は御受難会修道会の司祭です。今現在、福岡県宗像市にあります「御受難会黙想の家」で霊的指導をしています。北海道の出身で、昨年8月15日、聖母被昇天に御両親が北26条教会で洗礼の恵みに与りました。

            

カトリック新聞 キリストの光・ 光のキリスト より

2014年8月24日  札幌教区 場﨑 洋 神父

                             教皇とフランシスコ

教皇インノケンティウス3世の見た夢。フランシスコがラテラノ大聖堂を肩で担う。ジョット画。1305年
教皇インノケンティウス3世の見た夢。フランシスコがラテラノ大聖堂を肩で担う。ジョット画。1305年

2001年の夏、イタリアのペルージアで数ヶ月過ごした。よく隣り街アシジへ行った。フランシスコの息遣いにあやかりたかった。聖フランシスコ聖堂内の壁に描かれたジョットのフレスコ画の前に立った。教皇イノケンティス三世が見たと言われる夢、一人の男がラテラノ聖堂(ローマ司教座聖堂)を肩にのせている不思議な絵だ。1210年、フランシスコは12人の兄弟を伴ってローマへ向かった。清貧と托鉢に生きる自分たちの宣教を教皇に許可してもらうためだった。教皇はボロをまとった男を見ると、夢の中に出てきたのはフランシスコだとさとった。2013313日、コンクラーベの結果を知らせる白い煙がシスティナ礼拝堂の煙突からあがった。第266代の新教皇に選ばれたのはアルゼンチンのホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿だった。異例だったことは南米出身であることと、托鉢僧フランシスコを名乗ったことだった。権威あるバチカンと不具合のように感じた人も少なくなかったのではないだろうか。しかし、どうして今までフランシスコの名前があがらなかったのか、これもまた不思議である。 新教皇の誕生は、当時のフランシスコの姿を彷彿させるものだった。アシジの大富豪の息子であったフランシスコが、父から譲り受けるべく財産をすべて放棄し、天の御父に仕えることを誓った。現にバチカンが直面した財政的スキャンダル、あるいは利益主義によって傷ついていた世界の真っただ中に一条の光として現れたのがフランシスコと名のったベルゴリオだった。教皇は会衆に対して「わたしのために祈ってください」と呼びかけた。すでに目線は下から天を見上げていた。教皇は就任後、同じ住居・聖マルタの家に住み、煌びやかな服や、装飾品を放棄し、高級公用車にも目もくれなかった。初代教皇と言われているペトロは、イエスと共にいたときイエスの本当の愛を知らなかった。彼はこの世に勝利を見ていたからだ。もしかしたら、わたしたちも十字架なしのキリストを宣べ伝え、十字架なしの教会を建てようとしているのではないだろうか。教会は確固たる岩の上に建てられている。その岩は権力や名誉、地位の象徴ではない。「家を建てる者の退けた石が、隅の親石」(詩編11822)となった。教会はイエスの十字架なしには建てられないのである。コンクラーベは「鍵と共に」と言う意味である。新しい鍵によってすべての人々を天国へ招き入れることができるようにフランシスコの素朴さ、清貧、謙虚さにあやかりたいものだ。

 

-----------------------------