主任司祭の窓

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主任司祭  場﨑洋神父

年間第15主日   2015年7月12日  「聖書と典礼」表紙解説

福音朗読 マルコによる福音書 6章7~13節

[そのとき、イエスは]十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。

福音朗読  ハン神父様

説教     場﨑神父様

今自分はどこにいて、どこを歩んでいるのでしょうか。わたしたちはどの方向へ向かって生きているのでしょうか。わたしはいったい何になりたいのでしょうか。わたしたちの生きている目的は何なのでしょうか。わたしは何をして幸せなものだと言えるのでしょうか。結婚をすれば幸せになれるのでしょうか。独身でいれば幸せになれるのでしょうか。修道者になれば幸せになれるのでしょうか。司祭になれば幸せになるのでしょうか。いずれにしても、わたしたちは、神が求めているおられる真理の霊によって導かれなければ本当の幸せに与ることはできないでしょう。見せかけの成功、富、流行、疑い、復讐心、猜疑心、憤り、憎しみ、名誉、地位、見栄をもって生きている限り、神の霊とは逆行してしまいます。本当の幸せを見つけることはできません。イエスのいのちを伝えることこそ、わたしたちにとって満ち溢れる恵みなのです。わたしたちにとっての喜びは、神の愛を人々に宣べ伝えたいという溢れ出る泉です。この溢れ出る泉をすべての人々と分け与えたいのです。神の素晴らしい恵みを自分の救いのためではなく、すべての救いのため、世界の平和のために宣べ伝えたいのです。それはすべての人々が神に立ち返ることに他なりません。それが一人ひとりに与えられている宣教の恵みです。

今日の第一朗読アモスの書では彼は自分の使命は神のことばを宣べ伝えることにありました。彼は農夫であり、羊飼いでしたが、神がアモスを召されるのです。彼は紀元前8世紀に南ユダ国で召され、北イスラエルへ派遣された預言しました。主はアモスに言われます。「先見者よ、行け、ユダの国へ逃れ、そこで糧を得よ、そこで預言するがよい」(712)。 預言者は今日の詩編にあるように、ひたすら、神の呼び掛けに応えます。「正義は神の前を歩み、平和はその足跡に従う。神の正しさの内に導かれ、それによって平和が築かれる」(詩編851214)のです。アモスは神に立ち返るように民衆に呼びかけました。

第二朗読、エフェソの手紙では「キリスト」「神」「わたしたち」の関係が、より豊かな恵みになることを宣べ伝えています。わたしたちは神から与えられている秘められた計画の中にあります。わたしたちは母の胎から生まれてきましたが、すべてものは神の愛に向けられて創造されています。ですから、わたしたちの本籍は天国にあります。わたしたちが究極的に求めている国、求めてやまない永遠の住み家がすでに用意されているのです。わたしたちは神からいのちの刻印を押されています。一人の人間として、一人のかけがえのないいのちとして、神から派遣されたものとして神から刻印が押されています。わたしたちは一人ではないのです。わたしたちは関係性によって神から生かされ育まれて成長していっているのです。神が御子イエス・キリストをこの世に遣わし、わたしたちとの交わりのうちにいのちをより一層深いものにしてくださいます。

ジェームス・ティソ 12使徒への説教 1886~1894年作 ブルックリン美術館蔵 wikipediaより

今日の弟子の派遣に関してマルコ福音書3章に12弟子の選びがあります。「イエスはこれと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まってきた。そこで12人を任命し使徒と名付けられた。彼らをそばにおくため、また派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。こうして12人を任命された」(31316)。

イエスは弟子を召し出すときに、「呼び集められ」「任命され」「そばにおくため」、「派遣して」「宣教させる」、それは「悔い改めるため」(神に立ち返るため)でした。

宣教はキリスト教において司祭や修道者だけのものではありません。キリスト者一人ひとりにも与えられている溢れ出る恵みに与ります。それはキリスト者に与えられている「祭司職」、「預言職」、「王職」の務めです。

