主任司祭の窓
主任司祭 場﨑洋神父
福音朗読 マルコによる福音書 10章2~16節
[そのとき、]ファリサイ派の人々が近寄って、 「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」 と尋ねた。 イエスを試そうとしたのである。 イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」 と問い返された。 彼らは、 「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」 と言った。 イエスは言われた。 「あなたたちの心が頑固なので、 このような掟をモーセは書いたのだ。 しかし、天地創造の初めから、 神は人を男と女とにお造りになった。 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、 二人は一体となる。 だから二人はもはや別々ではなく、一体である。 従って、神が結び合わせてくださったものを、 人は離してはならない。」 家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。 イエスは言われた。 「妻を離縁して他の女を妻にする者は、 妻に対して姦通の罪を犯すことになる。 夫を離縁して他の男を夫にする者も、 姦通の罪を犯すことになる。」
司式 韓 晸守神父様(福音朗読)
説教 場﨑神父様
結婚に関する格言がたくさんあります。
「幸福な結婚というものは、婚約のときから死ぬときまで、決して退屈しない長い会話のようです」。
「人間は、一人では人間ではありません」。
「愚かな者は、独身の間は結婚した時の喜びを空想し、結婚すると独身の時の喜びを空想します」。
「夫婦はハリネズミのようです。離れれば寂しくなり、近づけばハリがチクチクします」。
「よい結婚はあります。しかし、魅力的で楽しい結婚はありません」。
「結婚した方がよいでしょうか、それともしないほうがよいでしょうか、と問われるならば、私は『どちらにしても必ず後悔するだろう』と」。
「結婚から計り知れない恵みを頂くであろう。また計り知れない傷も背負うだろう」。
「結婚、それは、いかなる羅針盤でも、航路を失います」
「結婚生活で一番大切なのは忍耐です」。
「結婚するときは両眼を大きく開いて相手を見ます。でも結婚してからは両眼を細めていかなくてはなりません」
「本当の愛は、苦しみを乗り越えたときです」
「家族、それは夫と妻、そして子供です。子供には血のつながりがありますが、夫婦にはそれがありません」
宗教的に、結婚には3つの条件が必要です。
入籍すること、一緒にすむこと、祝うこと。
入籍しても、一緒に住まないこともあります。これは不自然です。
入籍しても、祝われることをしないことがあります。これも社会的に不自然なことです。
カトリックの結婚儀式書には公に結婚誓約が成立するために以下の約束をしなければなりません。「わたしはあなたを妻といたします」。「わたしはあなたを夫とします」。それは自由意志のもとで、束縛もされず、干渉もされず、誓います。財産に引かれた結婚、地位や名誉に引かれた結婚は神の教えではありません。おのおの男が女を選び、女が男を選ぶとき、この愛は自己充足、自分の幸せを求めます。それは第三者を排除します。燃えて躍動します。でもそれだけの誓いでは成り立ちません、互いに夫婦となる者は、次の誓いを立てなければなりません。
「わたしたちは夫婦として、順境にあっても逆境にあっても、健康のときも、病気のときも、愛と忠実を誓います」。
ここで司式司祭は公に宣言します。
「わたしは、お二人の結婚が成立したことを宣言いたします。お二人がいまわたしたち一同の前でかわされた誓約を神が固めてくださり、祝福で満たされますように」。
結婚とは、男女が、弱さや欠点や限界を持ちながら、互いに補い合い、支え合っていくためのものです。互いに責任をとることでもあります。ですから、好き、嫌いの問題ではないのです。自分に対して、相手に対して、子供に対して、親としての責任をとっていかなくてはなりません。そのためには人格の成熟が必要です。ですから安易な結婚、安易な離婚は、お互いを不幸にしてしまいます。それは子供にまで影響を与えます。結婚生活が思い通りにいかない、それは当たり前のことです。その当たり前のことを甘んじて受け入れていくことです。だから結婚には準備が必要です。結婚前、どんなに慎重であっても、実際に結婚してみれば、想像しないことが起こります。人間には弱さがあります。醜さ、愚かさがあります。結婚とは奉献です。自己犠牲です。結婚した夫婦は互いに赦し合い、互いに受け入れ合い、互いに理解し合っていかなくてはなりません。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Michelangelo,_Creation_of_Eve_00.jpg より
ミケランジェロによるイヴの創造を描いたシスティーナ礼拝堂天井画 1510年
[そのとき、]]ヨハネがイエスに言った。 「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、 わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」 イエスは言われた。 「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、 そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。 はっきり言っておく。 キリストの弟子だという理由で、 あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、 必ずその報いを受ける。」 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、 大きな石臼を首に懸けられて、 海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、 切り捨ててしまいなさい。 両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、 片手になっても命にあずかる方がよい。 もし片方の足があなたをつまずかせるなら、 切り捨ててしまいなさい。 両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、 片足になっても命にあずかる方がよい。 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、 えぐり出しなさい。 両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、 一つの目になっても神の国に入る方がよい。 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
説教
モーセ 大理石彫刻 ミケランジェロ 1515年頃 wikimediaより
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d1/Moses_%28Michaelangelo_-_San_Pietro_in_Vincoli_-_Rome%29.jpg
神から託された預言の賜物がモーセにあるように、わたしたちにも神のことばが託されています。それは神のことばを日々の糧として生きていく霊的賜物です。第二朗読の使徒ヤコブでは、この世の冨を所有する者は、モノによって朽ち果て、腐敗していくことを警告しています。これは現代社会における貧富の格差を批難していることでもあります。
わたしたちがもっている何かが自分をつまずかせるならば、切り捨ててしまいなさい、とイエスは言われます。現代社会において、国家のエゴが格差を生み、国家間の対立が難民を生みだしています。そのために国家間の協力が困難になり、難民の人間尊厳までも踏みにじられています。わたしたちは何かを決断をするときには何かを捨てなければ真の平和は訪れないのです。
カトリック教会は9月の第4日曜日、今日を「世界難民移住移動の日」と定めています。日本は海に囲まれた島国です。移住はあっても難民に関する問題は日常茶飯事ではありません。悪くいえば地球の裏側で起きていることは他人事のように考えがちです。
しかし、ご存じのように、今はヨーロッパ、中東、アメリカなどで難民の受け入れに苦慮しています。戦禍のなか逃れてきたシリア難民は新天地を求めてヨーロッパに流れ込んでいます。しかもシリアから逃れた人たちは全人口の30%の人たちだけです。他のシリア人は貧困のためシリアの戦場で身動きができない状態です。
シリア難民 ストックホルム中央駅 2015年9月 wikimediaより
https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Refugees_from_Syria?
欧州連合(EU)は6か国から発足し、今では28か国になっています。国境が陸続きで、しかもキリスト教国がほとんどです。先週ベルギーの首都ブリュッセルで緊急首脳会議が開催され、殺到してくるシリア難民について議論を交わしました。シリア難民12万人の割り当てについて、EUでもって検討したのですが、なかなかスムースにはいきません。とにかく「EU加盟国が批判し合うことを終わらせなければならない」として受け入れを合意しました。受け入れのためには身元の確認や、難民登録機関の設置、住居、労働を提供していかなくてはなりません。難民はヨーロッパだけではなく中東にとどまる難民についても援助をしていくことを決めています。シリア難民を受け入れているトルコ、ヨルダン、レバノンなどにも支援が必要だということです。ドイツのメルケル首相は「難民を公平に分担する永久的なシステムが必要だ」と訴えました。教皇フランシスコも積極的に受け入れるようにメッセージを送っています。今、訪米している教皇はアメリカ議会の席で演説し難民の受け入れを呼びかけました。25日は国連本部の開催を前に演説も行いました。法王は、今、世界は第二次世界大戦の難民危機に瀕しています。戦争で追われ、家を失った家族を受け入れるように呼びかけました。教皇もイタリアからアルゼンチンに渡ってきた移住者であると言っています。教皇は善悪の二元論をもって2つの陣営に分裂させるような二極化に立ち向かう現代社会を批難しました。これは一国の問題ではありません。全世界に及ぶ協力的な努力が必要なのです。モノ、カネ、ヒトが行き交うグローバル化の時代です。すべての人が、この地球上で生きていく権利があります。すべての人の尊厳が守られなければなりません。難民と言う現実の問題を単独で対処できる国はどこにもありません。当たり前に生きていくことのできる場所を求めて移動する難民の権利を世界の国々が受け入れていれる覚悟が必要です。国を出て他の国に入るには、出国と入国という二重の問題をクリアしなければならないのです。
教会には国境がありません。世界の難民が行き場所を失い、苦しんでいます。カトリック教会で定めた「世界難民移住移動者の日」は教会が神の国の到来を告げ知らせるために国籍を越えた人々を受け入れることです。それは真の信仰共同体が、この世界と共に生きることを決意する日でもあります。日本の教会は、難民移住者のための活動を推進するため、情報を共有し、支援や協力を行っています。日本の滞日・在日外国人のため、定住している難民のため、外国人船員や国際交通機関を通して出会う家族のためです。他にも海外で生活している海外日本人・海外移住者旅行者のため、海外で働く日本宣教者、外国宣教者のためにも祈りを捧げます。
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福音朗読 マルコによる福音書 9章30~37節