祭司職はわたしたちが神のご意志を実現するために賛美と感謝の祈りを捧げることです。祈るということはわたしたちが祭司職に与ることです。聖書を朗読し、分かち合うことができます。家族と共に、友人と共に賛美と感謝を捧げることもできます。ハン神父様と司祭館でミサを捧げることがあります。共に祈ります。共にイエスの食卓、ミサに与って、イエスの祭司職にあずかります。

次に「預言職」です。私たちは神の言葉を与っています。未来を予知する預言ではなく、わたしたちは心に神からのいのちが刻まれています。わたしたちはそのいのちを伝える使命があります。ハン神父様は日本語教室でご自身の使命を自己紹介で語られました。わたしは韓国から来ました。私は神父です。日本人のためにみことばを伝えるために来ました。これも素晴らしい証しです。預言職です。

三つ目は「王職」です。この世の栄華、繁栄と言う王に仕えるのではありません。イエスは弟子たちを派遣するために、最低限の持ち物だけを持つように命令しました。

マザー・テレサ

 

マザー・テレサの修道会は、主に仕える会です。聖書のみことばを教えて、洗礼を授け、信者を増やすのが目的ではありません。イエスそのものを宣べ伝えるのです。自分の生き方の中にイエスを現すのです。王であるキリストに仕えるということです。人々の中におられるキリストに仕えるのです。貧しさの中にいるイエスの仕えることです。それは大きい小さいは関係がありません。

わたしたちの宣教を身近な生活の中から見つけて行きましょう。わたしたちは大きなことを求め過ぎます。大きなことをできる人たちはたくさんいるかもしれません。でも、小さなことを大切にしようとする人は、ほんとうに一握りしかいないのです。わたしたちはよく大きなことに心奪われて小さなことをおろそかにしてしまうのです。マザー・テレサは、小さなことはとても大きなことなのだと言っています。小さなものの中にこそ、秘められた神の力が働いているのです。慈悲深い神にとって、大きいものも小さなものも関係はありません。なぜなら、神はどんな時にも、とても大きい方だからです。そして、人間はとても小さいものですから、小さいものを軽んじてしまいます。だからこそ、神は小さなことから大きな恵みを引き起こす方なのです。わたしたちは小さなものは小さいものとして決めつけてしまうでしょう。でも違うのです。神とって小さいものもとても大きいものなのです。人間は、これは偉大、これは小さい、これは何の意味もないのだと決めつけています。しかし、神様の慈しみと憐れみは、どんなことにおいても無限で大きいものなのです。わたしたちは神のてのひらにある鉛筆のように、わたしの鉛筆を握ってあなたのみことばを書いて下さいと、日々祈りたいです。

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年間第14主日  2015年7月5日 「聖書と典礼」表紙解説

福音朗読 マルコによる福音書 6章1~6節

イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。 多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。 「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。 姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、 自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた。それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。 福音朗読 ハン神父様 )

説教 場﨑神父様

先週6月29日~7月1日まで北海道の司祭大会が北広島市内のホテルで開催されました。

参加した司祭は42名です。昔と比べると司祭は高齢化し、減少しています。今現在、札幌教区内にいる司祭の数は修道司祭、教区司祭も含めて58名です。平均年齢となると68,52歳になります。出身国とみてみますとアメリカ、イタリア、フランス、ドイツ、韓国、カナダとなっています。「預言者は、故郷で受け入れられない」というイエスの時代の諺がありますが、年配の宣教師のことを思うと、どんなにかご苦労が多かったのではないかと思い巡らしました。

イエスはご自身が育った故郷ナザレへ行かれたとき、人々は囁きましたあのお男はヨゼフの子ではないだろうか。あのような知識と知恵をどこで得たのだろうか、と頭を傾げました。神父でも幼い頃、育った教会へ派遣されると、ちょっと恥かしさを感じます。幼い頃の長所も欠点をよく知っている信者さんがいるからです。まして自分の家族や親戚となると、どうしてもよく知っているので、軽率に扱われることがあります。私たちも親しい仲においては不信仰に陥りやすいものです。日本の諺に「医者の不養生」というものがあります。ナザレの人々はイエスのことをよく知っていたので、イエスから語られる神のことばを簡単に受け取ろうしません。医者も健康についてよく知っているのですが、なかなか自分の健康のことを顧みることをしません。聖書をよく知っている、神様のことをよく知っているといいながら、信仰を疎かにしている神父もいないわけではありません。「親しき仲にも礼儀あり」もそうでしょう。どんなに仲の良い友だちであっても、夫婦であっても、どんなに親密な間柄であっても、守るべき礼儀があるということです。どんな間柄でも聞くときには聞き、告げるべきときには告げなければならないでしょう。預言者は故郷で受け入れられないという壁を打ち払っていかなくてはなりません。親しいからこそ、礼儀を学び、家族のすべてを知っているからと威張らないで、家族の良さを蔑ろにしないようにしましょう。