[そのとき、イエスと弟子たちは]ガリラヤを通って行った。 しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。 それは弟子たちに、 「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。 殺されて三日の後に復活する」 と言っておられたからである。 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、 怖くて尋ねられなかった。 一行はカファルナウムに来た。 家に着いてから、イエスは弟子たちに、 「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。 彼らは黙っていた。 途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。 「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、 すべての人に仕える者になりなさい。」 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、 抱き上げて言われた。 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、 わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、 わたしではなくて、 わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
司式 森田健児神父様 (福音朗読)
説教 場﨑神父様 於山鼻教会
民主主義とは民衆が国家支配する統治体制を指し、人々が互いに意見を出し合い、補い合いながら、多数決で決めていく考え方です。しかしながら民主主義国家がすべて正しいということではありません。多くの民主主義国家を見ても国民が平等で平和だということは言い切れません。権力、汚職、犯罪、差別、偏見、格差などいろいろな多くの問題を生み出していることは言うまでもありません。ある人は民主主義はイエスの宣べ伝えた福音だ。と、安易に理解してしまう人もいます。しかし、民主主義と福音はまったく同じではないのです。福音は神の憐れみと慈しみが注がれている状態です。福音は人間の魂の琴線にまで降りてくる善き知らせです。日本は民主主義を手段に国の幸せを追及してきました。資本主義経済の発展の中で豊かさを経験していくと、なかなか後戻りすることができなくなります。先週は安保法案の採決で国会は大荒れとなりました。あれほど重大な法案を安易に強行採決していいものかと国家権力の暴走に半分以上の国民が反対していました。日本が戦後70年をかけて培ってきた民主主義の根幹を掘り崩す行為そのものと言えます。そして平和とは何でしょうか。歴史を見てもそうです。国家は国家のため、あるいは世界平和のためだと言って正義の戦争を繰り返してきたことはよく知っているはずです。正義の戦争を興して真の平和はあるのでしょうか。人を殺して真の平和を勝ち取ることができるのでしょうか。わたしたちは戦争のために、味方と敵をつくって、同盟を結ぶのではありません。近隣のアジアとの対話と信頼を構築していくことこそが最も大切なことでしょう。歯には歯を、目には目を、武力には武力ではないのです。
第一朗読、知恵の書で、神に逆らう者が言いました。「暴力と責め苦を加えて彼らを試してみよう」。心を神に向けない人たちはエゴを剥き出しに現世的価値だけに重きを置きます。
12使徒 イラスト 1846年wikimedia より
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:1846_Apostles_byFWPGreenwood_Boston_frontispiece.png?uselang=ja
イエスの弟子たちはイエスの受難を前に動揺しました。イエスは弟子たちに「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言われました。弟子たちにとってイエスが復活するということは、最終的にこの世において勝利すること、すべてを支配することと思いました。しかし、弟子たちにとってイエスが引き渡され、殺されるということは絶対にあってはならないことです。許されないことです。それで弟子たちはイエスが栄光の座について勝利を得たとき、誰が一番偉いのか、自分の立ち位置を議論していたのです。弟子たちの栄光はイエスの言う死と復活を通しての栄光ではありません。この世の栄光、この世の栄華、この世の勝利に執着していたのです。ですからイエスに受難が迫ったときに、ペトロは剣を手にもって兵士に立ち向かい、ユダは銀貨30枚でイエスを引き渡してしまいました。他の弟子たちはイエスを見捨てて逃げてしまいました。彼らは彼らが望まないこの世の権力にイエスが屈服していく姿を見たのです。イエスと共に歩むことは自分たちも殺されてしまうことだからでした。
もし、ここで誰が天国に行って、誰が偉くて、誰が偉くないのか議論してみたらどうなるでしょうか。そして多数決でもってこの人はいい人、この人は悪い人と決めることが出来るのでしょうか。わたしたちは日常、意識しながら、心の議論をするものです。あの人は悪い人だ、だから地獄へ行けばいいのだ。この人は未方だから、天国へ行くだろう。わたしたちはかなり独断的に、他者を別なところへ放り出してしまいます。
わたしたちはこの世の勝利のために欲しています。巧妙な知恵ですか?武器を装うことですか?人を攻撃して、封じ込めることですか?イエスは、素直に受け入れる子供を弟子たちの真ん中にお連れして、諭しました。イエスご自身はすべてを御父に委ねられたのです。御父を受け入れることによって、計り知れない御父の慈しみを人々に現わすためでした。それはありのままを差し出す子供の心に似ています。だからヤコブの手紙で 「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争う欲望がその原因ではありませんか。・・・・・・・」。まさしくわたしたちのエゴが議論を巻き起こし、人を裁いてしまうのです。子供の心ではないのです。
イエスのみことばは、ナショナリズムでも民主主義でもありません。すべての人々の救いのための教え、福音です。そのためにイエスは御父に従順なものになるため、仕えるものとなられたのです。平和の対義語は戦争ではありません。はっきりと言えば暴力です。戦争がない世界を、消極的平和と混同しないようにしましょう。イエスは真の平和を求めるために、「仕えられるためではなく仕えるために」十字架を担われました。イエスは積極的平和を御父に仕えるために自ら選んだのです。わたしたちは何を議論しているのでしょう。現世的な価値観の渦中で現世的な勝利を得ようと躍起になっているわたしたちがいます。仕えられるという消極的平和を求めて議論しているわたしたちがいます。イエスはその議論を咎めています。もっと大切なことがあるからです。
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カトリック新聞 2015年9月20日 「キリストの光 光のキリスト」より
途中で何を議論していたのか
弟子たちはイエスの御言葉と御業を俯瞰して捉えることが出来なかった。それよりも自分たちの中で誰が一番偉いのか議論していた。イエスのなさった一つひとつの出来事は只の点ではないはずだった。一直線となって御父へ向う道だった。
わたしたちは情報とモノが溢れている時代を生きているが、どこへ導かれ、どこへ向かっているのだろうか。断片的な関係性の中にあって、明確な線、真理の線が見えなくなってしまう。そうなると、わたしたちは現世的な議論の中に引き摺り込まれていく。
昨年10月に特定秘密保護法が閣議決定されて、今年の8月11日、東日本大震災以来停止となっていた原発が再稼働した(川内原発)。わたしたちはついこの間、重大な教訓を「フクシマ」から学んだばかりではなかったのか。それなのに科学と秘密が同時に進行している不穏な空気を感じてならない。弟子たちはイエスの前で密かに議論を交わしては、栄光の座、勝利の座を競い合った。国家が秘密裡のうちに暴走していくとどうなるだろうか。人間は、より豊かなもの、より便利なものの陰に潜んでいる権力の呪縛から解き放たれなくなってしまうだろう。
今年の5月に、英国の理論物理学者スティーブン・ホーキング博士(1942年~)は近い未来に人工知能は人間の能力を超えると予測した。驚くべきことにこの知能は核兵器よりも巧妙で潜在的脅威になると警鐘を鳴らす。人工知能は格差を生み、労働を奪い、人間の思考、感情、感性を支配し、人間的創造性を一挙に上回ってしまう。
そこには「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものになる」(創世記3・4~5)という悪魔の囁きを感じる。
禁断の木の実 ピーテル・パウル・ルーベンス 1615年
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Jan_Brueghel_de_Oude_en_Peter_Paul_Rubens_-_Het_aards_paradijs_met_de_zondeval_van_Adam_en_E
イエスは御父のご計画を成就していく。しかし弟子たちはおのおの凌ぎを削ってイエスの一番弟子になろうと躍起だった。わたしたちも同じである。御言葉を知っていると偽り、謙虚を装って、よい信者であろうとする。だから当然のことながら天国の切符を手に入れたと錯覚してしまう。
イエスは「幼子のようになれ」と言った。幼子は無力だからこそ絶対的信頼者の内にいのちを委ねる。議論する以上に大切なことは、御父に向かって今もなお生きているイエスを心とすることである。
わたしたちは弟子たちのように議論している自分に気づかない。偽りの幸福を議論しても、永遠の命を得ることはできないのである。叱責しているイエスのことばが再び聞こえる。「途中で何を議論しているのか」と。
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[そのとき、]イエスは、弟子たちと フィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。 その途中、弟子たちに、 「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。 弟子たちは言った。 「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。 ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『 預言者の一人だ』と言う人もいます。」 そこでイエスがお尋ねになった。 「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと 弟子たちを戒められた。 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、 長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、 三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。 「サタン、引き下がれ。 あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、 わたしに従いなさい。 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。
説教
イザヤ書は「主の僕の忍耐」ついて書かれています。主が共に歩んで下さることを確信しているのです(50・5~6)。使徒ヤコブでは、真の信仰者についての心構えを述べています。「自分が信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。・・・行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(2・14~27)。有言実行。信仰と生活の一致。人間が信仰を貫いていくことは本当に容易なことではありません。今日の福音で弟子たちはイエスの歩まれる本当の道を理解していません。イエスは弟子たちに「人々はわたしのことを何者だと言っているか」と言われました。そこで弟子たちは「洗礼者ヨハネとか、エリアだとか、預言者の一人だとか」と言っていますと答えました。洗礼者ヨハネが悔い改めの洗礼を授けていたとき、またイエスが福音を宣べ伝えていたとき、民衆は、彼らをエリアの再来と思い込みました。エリアはイスラエル王朝時代の代表的な預言者です。火の車で天に上げられたので、メシアの再来の時に現れる預言者と信じられていました(マラキ3章23節、列王記下2章)。イエスはペトロに聞き返しました。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。するとペトロが答えました。「あなたはメシアです」。メシアは救い主です。イエスこそ、救い主であると答えたのです。果たしてペトロは本当にそう信じていたのでしょうか。
イエスが「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長たちから排斥され、殺され、三日目に復活することになっている」とはっきりと教えになられました。それなのにペトロはイエスをわきへお連れしていさめ始めたのです。そのとき、イエスは弟子たち一人ひとりを見て、最後にペトロに向かって叱ったのです。「サタン、引き下がれ、あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と。ペトロはイエスの素晴らしい言葉や行いを信じていたことでしょう。しかし、自分たちの先生であり主であるイエスが、「排斥され」「殺されてしまう」ことに納得がいきません。ペトロにとっての救い主・メシアは言葉も行いも素晴らしく、すべてを統治する主君のような、スーパーマンのような存在と思っていました。そこには排斥されることや殺されることはないのです。イエスは言いました。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」。
ヤーコブ・ヨルダーンス 十字架を背負うキリスト 1657 アムステルダム国立美術館
http://free-artworks.gatag.net/2013/12/13/040000.html
十字架刑はローマ皇帝に背く者が受ける残忍な処刑方法です。皇帝に従わないのならば、最後は皇帝の刑に従わなければならないという見せしめです。しかし、この十字架に掛けられることは、この世の敗北、この世の醜さ、愚かさを意味していました。大祭司、長老、ファリサイ派はイエスを殺すために手段を選びませんでした。敵対する勢力であっても、イエスを抹殺できればそれでよかったのです。イエスはいつでも逃げることが出来きましたが、甘んじてご自身の使命を全うするため十字架を担いました。それは皇帝に従順だということではありません。汝の敵を愛する御父の憐れみを証しするために従順だったのです。わたしたちも神から与えられた使命をもっています。その使命を担って行くためには、どうしても自分のエゴを捨てなければなりません。ぶつぶつ文句を言って背負うこともできるでしょう。仕方がないから、背負うこともあるでしょう。不平が多ければ多いほど十字架は重くなっていくでしょう。ペトロのようにいいものだけを頂いて背負う十字架であってはなりません。神のみ旨を果たしていく十字架です。最終的にペトロは自分が描いていた十字架を背負いきることが出来ませんでした。ペトロは自分の十字架の下敷きになってしまったのです。イエスを置き去りにし、三度、イエスを知らないと言ってしまいました。ですからペトロは自分の十字架を背負い直すことになったのです。イエスの愛、イエスの受難、イエスの死、イエスの復活、イエスの栄光。それらを体験したペトロはなお一層イエスが示された愛に圧当されるのです。だから自分の十字架を背負い直すことができたのです。イエスが言われた今日の言葉。「わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」(マルコ8・34~35)。自己否定ではなく、わたしたちはどこに属し、どこへ向かって生きているのでしょうか。わたしたちは神に属しているはずです。神から刻まれていのちを、与えられたいのちとして生きていく使命を担って生きているはずです。 わたしたちはもう一度、自分の十字架を背負い直し、自分の使命に気づいていきたいです。
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恒例のバザーが開催されました。雨天でしたが、盛大でした。
使徒職大会クリック!開催日です。当教会のミサはありません。
[そのとき、]それからまた、イエスはティルスの地方を去り、 シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、
ガリラヤ湖へやって来られた。 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、 その上に手を置いてくださるようにと願った。 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、 指をその両耳に差し入れ、 それから唾をつけてその舌に触れられた。 そして、天を仰いで深く息をつき、 その人に向かって、「エッファタ」と言われた。 これは、「開け」という意味である。 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、 はっきり話すことができるようになった。 イエスは人々に、 だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。 しかし、イエスが口止めをされればされるほど、 人々はかえってますます言い広めた。 そして、すっかり驚いて言った。 「この方のなさったことはすべて、すばらしい。 耳の聞こえない人を聞こえるようにし、 口の利けない人を話せるようにしてくださる。」
説教
イエスは群集の中から耳が聞こえず、舌の回らない人だけをお連れし、指をその人の両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられました。そして、天を仰いて深く息をつき、その人に向かって「エッファタ」と言われました。
これは「開け」と言う意味です。するとこの人はたちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話すことができるようになりました。イエスの息は、ため息のようにも聞こえてきますが、その耳の聞こえない人に対しての憐れみと慈しみです。
福音記者はイエスの語った善き知らせを書き記す必要があったため、イエスの言行をキリスト共同体から集めました。その中でイエスが語ったことばをギリシャ語ではなくアラマイ語のままにしたものがありました。たとえば、「タビタ、クム」= 「少女よ、わたしはあなたに言う。起きよ」。「アバ」=「天の父さん」。「エロイ エロイ レマ サバクタニ」=「わたしの神、わたしの神、どうしてわたしを見捨てられるのか」などです。
今日は「エッファタ」です。「開け」です。イエスは耳があっても聞こえず、目があっても見えないファリサイ派や律法学士の人たちの態度を厳しく咎めています。主は天を仰いで深い息をされました。イエスの息は御父のみ旨を送る憐み深い清い霊です。
頑ななわたしたちの心を打ち砕いてくださるために、主は「エッファタ」と言います。
主を仰ぎ見ることができるよう、主はわたしたちの魂に向かって「エッファタ」と言います。淀んだ空気、汚れた心に、主は清い霊を注いで「エッファタ」と言います。
口の利けない人をいやすイエス ジョアッキーノ・アッセレート 1640年頃 wikimedia commonsより
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:WLA_cma_Christ_Healing_the_Blind_Man_c_1640.jpg?uselang=en
[そのとき、]ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、 エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、 つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、 昔の人の言い伝えを固く守って、 念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、 また、市場から帰ったときには、 身を清めてからでないと食事をしない。 そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、 昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。―― そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。 「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、 汚れた手で食事をするのですか。」 イエスは言われた。 「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを 見事に預言したものだ。 彼はこう書いている。 『この民は口先ではわたしを敬うが、 その心はわたしから遠く離れている。 人間の戒めを教えとしておしえ、 むなしくわたしをあがめている。』 あなたたちは神の掟を捨てて、 人間の言い伝えを固く守っている。」 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、 人の中から出て来るものが、人を汚すのである。 中から、つまり人間の心から、 悪い思いが出て来るからである。 みだらな行い、盗み、殺意、 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、 悪口、傲慢、無分別など、 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」
司式 森田健児神父様 (福音朗読)
説教 場崎神父様 山鼻教会にて
先週8月22日、23日、第12回日本カトリック障害者連絡協議会・障がいと共に歩む札幌大会が藤女子大学で開催され、大盛況のうちに幕を閉じました。参加者490名、述べ500人の方々が喜びのうちに迎えられ、喜びのうちに散会いたしました。体の不自由な方々、精神、発達、知的障がいなど障がいを持った人たちを中心に主の食卓を囲み、主がお望みの宴を共に喜び合いました。
これまで皆様から賜りました物心両面に亘るご支援に心から感謝と御礼を申し上げます。
これらは報告書の作成になります。今年中には全国の教会、皆様のところへご報告申し上げる予定です。本当にありがとうございます。
今日のみことば、申命記と使徒ヤコブの手紙、そしてマルコ福音書はわたしたちの人間の持っている頑なな心、偏見の取り崩し、神のご意志、ひとつの真理に向かって歩んでいくように教えています。
申命記は、「神の言葉に何一つ加えることも、減らすこともしてはならない」。すなわち真理はひとつです。マルコ福音書は「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」。 ヨハネ・パウロ二世がおっしゃった広島での平和アピール「戦争は人間の仕業」を思い起こします。まさしく人間が人間を汚して、争いを引き起こすのです。
そして使徒ヤコブは真理の言葉を教えています。「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。・・・御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました」。