両親の家のキリスト」ジョン・エヴァレット・ミレー 1849年~50年 テート・ギャラリー収蔵 wikipediaより

第一朗読のエゼキエル書では「彼らが聞きいれようと、また反逆の家なのだから拒もうと、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう」(2・5)と告げています。人々は預言者がすぐそばにいるのに、その存在さえも分からないのです。パウロは自分の傲慢を悔いて神に祈りました。「わたしが思い上がることのないようにと、わたしの身にひとつの棘(とげ)が与えられました。わたしを痛みつけるためにサタンから送られた棘です。この使いについて、離れ去らせてくださるように三度、主に願いました」。すると主は「わたしの恵みはあなたには十分である。力は弱さのなかで発揮されるものだ」と言われました。パウロのもつ棘とは何でしょうか。手紙のなかで棘についての詳細は述べられていません。肉体的ハンディなのか、情欲なのか、いろいろな説がありますが、パウロ自身を大いに悩ませたものだったと言えます。そもそも人間の持つ「弱さ」とは何でしょうか。「弱い、弱い」と言い続けて、逆転劇に入る人もいます。「強い、強い」と言いながら、わざと弱さをさらけ出す人もいます。それでは、パウロが言う「弱さ」とはいったい何でしょうか。弱さとは決して悪いものでもありません。また逆に人間の「強さ」が善と同じであるというわけでもありません。わたしたちが生きていくなかで、「弱さ」が良い方向に働くこともあれば、「強さ」が悪い方向に働くこともあります。大切なことは、弱いときであっても、強いときであっても、心の内に、キリストの慈しみと憐れみの力が豊かに満ち溢れるように、祈り求めることです。そうすることによって御父のみ旨が発揮されていくのです。人間の思いと知識には限界があります。私たちの知識と知恵をはるかに超えた御父の愛が、身体的に、あるいは、精神的に満ち溢れるように祈りましょう。人間の秤で量った「弱さ」「強さ」の力加減ではないのです。パウロは御子イエスの存在こそ、全宇宙の中で最大の奇跡だと言いたいのです。神の愛のすべてが、この人間の中に、この人間の肉を通して御父の霊が溢れているからです。  家族の間では見えるはずのよいものまで、見えなくなります。親しい人たちの間では見えない醜いものまでが、よく見えてくるのです。弱さを正しく理解し、神の恵みを請い願いましょう。 

ニコラ・トウェレニエによる執筆中のパウロ 1620年 wikipediaより

今日はミサ後にハン神父様の霊名をお祝いします。ハン神父様が生まれたとき、この子はどのような子供になるのか、御両親は思ったことでしょう。ペトロの霊名をいただいたハン神父さまの召し出しを心からお祝い致しましょう。この札幌の地に派遣してくださったことを心から神様に感謝しましょう。

ペトロ韓晸守神父様の霊名お祝い 茶話会風景

年間第13主日 2015年6月28日    「聖書と典礼」表紙解説

福音朗読 マルコによる福音書 5章21~43節

[そのとき、]イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、 大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。 「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。 大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。

《さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、 全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛(まぎ)れ込み、 後ろからイエスの服に触れた。 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、 群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。 「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺(あた)りを見回しておられた。 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、 震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。娘よ、あなたの信仰があなたを救った。 安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」イエスがまだ話しておられるときに、》

会堂長の家から人々が来て言った。 「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩(わずら)わすには及ばないでしょう」イエスはその話をそばで聞いて、 「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネ のほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。 一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。 「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、 子供のいる所へ入って行かれた。そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。
それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。