「ファリサイ人と討論するイエス」 ボウヤーバイブル Licence Art Libre
エルサレムからやってきたファリサイ派の人々と律法学士はイエスの弟子たちを批難しました。それは身を清める昔からの伝統を怠っているということです。昔の言い伝えに従って歩まないイエスの弟子は本当にけしからんと訴えてきたのです。
しかし、イエスはイザヤ書を引用して彼らに言います。
「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている」。
イエスはファイサイ派や律法学士が抱いている偏見や慣習を厳しく咎めるのです。
私たちは必ず人に対しての先入観があります。キリスト信者であると言いながらも、キリストを自分のアクセサリのように装って生きていることがあります。真理を求めず、自分の思いのままにキリストを操り、神を利用しているのです。
一昨日、聖アウグスチヌの記念日を迎えましたが、彼は人生を自分の思いのままになることを絶えず望んでいました。しかし、彼は真理を知っていたのですが、神に立ち返るために、何度も何度も「明日。また明日」と回心を延ばしていきました。
わたしたちの心は、いつもどこにあるのでしょうか。創世記の中にあるアダムとエワの物語は人間の悪の根源を教えています。アダムとエワの2人は、神によって結ばれるよりも、神の神聖な領域に入って自分勝手に生きることを求め、神に背きました。神から彼らが遠ざかったので、神は彼らをお呼びになったのです。「どこにいるのか」と。この言葉はとても大切です。いつも主は隠れて逃げるわたしたちに「どこにいるのか」と声をかけてくださっているのです。アダムは「恐ろしくなり、隠れています。わたしは裸ですから」。この恐れは言うまでもなく「真理」に基づいたことばです。真理があるからこそ恐れるのです。恐れはわたしたちの内側に潜んでいることは誰もが知っています。知っているからこそ脅え、恐れるのです。
わたしたちはキリスト者であろうと装います。光を受けている表ではなく光を遮っている壁の後ろ隠れます。あるいは集団の陰に隠れてキリストを装います。ですから宗教で自分の醜さを隠そうとしていることがよくあるのです。
それではわたしたちは何を求めて生きているのでしょうか。ただ平和を愛するのではありません。平和のために働き、根源的な貧しさ、根源的な謙虚さ、根源的な美しさにおいて自分が何者であるかを問い続けましょう。わたしたちは神を恐れ、主の道を歩むものです。それによって幸いなものと言われるでしょう。
アウグスチヌスは告白録の中でこう記しています。
「神よ、あなたはわたしを愛に向けて創造されました。ですから、わたしの心は、あなたのうち憩うまで安らぎを得ることはできません」(告白録)。
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(場﨑神父様は本日山鼻教会で司式されました)
カトリック山鼻教会:064-0810札幌市中央区南10条西11丁目1-5
写真は2015年8月30日(土)
9月13日は教会バザーです。良い天気に恵まれますようにお祈りしています。
8月29日(土)西ブロック会議がカトリック倶知安教会で行われ、大自然の歓迎を受けました。この教会の歴史は古く100年以上にもなります。かつて交通の要所であったこの町は、近い将来、北海道新幹線開通と共に再び活気に溢れることと思います。教会に隣接している倶知安藤幼稚園の園児たちは蝦夷富士羊蹄を仰ぎながらすくすくと育っています。
ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。 「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」 イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに 気づいて言われた。「 あなたがたはこのことにつまずくのか。 それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。 命を与えるのは“霊”である。 肉は何の役にも立たない。 わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。
しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」 イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、 御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。 そして、言われた。 「こういうわけで、わたしはあなたがたに、 『父からお許しがなければ、 だれもわたしのもとに来ることはできない』
と言ったのだ。」 このために、弟子たちの多くが離れ去り、 もはやイエスと共に歩まなくなった。 そこで、イエスは十二人に、 「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。 シモン・ペトロが答えた。 「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。 あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。 あなたこそ神の聖者であると、 わたしたちは信じ、また知っています。」
集会祭儀 司式 佐久間力神学生
説教 場﨑神父様
今日の第一朗読ヨシュア記ではイスラエルの民が信仰を告白し、福音書ヨハネでは受難を前にてペトロがイエスの前で信仰を告白しています。 イスラエルの人々は指導者ヨシュアの前でこう決心しました。
「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。・・・・わたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です」。 イエスは受難が近づいているときに、弟子たちに尋ねています。「あなたがたもわたしから離れていきたいか」。すると、ペトロが言いました。「主よ、わたしたちはどこへ行きましょうか。あなたは永遠のいのちの言葉を持っておられます。あなたこそ、神であると、わたしは信じ、また知っています」 このペトロの言葉は聖体拝領の前に唱えられる信仰告白の祈りです。司祭は「神の小羊の食卓に招かれた者は幸い」祈ると、会衆は「主よ、あなた神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいてだれのところに行きましょう」答えます。わたしたちの人生は「イエスの死と復活」のいのちに招かれています。イエスと共に生きることによってイエスが真の道を教え、永遠の宴と導いて下さるのです。
ピーテル・パウル・ルーベンスの描いた初代教皇ペトロ wikipediaより
昨日と今日、藤女子大学で「第12回 日本カトリック障害者連絡協議会・障がいと共に歩む札幌大会」が開催されています。テーマは今日の福音に由来するもので「主の食卓に招かれたものは幸い」です。この大会はカトリック教会主催の「障がい者のための全国大会」です。南は鹿児島、長崎からの参加者があり、参加者は約500名にまでなりました。二日目の今日は大会のクライマックスである主の食卓・ミサです。勝谷太治司教様が司式をなさり12人の司祭が共同でミサを捧げます。 祭壇の前には 体の不自由な人々など障がいを持った方々の席が設けられています。体の不自由な方が本当に喜びをもってミサに参加できるように、サポーターの方々が何度も会合を重ね準備をしてきました。手話通訳、点字、字幕、案内、会場、参加費援助の呼び掛け・・・・・・。この3年間、多くのサポーターから物心両面にわたる祈りをいただきました。皆様の中におられるイエス・キリストに心から御礼と感謝を申し上げます。ミサは日常生活と決して切り離すことはできません。ミサに与ることは、日常が信仰によって生きているための感謝の典礼です。病気や家の事情でミサに参加できない方々もおられます。しかし共同体はその人々のためにも祈り続けます。司祭不在の時代を迎えていますが、わたしたち一人ひとりが福音宣教者であることを忘れてはなりません。今日もイエスの声が聞こえてきます。「わたしから離れていきたいか・・・・」共同体にあって、家庭にあって、職場にあって、いろいろな場所にあって、時間と空間を越えて語り掛けるイエスの声に耳を傾けます。そして心を一つにしてこう宣言します。「主よ、あなたは神の子キリスト、あなたをおいてだれのところに行きましょう」と。
今日の日を感謝し、主のからだを頂いて恵みを願いましょう。
速報2
「主の食卓に招かれた者は幸い」~招かれている喜び~
第12回日本カトリック障害者連絡協議会・障がいと共に歩む札幌大会の二日目、
大会テーマである「主の食卓に招かれたものは幸い」・ミサが盛大に執り行われました。
札幌教区・ベルナルド勝谷太治司教様と司祭11人が「主の食卓」を囲みました。
勝谷司教様は、はじめに「信仰において、今、主によって、ひとつに結びついています。深く信じ、実感できるために、今後も、このつながりを大切にしていきましょう・・・・」と開祭の挨拶で会衆を激励されました。
この食卓はイエスが整えてくださったものです。3年の準備期間、札幌のサポーターはイエスの弟子たちのように、弱さを担いながら歩んで来ました。それはまるで5000人の給食の出来事のようです(ヨハネ6章:今大会の参加者は延べ500人)。イエスは飼い主のいない羊のような群集を憐れまれ、ひとつになるためにパンを与えようと弟子に願いました。しかし弟子たちは「ここに大麦のパン5つと、魚2匹とを持っている少年がいます。けれども、こんな大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」と言いました。わたしたちも戸惑う弟子たちと同じでした。微力で何もできない不満を主に主張するだけでした。しかし、イエスは自ら率先してパンをお取りになり、感謝の祈りを唱えて人々に分け与えられたのです。それは計り知れない御父のみわざそのものでした。わたしたちは父と子と聖霊の交わりの息吹きを受けて、励まされ、癒され、清められていきました。今まさに、主の食卓に体の不自由な人たちが招かれ、わたしたちはひとつになったのです。イエスが告げ知らせた福音が、まさしく、今、ここに成就しているのです。
この大会のクライマックス 「主の食卓に招かれたものは幸い」・ミサの風景です。
上記の写真から共同司式をされた司祭を紹介します。向かって左からご紹介します。
荒川 博行 神父様(東京教区・梅田教会)
渡邊 泰男 神父様(東京教区・豊四季教会)
戸田 三千雄 神父様(札幌教区・旭川神居教会)
ルカ・カンミンジュ神父様(さいたま教区・渋川教会)
間野 正孝 神父様(札幌・旭川神居教会)
勝谷 太治 司教様(札幌教区教区長)
場﨑 洋 神父様(札幌教区・北26条教会)
韓 晸守 神父様(札幌教区・山鼻教会)
七種 照夫 神父様(名古屋・五反城教会:今年神父様は金祝です)
川上 剛 神父様(札幌・釧路教会)
山本 遙 神父様(札幌・北見教会)
頭島 光 神父様(鹿児島教区・谷山教会)
(一日目に上杉昌弘神父様が出席されました)
主が整えてくださった「主の食卓」に多くの人々が招かれるようにサポーター(ボランティア・信者の祈りと献金)はこの日のために準備してきました。中央のスクリーンには字幕が映し出されました。逐次語られている言葉を文字にするためです。耳の聞こえない人、手話の分からない難聴者のためにプロジェクターで文字が映し出されました。今回の大会のために札幌市内で奉仕活動しているパソコン文字通訳「くまじー」さんと、要約筆記通訳サークル「ふきのとう」さんがご活躍してくださいました(下の写真)。手話通訳者の皆さんは随時、祭壇の右側で通訳をしてくださいました。視覚障がい者には点字のパンフレットを用意し、指で読んでいただきました。