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ヴァシリーPolenov  「ヤイロの娘の甦り」1871年  wikimediaより

説教・年間第13主日 2015628

         会堂長ヤイロの娘の甦り


今日の福音には二つの奇跡物語があります。ひとつの物語の間に別の物語があるのです。

今日は会堂長ヤイロの娘が死から甦った箇所を朗読しました。

ヤイロにとって大切な娘でした。その娘は死にかかっていたのです。死ぬということはヤイロのすべての人生が失われることでした。ヤイロはイエスの前でひれ伏して、しきりに願いました。「どうかお願いです。娘が死にそうです。おいで下さり、手を置いてやってください。そうすれば娘は助かり、生きるでしょう」。ヤイロは会堂長の一人です。マルコ316節でイエスが会堂で手の萎えた人を癒したところを目撃したことと思います。そこにはファリサイ派とヘロデ派の人たちがイエスを訴える口実を考えていました。恐らく、ヤイロもこの出来事を知っていたはずで、イエスに信仰を証ししたいと願っていたと推測されます。しかし、今となって、ヤイロは、イエスのみが一縷の救いでした。イエスはそれに応えて会堂長の家へ向かわれました。しかし群集に阻まれてしまいます(12年間も出血の止まらない女の物語がその間に挿入されている)。

そのとき、会堂長の家から人々が出てきて言いに来ました。

「お嬢さんは亡くなりました。先生を煩わす必要はなくなりました」と。しかし、イエスはそれを打ち消すかのように「恐れることはない。ただ信じなさい」と言いました。イエスは会堂長の家に3人の弟子を連れてお入りになりました。会堂長の知り合いの人々は大声で泣きわめいて騒いでいました。イエスは人々にこう言われたのです。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」。ここで人々はイエスのことばに躓き嘲笑いました。会堂長のお嬢様が死んだのに眠っている・・・馬鹿げたことを言うものだ、という思いでしょう。

ここでイエスは死について、ユダヤ人が考えるようなことは思っていません。イエスにとって死は通過儀礼に過ぎません。人間の目からすればまさしく肉体の死であり、すべての終わりでしょう。しかしイエスはヤイロの信仰の果てに希望を語るのです。このヤイロの娘の奇跡は、イエスの復活を前表のしるしになります。「タリタ・クム(少女よ、わたしは言う。起きなさい)」(アラマイ語)。少女はすぐに起き上がって、歩き出しました。その情景を見た人々は驚きのあまり我を忘れたほどでした。イエスはこのことを誰にも話さないように厳しくお命じなられました。

ここでわたしたちは何を学びますか。一つ目は、わたしたちはヤイロのような信仰をもっていかということです。何かのときに、イエスに願い、イエスを自分のところへ招く祈りをしていますか。困難なとき、自分の力に任せていないでしょうか。そして第二に、わたしたちは少女になります。イエスがわたしたちの手を取って「起きなさい」。と言われるのです。わたしたちの手をイエスは握り、わたしたちを起こされるのです。わたしたちの恐れ、絶望、挫折、失望を超えて、わたしたちの手を取って「タリタ、クム」とおっしゃるのです。そして第3に、わたしたちは弟子たちになります。どんな態度でイエスのなさったしるしを見届けたのでしょうか。

今日の知恵の書を見てみましょう。

「神が死を造られたわけではなく、命あるものの滅びを喜ばれるわけでもない。生かすためにこそ神は万物をお造りなった。神は人間を不滅なものとして創造し、ご自分の似姿として造られた」(知恵1~2)。

イエスは死を語るかたではありません。新しい命を生み出し、新しく生まれ変わることを願われる方です。

第二朗読 今日のパウロのコリントの手紙では、「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためです」。

イエスはわたしたちの信仰を強めてくださいます。死を恐れるのではありません。信じる恵みに招かれていないと感じることが悲しみのです。イエスにとって死は通過儀礼であり、真のいのちは永遠に生きるのです。イエスは生きる御父を示します。だからイエスは言うのです。起きなさい、目を覚ましていなさい、信じなさい、恐れてはならない、と。

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年間第12主日  2015年6月21日  「聖書と典礼」表紙解説

 福音朗読 マルコによる福音書 4章35~41節

その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。 弟子たちはイエスを起こして、 「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。 「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」 弟子たちは非常に恐れて、 「いったい、この方はどなたなのだろう。 風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

(福音朗読  韓神父様)    

説教 場﨑神父様 音声 click!

カトリック新聞・キリストの光・光のキリスト・みことばの黙想より

場﨑洋神父 様

           なぜ怖がるのか、信じないのか。

信仰は本質的に一つである、謙虚であり、素直であり、信頼である。感謝と賛美を忘れず、平和の絆で結ばれ、一致の霊によって保たれる。しかし、私たちは信仰と宗教を混同してしまう。自己中心的な側面が見え隠れすると神不在となる。不安に陥ったり、悲観的になったり、排他的になったり、批判的になっては支配的になる。そうなると私たちの信仰は世俗的な宗教に変貌する。群集に取り囲まれていたイエスはスターではない。御父を現わすためにこの世に来られた方である。弟子たちは有頂天だった。イエスは雑踏から抜け出すために「向こう岸へ渡ろうと」と弟子たちに言われた。 ガリラヤ湖の水面は海抜より200メートル程も低い。東西、高地に挟まれているため、夕暮れ時に、突風に悩まされることがあった。イエスが乗った舟もそうだった。激しい突風が起こって、舟は波をかぶって、水浸しになった。イエスは艫の方、つまり船尾を枕にして眠っていた。弟子たちは、「先生、おぼれてもかまわないのですか」と言った。眠るイエスと慌てふためく弟子たち、この両者は実に対照的である。弟子たちの言い分はこうである。気にかけてくれないのか、助けてくれないのか、かまってくれないのか。弟子たちは、眠っている主にたいそう不満だった。
 <ガリラヤ湖 面積166キロ平米周囲53km最大水位43m海抜-213m wikipediaより(クリックして下さい。音声が出ます)>

自然は時計仕掛けのように宇宙の秩序で動いている。自然に向かって人間はどうすることも出来ない。私もそう思う。しかし、イエスの奇跡はこの秩序を覆してしまう。風に叱って、湖に向かって「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、すっかり凪になった。イエスは自然界を支配する権能を与えられていた。イエスはかさねて言われた。「なぜ、怖がるのか。まだ信じないのか」。狼狽している弟子たちにイエスは厳しく咎めた。弟子たちの恐れは、自然界を支配しているイエスへの畏敬に変わっていく。「いったい、この方はどなただろう。風や湖さえも従うではないか」。
ガリラヤ湖の海は、この世界を意味している。風は予期せず吹いてくる。この世の煩いを象徴する海の変化。弟子たちも私たちもこの世の思い煩いの中で翻弄される。しかし、何事にも動じない主は御父を枕に眠っておられる。「主は一つ、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内にある」(エフェソ4・5~6)。今日もイエスの声が私を奮い立たせる。「なぜ、怖がるのか。信じないのか」。

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年間第11主日   2015年6月14日  「聖書と典礼」表紙解説


福音朗読 マルコによる福音書 4章26~34節

[そのとき、イエスは人々に言われた。]「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。 (福音朗読  韓神父様   説教 場﨑神父様

今日のエゼキエルと答唱詩編は「なつめやし」「レバノン杉」が神のみ言葉のように生い茂っていく様子を語っています。「神に従う人はなつめやしのように栄え、レバノンの杉のようにそびえる。神の家に植えられた人は、わたしたちの神の庭で栄える。年を経てもなお実を結び、いつもいきいきと生い茂る」(詩編92)

人は驚きます。土に種を蒔くと、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長していきます。人はどうしてそうなるのか知りません。それほどまでに神のわざは偉大なのです。この世のすべては諸行無常です。動植物も大地も宇宙も、どんどん成長しては変化していきます。それは当たり前のことなのですが、そこには計り知れない神のご計画を感じます。