速報
障がい者の全国大会、感謝と賛美のうちに閉幕
~喜びのうちに出会い、喜びのうちに再会を祈った~
一日目
8月22日(土)~23日(日)札幌市内にある藤女子大学を会場に第12回 日本カトリック障害者連絡協議会・障がいと共に歩む札幌大会が開催された。この大会は3年おきに開催されるカトリック教会の障がい者全国大会。両日を通して、障がい者、サポーター約500人が集い、実り豊かな日々を迎えた。テーマは「主の食卓に招かれたものは幸い」~招かれている喜び~。基調講演には「べてるの家」の向谷地生良氏(北海道医療大学教授)が招かれた。演題は「病気の力~幻聴さん、いらっしゃい」。実際に幻聴に悩まされている当事者4人が加わりユニークな講演で会衆を魅了した。ありのままの人生を肯定し、生かされている喜びを会衆者と共に分かち合えた貴重なひと時だった。
分科会は29グループに分かれて分かち合いをした。限られた時間ではあったがおのおの自分の内にある思いを語り合った。
懇親会は大盛況。微笑ましい出会いの時間、語り尽くせない思いは心に溢れるばかりである。
二日目
二日目は分科会の発表から始まった。時間の関係から12グループの発表となった。それぞれの発表は会衆の心を打つものばかりで、そのたびに新鮮な息吹きがを注がれるのを感じた。特に今回の大会で初めて参加された元ハンセン病者患者からの差別と偏見の声には心打たれるばかりであった。90歳の滝田十和田さん、今もなお差別の偏見の中に生きているご本人はこの大会に招かれたことに心から感謝していた。
分科会の後、待ちに待った「主の食卓」・ミサが始まった。会衆は典礼聖歌「ガリラヤの風かおる丘」を声高らかに歌う。12名の司祭に引き続き司式者ベルナルド勝谷太治司教が入場した。会衆はこの時をどんなに待ち焦がれていたことか。み言葉が語られると、み言葉がわたしたちの心を奮い立たせる。賛美と感謝の内にイエスのからだは裂かれていく。わたしたちのいのちがイエスのいのちに抱かれてまことのいのちへと招かれていく。今回のテーマ「主の食卓に招かれたものは幸い」は、まさに今日の福音であった。わたしたちは「イエスの食卓に招かれていること」を深く味わうのであった。
閉会式後、別れがたい涙で溢れていた。わたしたちはひとりじゃない。あなたによって、生かされ、生きている、と。これまで関わってくださった多くの方々に感謝したい。
後片付けが終わり、みんなが帰った後(午後3時半頃)、今回の大会の事務局長を担当した菊地秀治さんが荷台に載せた荷物を車に運んでいた。そのとき帰途に向かう車椅子の篠原三恵子さん(東京在住)がサポーターに導かれて校庭に入った。篠原さんと菊地さんが別れを惜しんだ。お互いに手を握って涙を浮かべていた。お互いに「ありがとう」と言って、出会いの喜びを噛みしめた。篠原さんの車椅子はサポーターに導かれ、聖母像の前を通って大学の西門で見えなくなった。
その時、聖マリアは彼らを祝福した。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」(ルカ1・47)。
大会が終わって、私も帰途についた。聖母像の前で見上げた。
マリアはこう言った。「さあ、わたしと一緒に来なさい。主の食卓に招かれたものは幸い」と。
以下大会のアルバムを紹介します。
藤女子大学の大会会場
カ障連会長:宮永久人氏の挨拶
札幌大会実行委員長:高橋幸夫氏の挨拶
カトリック札幌教区長:勝谷太治司教様の挨拶
基調講演の様子:右側、マイクをもっているのが講師の向谷地生良氏
静岡から来たユニークな仲間たち。場崎神父
会場は満席、こことは別に第二会場を設けて、モニター設置。
静岡から参加した知的障がいの野村安一さん。彼と一緒にいると本当に幸せになれます。彼は司教様にかぶっていただこうと、ミトラ(司教帽子)を新聞紙でつくってきました。
勝谷司教様の頭にかぶせると、彼は嬉しくて、嬉しくて、たまりません。
懇親会が終わっても、玄関内で踊りを披露する「さいたま教区」の参加者一行。なんと3回も踊っていただきました。いや「躍」っていました。
分科会で発表する植村哲史さん。障がいの子どもをもつ父として、力強く語ってくださいました。左側に見える書の作品「わ」は田中恵さんの作品。この大会がとても大好きなので祈りを込めて書かれたとのこと。本当に心が和みます。「へいわ」の「わ」だそうです。
東京から参加された難病を持つ篠原三恵子さん。大会中は写真のように横になって参加されました。障がいを担っても彼女は力強く生きています。マリアのように希望を携えています。
【追伸】
私たち「障がいと共に歩む札幌大会実行委員会」は未熟ながらも今日まで歩んでこられました。心より皆様から頂きました物心両面のご支援に感謝と御礼申し上げます。発足時は実行委員長として福永幸也さんが務めていただきました。東京での会議の時は、本当にご苦労様です。福永幸也さんが腰の痛みに耐えながら日々過ごされていることを思い浮かべています。この大会ために祈ってくださいましたこと、心から感謝をしています。ありがとうございます。
[そのとき、イエスはユダヤ人たちに言われた]「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」
説教
食べることは体の成長にとってもっとも大切なことです。
幼稚園の園長先生は園児に尋ねました。
「食べ物を食べて大きくなって、立派な体になったらそれでいいですか」?。
「とってもいいよ、もっと大きくなっていくから」
「でもからだだけ、大きくなってしまっていいのかな?」
「いくはありません。だめで~す」
「どうしてかな」
「だって心がないと、いけないからです」
「おお、すばらしいこというね。そしたら心って、何かな?」
「お友達に親切にする心とか、やさしくする心とか」
「はい、それはいいことだ。すばらしいことだ。・・・ほかにはありますか」
「はい・・・心は、ごめんなさい、や、ありがとう、も、言います」
「そうだね、すばらしい言葉がありますね」
「みなさんがお互いにかけるあいさつや言葉、おはよう、ありがとう、ごめんなさい、は、ほんとうに人を生かすたいせつな言葉ですね」
幼稚園の入園式に必ずこのような問いかけをしたものです。子供たちは、みんな、人間が生きていくなかで大切なことばを学んでいく可能性を一杯秘めています。食べ物を食べながら心の善悪を知って、人の喜びを学んでいく子供たちは本当に愛らしく美しいです。
ドイツの女性神学者ゼレはこういいました。「現代において人間はパンによって死んでしまった」ということです。パンを得るため人間は醜さのゆえに武器をつくり、人を殺し、資源を奪い合いました。すなわち、人間は自己中心的なことばかりをしていると本当の幸せになれないのです。神のみことばを食べて、神のみ旨を行い、家庭の平和、人類の平和のために生きていくことがわたしたちの幸せです。人は他者の幸せを願うときに初めて本当の幸せが自分のところにも訪れくることを感じます。
最後の晩餐 1562年頃 ファン・ファノス(スペイン) wikimediaより
イエスはパンという食物、いのちに対して心から敬意を示めされました。
イエスは最後の晩餐で、パンを取り、感謝の祈りを捧げ、弟子に与えて仰せになりました。
「みな、これを取って食べなさい。これはわたしの体である」
イエスは人間が生きていく魂の原動力は、神様のみ旨を行う強い意志です。
自らパンを取って、食べなければなりません。そこには能動的、積極的な感謝と賛美がなければなりません。
生活のなかで、食べるということだけも、充分黙想ができます。食べるという関連の言葉は 飢え、渇き、貧困、賛美、感謝、生きる、分かち合う、与える、噛む、味わう、喜び、などです。これらのひとつひとつの言葉をヒントに生活の中におられるみ言葉であるイエスを食べていきましょう。わたしたちがみ言葉を生かし合う食卓に絶えず招かれますように。
2015年8月16日 カトリック新聞社 「キリストの光 光のキリスト」より
何を食べてきたのか~戦後70年を迎えて
人間は食べることによって細胞を形成し体を維持していく。寿命が一番短い細胞は新陳代謝が激しい胃や腸の柔毛細胞である。なんと24時間である。それに対して骨の細胞は10年にも及ぶ。器官によって細胞の分裂・再生は異なるが、全体的に人の細胞は6年でもって新しい細胞に生まれ変わる。栄養を取り入れる体のしくみは、実に繊細で複雑である。魂も同じである。
旧約時代から御言葉は霊的な食物として語られてきた。「あなたの御言葉が見いだされたとき、わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなりわたしの心は喜び躍りました」(エレミア15・16)。「わたしのパンを食べ、わたしが調合した酒を飲むがよい。浅はかさを捨て、命を得るために、分別の道を歩むように」(箴言9・5~6)。旧約において主である神は預言者たちをこの世に遣わし霊的御言葉を調合された。
イエスはご自身の苦痛以上に、この世の罪を憂い、深く憐れまれて十字架で死なれた。イエスをいただくことは、度重なる醜い人間の歴史の中で働いている慈しみ深い神を食べることである。それは二千年に遡って、イエスの過越しの記念を想起させることだけではない。御父ご自身が救いの歴史の中で働きかけておられたことを深く味わうためでもある。これこそイエス・キリストは人類における朽ちない食べ物、御言葉となる。
wikimediaより
今年、日本は戦後70年を迎えた。私たちは荒廃した時代から這い上がって、絶えず平和を希求してきたはずだった。しかし、果てしなく隣人を裁き続ける人間と、果てしなく慈しみを注がれる憐れみ深い神の狭間で、私たちは今、災いの計画の中に引き摺り込まれていくのを感じている。「主は言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない」(エレミア29・10~13)。
私たちは自分の十字架さえも無視しようとしている。無視をするからこそイエスの十字架が見えなくなる。イエスのからだをもう一度黙想しよう。慈しみを込めて病人に触れ、死者を甦らせ、泣いた人と共に泣き、嘆く人と共に嘆いたイエスのからだを。
イエスは散らされている神の子らを一つに集めるために死ぬ(ヨハネ11・52)。死ぬことによって御言葉であるイエスは選りすぐりの霊的食物となった。
イエスは言う。「わたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる」(ヨハネ6・56~57)。
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ミサ後 第4回聖堂ホールチャリティコンサートが開催されました。3部構成の演奏、いずれも聴衆を大いに魅了しました。支援金は「障害と共に歩む札幌大会実行委員会」へ寄付されます。
聖母被昇天 ルーベンス 1626年 wikimediaより
そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょうある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり,アブラハムとその子孫に対してとこしえに。マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。
説教
教会は、今日、イエスを生み、イエスを育て、イエスと共に歩んだ聖母の生涯をたたえる日、聖母被昇天のお祝い日です。わたしたちは聖母の生涯を思い起こしながら、70年目の終戦記念日を迎えた今日、天に召された多くの家族、友人、恩人のためのご冥福を祈りします。
わたしたちはかつて戦争を繰り返しました。国家のために命を捧げた人たちは数えきれません。召集令状(赤紙)、死の恐怖、戦禍の殺戮、死にゆく兵士、若者も子供も、乳飲み子も、女も、みんな何の情けも憐みもない死の爆弾で殺されていきました。ご年配の方々は、いろいろな記憶が蘇ってくることでしょう。大東亜戦争、シベリア抑留、東京大空襲、玉砕、特攻隊、沖縄戦、疎開、避難、広島・長崎の原子爆弾・・・・・、国家は敗戦が分かっていたにも関わらず、多くの尊い犠牲者を出してしまいました。わたしたちは犠牲となった多くの人々のために謝罪と未来に向かっての決意を新たにしなければなりません。