植物を育てるとき、あるいは動物が育っていくときには自然の掟に従わないといけません。人間も同じです。赤ちゃんの吸収力はスポンジのようです。物凄いものです。声掛け、ミルク、スキンシップ、空腹、睡眠、痛み、赤ちゃんは違和感や心地よさを敏感に知らせます。親は子どもの反応に応じて絶えず信頼のうちに育てていかくてはなりません。現代社会を観ると人間が成長していく環境がもの凄いスピードで変わってきています。イエスの時代と現代社会は、社会的価値観も生活環境も、寿命も、医療も、情報も、大きく違っています。食事は親から伝授しなくなりました。しまいに信仰を伝えることもなくなってしまったという現実もあります。華やかな物質社会の中で、何か魅力的なものを希求しているのですが、なかなか満たされることがありません。昨日、「福音宣教」(オリエンス発行の月刊誌7月号)の中に次のようなお話がありました。ケニアの大学の入学式で先生が学生に人生をどのように過ごしたらいいのかを問いかけました。「それはバケツを石でどう満たすかという実験と同じである」と言いました。先生は助手にお願いしてバケツをもって来させました。その中に大きな石を入れて質問しました。「皆さん、これでバケツは一杯になりましたか?」。学生はもちろん「ノー」と答えました。次に砂をもって来させ、この石の隙間に砂を詰めさせました。先生は、「これで一杯になりましたか」と質問しましたら、ある学生は「ノー」と答えましたが、中には「イエス」と答えた学生もいました。すると別の学生は「水を注げば一杯になります」と言いました。すると先生は「そうです」と言いました。「人生はこのバケツの満たし方と同じです」とおっしゃったのです。と言いますのは、先に水や小石をいれてしまうと大きな石は入れられなくなるのです。要するに人生には順番というものがあるのです。最初に大きな基礎となる石、すなわち知恵と宗教心を据えなければなりません。先に砂や水を入れると大きな石は入らないのです。それは人間も同じことなのです。人間が成長していく時、子どもにとって必要なもの、要となる大切な石を据えなければなりません。

(なつめやし                   レバノン杉  )wikipediaより

食育にも順番があるでしょう。乳飲み子がミルクを飲む、そうすることによって飲むと言う力が養われます。次には離乳食、噛むという力を養います。味はうすい味から徐々に濃い味へと移行しなくてはなりません。そして人間として大切な、対話と、スキンシップ、語り掛けが、どうして必要です。子どもはスポンジのように素直に吸収していくものだからです。こんな詩がありました。わたしの記憶に残っているものです。乳飲み子の気持ちになって作られた詩です。

「ママ、ミルクを飲ませてもらっているとき、スマホを見ないで。

ママ、僕の顔を見て、僕はここにいるよ、ママ、こっちを見て

ママ、おむつを取り替えているとき、スマホを見ないで。

ママ、僕の顔を見て、僕はここにいるよ、ママ、こっちを見て・・・・・」

人間というものを培っていく際に順番を間違っていることがよくあります。エネルギーをつくるために、人は水や火で電気を起こしました。水車で、風力で・・・・・ところが人間は順番の入れ違いをしてしまいました。原子力を優先にしてしまったので、事故が起こったときには全くの無力です。人間は自然の力を蔑ろにしています。2週間前に同窓会が仙台であり、その間に福島県を視察しました。福島原発から南10キロのところにある富岡町です。無人の家屋、埃と雑草、そして放射能が流れるだけの町でした。人間は自然を蔑ろにしています。自然界に逆らうがために、便利さ、利便性、快適さを追求していく人間の弱さがいつも潜んでいます。便利さの中の大きなツケ、負の遺産を持ち合わせているのです。国家もセキュリティにお金をかけます。この世が複雑になればなるほど、便利になればなるほど生きづらさを感じます。そうなると国の防衛も高まるだけなのです。わたしたちはいのちを選ばなくてはなりません。わたしたちは環境を選ぶ責任があります。信仰が成長していくためには、苦しみや試練がどうしても必要になります。信仰はそれによって養われます。同時にわたしたちは目で見ることのできない、信仰の根をがっちりともっていなければなりません。根が土についているのであれば、簡単に木は折れないでしょう。種は御父、蒔く人はイエスです。私たちの内にみことばが育っていくことができるように信仰の根を育てていきましょう。

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キリストの聖体  2015年6月7日  「聖書と典礼」表紙解説

福音朗読 マルコによる福音書 14章12~16、22~26節

除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠(ほふ)る日、 弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。 「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする わたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」 弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、 賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。 「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。 彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。 「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。 (福音朗読  韓神父様   説教 場﨑神父様

聖体の行列  ドイツ メケンポイレン wikipedia

  主の聖体を祝う日は日々のミサはもちろんのこと、復活した日曜日であることは言うまでもありません、典礼暦からすると、「主の晩餐の夕べ」はイエスが聖体を制定した日です。それが成就したのが十字架上におけるイエスの死であり、同時にイエスの復活です。ミサは初代教会においては「パンを裂く式」「主の晩餐」として呼ばれ、ローマ皇帝がキリスト教を公認した後は、ラテン語の呼び名「ミサ」(集会の終わりに使う言葉。英語ではマスで「集まり」の意)になりました。「キリストの聖体の主日」が定められたのは13世紀、ウルバノ4世教皇です。これによって秘跡としての聖体の主日が祝われるようになりました。

 第一朗読の出エジプト記の24章は旧約(The Old Testament=旧い契約)そのものを語る箇所です。モーセが祭司となり、主なる神とイスラエルが契約を結ぶところです。主のことばを語ったモーセは、雄牛の血を鉢に入れて、半分を祭壇に振りかけ、残りをイスラエルの民に振りかけました。聖書では血の中に人間の命があるとされました。雄牛がイスラエルの民の代わりに捧げられ、イスラエルの血として祭壇に捧げられたのです。イスラエルは命をかけて神との契約を結ぶことを誓ったのです。これは後に、イエスが制定するミサの原型、みことばの典礼と感謝の典礼の起源になっていきます(遡れば過越祭までいきますが)。 第二朗読では「キリストは新しい契約の仲介者なのです」と言っています。イエスは食卓を通して愛の交わりを弟子たちに伝え、十字架によって福音の成就に至りました。 イエスは一同が食事をしているとき、パンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂いて言われました。「取りなさい。これはわたしの体である。」そして同じようにイエスは杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになり言われました。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」これは、「すべての人のために流されるわたしの血である」ということです。御父が御子をこの世に送るほど、神ご自身が血を流されるほどの愛なのです

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ア―ン・イ―ゼンブラント 大聖グレゴリウスのミサ 1510-1550 freeartworks)     

アメリカの聾学校で先生が子供たちに教えていました。先生は子供たちをお花畑に連れていき、手話を交えて語るのです。「このお花さんたちは神様に向かって咲いているのですよ、神様、ありがとう!神様、大好き!神様、素晴らしい!神様に感謝!神様に賛美!・・・・・・」でも、普通の学校の先生はそんなことは言わないでしょう。恐らくこうでしょう。「土に種を植えて水をやり、太陽に向かって植物はのびて、光合成をし、綺麗な花を咲かせるのです。それが植物です。みなさん、分かりましたか」でしょう。 

初聖体のときに、子供たちはわくわくします。イエスさま(聖体)を頂けるからです。でもある親はこんなことを言いました。 「ご聖体は、ただのパンよ」「おいしくないよ」「いいえ、とても甘いわよ」「最中のようなのよ」「ウエハスのようだよ」。イエスさまを霊的な食べ物としていただくのですから、これはよくない教え方ですね。

私が初聖体を受けた時(7歳)、伝道師からこう言われました。「いいかい、イエスさまを頂くのだよ、かじってはいけないよ。血がでるからだよ」「唾液を出して、やさしくイエスさまをいただきなさい。その心でいただくと、イエスさまは、あなたのこころの栄養になり、体中がイエスさまの愛で一杯になるんだよ」パンは語るのです。パンはイエスを語るのです。私たちのところまで来てくださった理由を語るでしょう。パンはみ言葉です。食べ物という形で語り続けるのです。パンは旅人イエスです。イエスは生きています。イエスがどんなかたであるのか、思い起こします。イエスはわたしたちのために渡されて、わたしたちのために血を流されて、わたしたちのために死んだ方です。どんなに尊いものなのでしょうか。いただいたイエスを本当に自分のいのちの糧となることができるのであれば、わたしたちも、イエスに倣って人々のために御父のみ旨を果たすことができるでしょう。