8月15日の正午、ラジオから流された玉音放送。天皇の言葉が焼き付いている方々も多いでしょう。「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」という敗戦を告げた言葉、無念さを噛みしめて国民は流し尽くせない涙を流し続けました。わたしたちは、この70年間、戦争の悲惨さをどのようにして心に刻みつけてきたことでしょう。戦争は人間の愚かさです。戦争は悲劇です。戦争は死です。私たちは二度と過ちを繰り返してはなりません。こうして私たちは平和憲法を平和のしるしとして今も守り続けようとしてきました。そして戦争体験者が少ないなかで真の戦争の恐ろしさを語り告げ、平和を希求していかなくてはならない使命を担っています。
イエスの人々に働きかけて平和をもたらすためにきました。平和憲法のなかにもイエスのメッセージ、息遣いがあります。
日本の国は聖母マリアに捧げられました。1549年8月15日 ザビエルが鹿児島に上陸しました。そしてザビエルは日本を聖母にお捧げしました。聖母は悲しむ人と喜び、喜ぶ人と喜ぶ人だからです。1941年12月8日、汚れなき御宿り(無原罪の聖母)の日に真珠湾攻撃が興り、これより太平洋戦争が勃発しました。1941年8月15日 今日、わたしたちは悲しみに悲しんだ日です。戦争を憂い、平和を願うばかりです。
聖母はイエスの受難を共にしました。聖母は悲しみをうちにわたしたちと共に悲しみ、わたしたちの嘆きのうちに嘆かれるのです。しかし聖母は計り知れない慰めの母であり、希望の母です。この70年の間に多くの人々が亡くなりました。事故で亡くなった人、病気で亡くなった人、両親に旅立たれた子供たち、親より先に召された子供たち・・・・。人間の悲しみの中に、聖母が寄り添います。乳飲み子を戦争から守るために、聖母は御子イエスと一緒にご自身を犠牲にします。
聖母はわたしたちにとって慰めの母です。聖母はわたしたちにとって希望の母です。
そして勇気の母です。イエスの母となった聖母よ、あなたの生涯は、神の栄光を現すために準備されたものです。わたしたちにもあなたの心を与えてくださいますように励まし導いてください。
平和祈念像 wikipediaより
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集会祭儀 司式 蓑島克哉神学生
[そのとき、]ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」 と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。 「これはヨセフの息子のイエスではないか。 我々はその父も母も知っている。 どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」 イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。 わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、 だれもわたしのもとへ来ることはできない。 わたしはその人を終わりの日に復活させる。 預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。 父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。 父を見た者は一人もいない。 神のもとから来た者だけが父を見たのである。 はっきり言っておく。 信じる者は永遠の命を得ている。 わたしは命のパンである。 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。 しかし、これは、天から降って来たパンであり、 これを食べる者は死なない。 わたしは、天から降って来た生きたパンである。 このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。 わたしが与えるパンとは、 世を生かすためのわたしの肉のことである。」
主任司祭からの説教を代読します。
先週に引き続き、主日のみことばは神様から与えられる「いのちのパン」について語られています。イエスの与えるパンはすべての人々を生かすためのみことばです。わたしたちは神様のみ旨を果たすための道具です。器です。そのことによって神様の喜び、イエスの喜び、聖霊の喜びとなります。
第二朗読、エフェソの手紙の冒頭、「皆さん、神の聖霊を悲しませてはいけません」と呼びかけています。ひとことの呼び掛けですが、とてもインパクトのある言葉です。いつも平凡な生活を過ごしている私たちでありますが、聖霊を悲しませている自分には、なかなか気づかないものです。今日は長崎に原子爆弾が投下された日です。戦後、私たちは原子爆弾を憂い、反戦を訴えてきました。しかし、2011年3月は再びヒバクシャを生み出してしまったのです。わたしたちは負の遺産である原子力エネルギーに依存してきたことを悔いました。1981年、今から34年前にもなりますが、教皇ヨハネ・パウロ二世が来日し、広島原爆ドームの前で語った「平和アピール」は忘れることができません。今もなお私たちの心に焼きついています。「戦争は人間の仕業です。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です・・・・・・・」。教皇様は日本語で力強く平和をアピールしました。
浦上教会 ヨハネ・パウロ2世 胸像 wikipediaより
パウロの手紙は続けて言われます。「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしり」がそうさせているということです。戦争は無慈悲です。何の憐れみも同情もありません。ただ破壊し抹殺するだけなのです。パウロはそれよりも価値あるもの、すなわち互いに親切にし、憐みの心で接しなさい、赦し合いなさい、神に倣うものとなりなさい、愛によって歩みなさい、と励ますのです。イエスは福音の中で「わたしは天から降ってきたパンであり、これを食べる者は死なない。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは世を生かすためのわたしの肉のことである」と、おっしゃいました。「これを食べる者は死なない」と言うイエスの言葉から創世記の失楽園のことばを思いだします。アダムとエワの物語です。蛇にそそのかされて、二人は食べてはいけない善悪を知る木を食べてしまいます。誘惑した蛇は「死ぬことはない、目が開けて善悪を知るものになり、神のようになるのだ」とそそのかしました。いつも死ぬことはない・・・・だから威張りなさい、怒りなさい、支配しなさいと・・・・魂に語り掛ける、誘惑が日々の生活のなかにあります。神様が悲しまれることは、生物学的に人間が死ぬことではありません。神様が憐みを注いで悲しまれることは、神様が創造された「いのち」である魂が死んでしまうことです。アダムとエワは食べてはいけない、神の領域である善悪を知る木を食べてしまいました。蛇の言った通り二人は死にませんでした。しかし、二人の魂は死んでしまったのです。わたしたちは肉をもって来られた神の子イエス・キリストを通して、みことばを味わいます。イエスが肉をもって人間と同じ苦しみを担われたからです。 わたしたちは、キリストの顔を見たことがありません。キリストの声を聞いたことがありません。イエスが握りしめる手の感触も知りません。しかし、イエスのみ言葉は、イエスのからだを通して語られたという歴史的事実、それはみことばが時間と空間を越えて今この時代を生きているという真理です。わたしたちはそれをわたしたちの信仰のよりどころとして信じたいのです。
神のみことばはイエスの死と復活を通して聖なる霊によってキリスト共同体のなかで育まれ、今も活き活きとわたしたちの内に生きています。イエスが生きていることは、父と子と聖霊のうちにわたしたちが生かされていることです。
浦上天主堂に於ける慰霊祭 昭和20年11月2日 wikimediaより
今日、すなわち今から70年前の8月9日、午前11時2分、広島に引き続き、長崎に原爆が投下され、浦上天主堂の上空で炸裂しました。わたしたちは、あの時の悲劇を決して繰り返したくありません。それはイエス・キリストの遺言だからです。イエスは今も戦禍の中で、悲しむ人と共に悲しみ、嘆く人と共に嘆き、罪びとの回心を御父に願いながら十字架にかかって死なれていきます。イエスの息遣いに耳を傾けましょう。イエスが吐く息、イエスの吸う息、イエスの心臓の鼓動、それを聞き逃さないように聴き入りましょう。聴こうと願えば聴こえてくるはずです。願わなければ、何も与えられないでしょう。わたしたちは絶望の中にもイエスの息遣いを聴き逃さないように、平和のイエスと共に歩んでいきたいです。今日は急遽、集会祭儀となりました。司祭不在であっても、わたしたちはみことばを日々の糧として生きていきたいです。絶えず感謝と賛美を捧げるものになるためです。これからも、いつも、どんな時も、主をたたえることが出来ますように。わたしたちを支え導いてくださいますように。父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。
[5千人がパンを食べた翌日、その場所に集まった]群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、 自分たちもそれらの小舟に乗り、 イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。 そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、 「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。 イエスは答えて言われた。 「はっきり言っておく。 あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、 パンを食べて満腹したからだ。 朽ちる食べ物のためではなく、 いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。 これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。 父である神が、人の子を認証されたからである。」 そこで彼らが、 「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、 イエスは答えて言われた。 「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」 そこで、彼らは言った。 「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、 どんなしるしを行ってくださいますか。 どのようなことをしてくださいますか。 わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。 『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」 すると、イエスは言われた。 「はっきり言っておく。 モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、 わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。 神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」 そこで、彼らが、 「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、 イエスは言われた。 「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、 わたしを信じる者は決して渇くことがない。」
説教
永遠に渇くことない命、永遠に朽ちることのない食べ物、私たちはこれこそ朽ちない命、渇くことのない飲み物を、日ごろの生活でどのようにして得ているのでしょうか。
今日の出エジプト記16章でモーセはエジプトで奴隷状態だったイスラエルの民を荒野で導いています(紀元前1200年頃)。人々は飢え死にする状態でもないのにエジプトにいた時の食事の方がよかったと不平を言いだしました。彼らの不平、呟きはモーセを通して神に向けられています。そこで神はモーセを通して天からマナを降らせ、うずらも与えました。このマナとはウエハスのようなで甘い蜜の味がしました。これはもともとある樹木に寄生する虫が、その樹液を吸いとって、体内から分泌したものです。それが早朝、冷えて固まって大地に落ちますので霜のように見えました。主は彼らの不満の呟きをお咎めにはならず、天からの食物を与えます。モーセを通じて主から与えられた恵みの糧です。
今日のヨハネ福音書は出エジプト記16章を引用して、イエスが天から降りてきた真のパンだと述べます。イエスはモーセがイスラエルの民に与えたパンとは違うものを与えると言いました。それは「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者を決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ6・35)というものです。
わたしたちにとって飢えることがない食べ物、渇くことのない飲み物とは何でしょう。
わたしたちの日常において心の状態を3つに分けてみます。
1)、刺激的で心が高揚している、意気揚々としてハイテンションである。
2)、パッとしない毎日である。よくもなく、悪くもない。
3)、いつも感動しない、うつ気味である。
この中でわたしたちはどのようにして神のみことばを頂いて新しい人になっているのでしょう。だいたい2)のパッとしない単調な日々が多いかもしれません。
イエスのみことばは生命です。渇くことも飢えることもありません。でも、わたしたちはみことばに対して正しい受けとめ方をしなくてはなりません。イエスはいつも楽観的です。「ごらんよ、空の鳥を見よ」、「野のユリを見よ」、「鳩のように素直に、蛇のように賢くなりなさい」。「思い悩むな、今日のことは今日で、明日のことは明日自らが思い悩む」。
イエスは楽観的ですが、間違った楽観主義ではなく、御父のみ旨を果たす正しい楽観主義です。楽観的な人と悲観的な人とを調査した研究があります。アメリカで2001年、ある研究者が生き甲斐について、許可をもらって修道院に入った180人の修道女が書いた日記を調べました。そこには楽観的なことが書かれていたり、悲観的なことが書かれていたりしました。当時、修道女の平均年齢が22歳でした。もちろん日記の内容には悲観的なものから楽観的なものまでありました。それから60年後、それは1990年代ですが、研究者が実際に生きている修道女たちと接触しました。180人のうち76人が死んでいましたが、楽観的な修道女の方が長生きをしていたというのが分かりました。ここで長生きがいいということではありませんが、生き方の質が大切であることです。楽観的で人生に対し肯定的な修道女と、そうでない修道女より、寿命が10年長生きしているということが分かりました。修道院という限られた空間でありながら、希望と未来を持ち続け、楽観に生きていた人の方が長生きしていたのです。ありのままの自分を肯定し楽観的な人生を賛美と感謝を通して謳歌しているのです。
マナの収集 (砂漠でマナを集めるイスラエル人たち) ニコラ・プッサン 1637~39年 ルーブル美術館 wikimediaより
私たちは自分の飢えや渇きをどのようにして埋めていますか。一時的気晴らしではありません。気晴らしは長続きしません。間違った楽観主義ではなく、正しく楽観的に生きることが大切です。
みことばを信じるということはどういうことでしょう。永遠に渇くことのない神の言葉を信じることですが、これに神経質になってしまう人がいます。神の言葉を知ってしまったら、もっと私は束縛されてしまう。どんどん生きづらくなる。聖書を信じたために、自分の生き方が変わる人もいれば、もっと厳しくなっていく人もいます。
考えてみましょう。イエスは御自身をパンという食べ物としてわたしたちにお与えになります。パンは食べ物です。食べ物を食べるときには食欲があります。食べるという事は楽しいことであり喜びでなければなりません。しかし、パンそのものが悲観的であったり、恐怖であったり、不安であったり、動揺であったりしたらどうしましょう。
また、食べるときには、それなりの食べ方があるでしょう。パンの食べ方、お魚の食べ方、お肉の食べ方・・・・飲み方もそうです。熱いコーヒーや熱いスープを一気に飲むことはしません。食べ方も飲み方もとても大切なのです。食べ物は、匂いを嗅いで、よく噛んで、よく味わいます。ということは御言葉にも深く味わうために御言葉の食べ方、御言葉の飲み方があることを忘れてはなりません。そしてイエスの与えるパンはいのちそのものでありますから、絶えず「生かすもの」でなければなりません。
パンは悲観、絶望、恐れ、動揺、無責任、虚無、憎しみ、嫉妬、復讐、であってはなりません。パンは与えるものです。パンは赦しです。寛大です。博愛です。忍耐です。親切です。柔和です。謙遜です。憐みです。慈しみです。生かすパンは楽観的かつ誠実に前向きで、絶えず希望を携えるものです。
間違った楽観主義ではいけません。失敗したら、悩みます。失敗したら、開き直って、やり直すことです。ありのままの自分を認める・・・・誤ったのならば素直にわたしであることを認める。道に迷ったら、違う道に行くこともあるでしょう。留まることも必要です。地図を見直す。磁石を見る。人に聞いてみる。そこで自分で自分の選択をします。正しいものを選ぶと言う楽観主義が大切です。そこにはすべてを神に委ねている自分がいます。幸せになりたい。地位を得たい、名誉を得たい。恋人を持ちたい。しかし、人間は、それだけでは満たされないのです。一時的には満たされるでしょうが。気晴らしではないのです。一時しのぎではないのです。
わたしたちはイエスのパンを食べていると言いながら、自分のパンは自分の力で得たものだと思い込んでしまいます。そこには神不在の高慢な自分がいます。パンは自分で稼いで得たのではありません。それを支えているのは、実は、神の恵みなのです。天から降ってきた御言葉であるパン、イエスは霊的賜物です。わたしたちはいつでも、どこでも、神からの霊的食べ物によって養われています。わたしたちが食べるというとき、健康や衣食住、春夏秋冬における秩序の美しさに至るまで、すべては天からの賜物なのです。
私たちはおのおの自分の心の窓を開けて空気の入れ替えが必要でしょう。入れ替えのできる楽観主義であること、自分に正直であることです。だから同じことを繰り返しての苦しみではなく、方角や力の入れ方を変えていく懸命さも大切です。いい加減のように感じますが、決していい加減ではない楽観主義です。だからエフェソの手紙の中で以前の生き方ではなく、滅びの生き方ではなく、古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされる、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しい清い生活を送るようになることが大切です。
「私が命のパンである」 ケンタッキー セントラルcity 聖ヨセフカトリック教会のステンドグラス部分 wikimediaより
年間第19主日 2015年8月9日 「聖書と典礼」表紙解説
年間第17主日クリック! 2015年7月26日 「聖書と典礼」クリック!表紙解説
福音朗読 ヨハネによる福音書 6章1~15節
[そのとき、]イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。
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今日は五千人に食べ物を与える物語です。この出来事は福音書のなかでも大変重要なところです。今日はヨハネ福音書が朗読されていますが、すべての福音記者が伝えている出来事です(マタイ14・13~21、マルコ6・30~44、ルカ9・10~17)。
この物語は二匹の魚と大麦のパン5つ(僅かな食物)で5千人の人々を満たしたことが語られています。実はこの五千人の給食の物語では、どの福音書もイエスがパンを「増やした」とはどこにも書いていないのです。福音を書いたマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネは五千人を満たしたことは伝えていますが「増やした」ということばで強調はしません。それでないとイエスの意図した福音は別なところにいってしまいます。
今日の福音は先週(7月19日)の主日の福音と深い関係があります。切り離すことができません。先週はこう書かれていました。「イエスは、大勢の群集を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」と述べています。
「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ」そして「いろいろと教え始められた」というのが土台になります。
今日の福音書の中で弟子たちの視点はイエスのご意志とは正反対です。イエスはあえて弟子に尋ねています。「この人たちに食べさせるためにはどこでパンを買えばよいだろうか」。こう言ったのは「フィリッポを試みるためであった」と言っています。しかも、イエスは「御自分で何をしようか知っておられたのである」と、はっきりと述べています。しかし、フィリッポはパンの数に心奪われていました。「めいめい少しずつ食べるためにも、二百デナリ分のパンでは足りないでしょう」と答えました。弟子たちはすぐに数字に目がいきます。計算高いのです。わたしたちも数字で損得を見極めようとします。一デナリオンは日当ですから、3000円にすると、60万円になります。とても計算高いですね。すると今度は弟子のアンデレが「ここに大麦パン5つと、魚2匹をもっている少年がいます。けれどもこんな大勢の人では何の役にもたたないでしょう」と言います。本音は早く解散させて休みましょう、という思いなのです。
5つのパンと2つの魚 ベルナルド・ストロッツィ ヴェネチア 17世紀 wikimediaより
先ほども言いましたが、この5千人に食べ物を与える物語では、どの福音書もイエスはパンを「増した」とは書いていません。ヨハネもマタイもマルコもルカもこの物語のポイントをきちんと理解しているからです。イエスの視点をみましょう。
「飼い主のいない羊をみて深く憐れまれた」。「御自分で何をしようとしているか知っておられた」。 次にイエスは弟子たちに「人々を座らせなさい」と言います。そこには「草がたくさん生えて」いました。すなわち、飼い主のいない羊、群集を、草がたくさん生えているところへいざない、座らせるのです。これは先週の答唱詩編、「主はわれらの牧者、わたしは乏しいことがない」と切り離すことができないのです。旧約において神はイスラエルという羊を導き、緑の牧場に伏させ、憩いの水辺に伴われ、いつくしみによって生き返らせる方です。旧約において神が迷える羊イスラエルの牧者であったのに対して、
今日の福音ではイエスが迷える羊の牧者になるのです。ですから4人の福音記者はパンを「増した」という記事にはしないのです。増えたという物理的なパンの増加にしないのです。五千人の人が満腹したと描いていますから、読み手の私たちはパンが増えたことに心を奪われ、イエスをこの世の王にしてしまう恐れがあります。それは読み手のこの世の価値、主観に偏りやすくなります。すなわち、イエスは草の生えているところに群集を座らせて、こう言ったのです。イエスは「パンをとり、感謝の祈りを唱えて・・・」から、座っている人々に分け与えられました。イエスが群集に伝えるみことばは、ご自身が十字架上で捧げる前兆を意味する言葉なのです。ですから、最後の晩餐で捧げられる言葉が語られるのです。
イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、人々に分け与えられるのです。イエスのみことばは飢えることも渇くこともないのです。人々はそれによって豊かに満たされるのです。
これが今日の福音の目的なのです。旧約では神が私たちの牧者です。しかし、新約においての牧者はイエスなのです。イエスが飼い主のいない羊を憐れまれて、青草のうえに群集を座らせ、ご自身を分け与えられるのです。パンの増加よりもみことばによって満ち溢れることを宣べ伝えるのです。
イエスはからし種のようなお方です。僅かなものでも大きなものにしてくださいます。
群集の給食(Feeding the multitude) ハインリッヒ・ヴァン・ウォータースコー 1748年 ミュンヘン wikimediaより
今日の列王記でも同じです。飢饉になったとき一人の男がパンを神の人エリシャのところにもってきました。エリシャは言いました。「人々に与えて食べさせなさい」。しかし男は「どうしてこれを100人の人に分け与えることができましょうか」と言っています。今日の弟子たちも同じ言い方です。それでも預言者エリシャは「人々に食べさせない」と言うのです。
この奇跡の意味するところは、第一に、私たちは与えられた小さなものを粗末にはできないということです。どんなに小さく、無に等しいものでも、イエスを通して神様の栄光に変えられることを信じることです。小さな力、僅かなものも、決して役にも立たないものはないのです。イエスが求めていらっしゃるのは、この世が認める大きな力や財力ではありません。大切なのは真の奉納物、献げ物なのです。
第二は見落とし易いのですが、イエスは「弟子たちに渡しては配らせた」とあります。今日のヨハネ福音書では言及していませんが。イエスは、パンと魚を祝福して裂かれた後、それをもう一度弟子たちの手にお返しになって配らせていると他の福音書では伝えています。五千人の給食の奇跡は、確かにイエスのなさった偉大な御業です。しかし、イエスは共にいた弟子たちを必要とされていることを教えています。私たちも必要とされている弟子の一人です。小さいものも、小さいことも、大きなものにしてくださる方を、信じたいです。
私たちもその信仰をもう一度思い起こして、自分の持っているものすべてを神様に献げましょう。そして、神様によりよく豊かなものしてくださるように願いましょう。その不足を感じるときに、すべてをイエスに任せ、イエスの後に従って歩んでいきましょう。私たちは主によってよって霊は満ち足りていくのです。イエスからの祝福を願い求めましょう。パウロはイエスによってひとつになることを願ってやみません。
「 そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、 一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。 主は一人、信仰は一つ、洗礼〔バプテスマ〕は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。 しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています」
パンと魚の奇跡の教会 イスラエル・タブハ wikipediaより
福音朗読 マルコによる福音書 6章30~34節
[そのとき、]使徒たちはイエスのところに集まって来て、 自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。 出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、 自分たちだけで人里離れた所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、 すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、 彼らより先に着いた。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、 飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。
説教 場﨑神父様 福音朗読 ハン神父様
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「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」(エフェソ2)。パウロは神殿にある「異邦人」と「イスラエル人」の壁を打ち壊して一つにされたキリストを宣べ伝えています。イエスの十字架の死、復活によって御父の憐れみが壁を打ち砕くのです。
「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。・・・このわたしが群れの残った羊を、もとの牧場に帰らせる。群れはもはや恐れることもおびえることもなく、また迷いでることもない」(エレミア23)。主は羊を追いやる王たちを批難し、羊をひとつに集めようとされます。やがて羊飼い、牧者となる指導者が現れるのをエレミアは預言します。
イエスは飼い主のいない羊の群れ見て深く憐れまれました。イエスの「憐れみ」とは、「はらわた」や「内臓」が揺り動かされ、引き裂かれるという意味が込められています。イエスの魂から揺り動かされる熱い感情が沸き起こってきます。それは女がお腹の中にいる胎児を気遣うほどのものです。イエスは群集の中に何を見たのでしょうか。弱り果てた体でしょうか?打ちひしがれている心でしょうか?倒れている病人でしょうか?しかし、今日の福音では「群衆」全体をご覧になられて、ご自身に胸に引き寄せようとするイエスの深い憐れみがあります。群集の一人や二人だけのことではありません。「群集」、すなわち「人間全体」について憐れむイエスがいるのです。
群集の心のなかにある喪失、絶望、挫折、悲しみ、虚無、儚さ、空しさにイエスは憐みの心を注ぐのです。
イエスは人間にとって本質的に欠けているものを群集の中に見ました。それは群集にとって必要な救いと安らぎです。イスラエルの民は、主なる神という羊飼いに導かれ、守られている羊の群れとして語られています。言うまでもなく羊は群れをなす動物で、決して一匹では生きられません。羊は群れとなって、羊飼いに導かれなければ、自分で食物を食べることもできないのです。しかも猛獣から逃れることもできないのです。
私たちはいつも羊の群れの一員であることを意識しなければなりません、そこには、私たちを導いてくださる羊飼いの存在が必要です。はっきり言いますと「飼い主のいない羊」というのは、迷子です。道を失った人間です。尋常ではないのです。孤独であり、悲惨な状態なのです。
イーストマン・ジョンソン 主は我らの牧者1863年 (詩編23) wikipediaより
旧約聖書のエゼキエル書に飼い主のいない羊の状態について述べています。
「主なる神はこう言われる。わたしは羊と羊、雄羊と雄山羊との間を裁く。お前たちは良い牧草地で養われていながら、牧草の残りを足で踏み荒らし、自分たちは澄んだ水を飲みながら、残りを足でかき回す。・・・・・わたしの群れは、お前たちが足で踏み荒らした草を食べ、足でかき回した水を飲んでいる」(34章17~19)。これは、羊と羊の間でのことです。羊は牧者がいないと、自分勝手のことしか考えず、仲間の羊のことも顧みないのです。思いやりもなくなるのです。そのため、小さい羊や、弱い羊は払いのけられて、荒らされた草を食べさせられ、濁った水を飲まなければなりません。飼い主のいない羊は方向を失い、自分のことで一杯になり暴走してしまいます。愛を失い、自分勝手な思いが先行してしまいます。互いに追い払うように傷つけ合うのです。それはこの地球上で起こっていること、私たちの日常生活で起こっていることなのです。
わたしたちは自分の人生において考えることは、自分は幸せだったか、不幸だったか、自分は何を成し遂げたか?自分の業績は何であったのか?に偏りがちです。
人生で一番大切なことは何でしょう。どれほど自分の人生に真剣に向き合うことができたのか、どれほど、人に対する憐みや慈しみに触れることができたか。どれほど自分の魂を奮い立たせて、自分の人生と向き合うことができたか、なのです。
言い換えれば、自分に正直に向き合うことなのです。正直に向き合うというのは、イエスの深い憐われみと慈しみに触れることです。この人生において、悲しみも、苦しみも、嘆きも、失敗もいっぱいあります。わたしたちにとって悲しみや、苦しみ、失敗が問題なのではありません。その悲しみ、苦しみ、失敗を、どのように生きてきたのかということが問われます。それが最も大切なことです。イエスが示された御父の心、すなわち、憐れみの心、慈しみの心で人生を生きてきたかということです。人生の核心は自分の手よりも、自分の足よりも近いところにあるのです。わたしの内に働いているイエスの憐れみの心、慈しみの心に触れることなのです。
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カトリック新聞社 7月19日 場﨑神父様 「キリストの光 光のキリスト」 より
深く憐れむイエス
この世を生きていく以上、この世の闇から逃れられるものではない。むしろともし火となって暗闇を歩むイエスがいる。イエスは慈しみと憐みである。私たちは与えられたいのちを刻みながらイエスを求め続ける。
戦後、日本経済は飛躍的に右上がりとなった。情熱的な経済至上主義はいつしか幸せを保証してくれるものと信じていた。
しかし、この世界に生きている限り、人間は飼い主のない羊のように怯えては凍える。そのとき、羊は羊飼いの声を見失う。知らず知らずのうちに、他者の叫びに対して共感できなくなり、他者の悲劇を前にしてもはや涙を流すことなく、他者に関心を示すこともなくなる(「福音の喜び」54参照)。現代社会におけるグローバル化は絶えず利潤を求めるがために格差を産み、無関心を拡大させてしまった。
イエスは受難を前に弟子たちに言った。「わたしは羊飼いを打つ、すると羊は散ってしまう」(マルコ14・27、ザカリア28・16)。羊飼いイエスが十字架に掛けられると、羊は散ってしまう。わたしたちの信仰はイエスの死と復活に与ることではなかったのか。しかし、羊の群れは魅力的な囁きに引きずられると、道を外れて「快適の霊性」、「繁栄の神学」におびき寄せられる(「福音の喜び」90参照)。霊的な世俗性は教会への愛および宗教性の外観を装う(同93)。経済的に恵まれればうわべの信仰は保たれ、それと連動する人間の欲望は魂を憩わせることはない。しかしこの華やかな業績の奥底に深い川が流れている。それは何であろう。言い換えれば「意味の喪失」であろう。見えないものを見る力が養われていないのである。
ベルンハルト・plckhorst 1825~1907 善き牧者 wikipediaより
イエスは羊飼いのいない羊を深く憐れまれた。羊は群れをなし、傷つけられやすく、誰かの導きがないと息絶えてしまう。イエスの時代、羊飼いは社会的地位もなく蔑視された。夜通し羊の番をしなければならない羊飼いは安息日も休めない。しかし彼らは命がけで自分の羊を守る。イエスは安息日を守らない羊飼いをご自身と名のり、荒野へ迷い込んだ羊を連れ戻す。イエスの深い憐みは、いかなる影をも寄せつけない。イエスは散らされた民を一つにされる。
「母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたし(主)があなたを忘れることは決してない」(イザヤ49・15)。主は今日もわたしたちを憐れまずにはいられない。だからわたしたちも請い願う。「主を憐れみ給え。キリスト憐み給え」と。
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絶好の条件の下、ミサ後親睦焼肉パーティが行われました。