1981年4月、マザーテレサが来日して日本の司祭たちの前でお話しをされました。

「わたしは一日に何回もイエス様を拝領します。朝早く起きて、祈りをし、ミサの中でイエス様をいただきます。そしてスラム街へ行き、やせ細った人を迎え入れてイエス様を頂きます。また歩いて行くと別の貧しい人に会います。そこにもイエス様がおられます。マザーはマタイ25章のたとえを引用されます。この貧しい人にしてくれたことは、神様にしてくれたことなのです。わたしはこうして何度もイエス様を拝領していくのです」。

夫の中にも、妻にも、気難しい人の中にもイエスがおられます。

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聖アルフォンゾ・ロドリゲ wikipedia

1500年頃、スペインに、アルフォンゾ・ロドリゲという修道士がいました。最初は結婚しました。しかし、災難に会って、妻も子どもなくなってしまいました。その時34歳でした。それから彼はイエズス会の修道士になりたかったのですが、6年間、断わられ続けました。しかし、やっと許され、修道士として、46年間、学校の門番をすることになりました。門の呼び鈴が鳴ると「イエスさまだ」と言って、門まで行って本当に、喜びをもって迎えるのでした。訪れる人々はこの門番は天使のようですね、と言いました。とっても温かく人々を迎え入れるので、ある人は彼を聖人と言いました。それは単純なお仕事だったでしょう。誰にもできるようなお仕事でしょう。しかし、彼は門を開けて、閉めるだけではないのです。いつもイエスを迎えているように迎えるのです。病気のときも、苦しいときも、喜びをもって、訪れる人を迎えました。ある日、一人の男の人が呼び鈴を鳴らしました。いつものようにアルフォンソは、「ようこそ、いらっしゃいました」と、出迎えました。すると、その男の人は答えました。「わたしはイエスである。毎日毎日、わたしを迎えてくださいました。ここを訪れるひとりひとりがわたしでした」と言いました。あるいは婦人が訪ね、それが聖母であったりしたのです。


わたしたちもイエス様を聖体、食べ物として頂いています。「キリストの御体」「アーメン」。

まさしく人々の中にいるイエスを受け入れるという信仰宣言です。今日のキリストの聖体の日を祝って、アルフォンソのように人々の中におられるイエスさまを喜びと感謝のうちに迎え入れることの出来るよう祈って参りましょう。

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三位一体の主日  2015年5月31日  「聖書と典礼」表紙解説

福音朗読 マタイによる福音書 28章16~20節

[そのとき、]十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能(けんのう)を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」            (福音朗読   晸守神父様)


           説教  場﨑神父様

今日は教会典礼のなかでキリスト教の教義といも言われる「三位一体の主日」です。イエスの受難、復活、昇天、聖霊降臨と続いた典礼暦は、父と子と聖霊の神秘を祝います。真のいのちは御父と御子の間の永遠の愛の交わりです。父はすべてを与え尽くして御子をこの世に送り、御子は自分のすべてを御父に捧げます。聖霊は御父と御子の相互愛、絆の自己譲渡の実りとなります。父と子と聖霊の三つの位格(ペルソナ、人格の意味)は、三つでありながらも、ひとつなのです。第一の位格は御父です。愛の源です。第二の位格は御子です。御父の完全な似姿としてわたしたちに現された御子イエスです。第三の位格は聖霊です。御父と御子の愛の絆、溢れる愛の輝きです。二世紀から三世紀の教父(神学の父たち)たちは、御父と御子と聖霊の関係についていろいろな形で表現しました。 「太陽が神で、光線が御子で、輝きが聖霊である」。「御父は泉であり、御子は川であり、聖霊は流れである」。「御父は根であり、キリストは木であり、聖霊は実りである」。「父は隠れている神であり、御子は目に見える神であり、聖霊は生かす神である」。このように父と子と聖霊の関係を神学的に解釈していきました。三位一体という神学用語を初めて言葉にしたのが「告白録」を著した教父アウグスチヌスでした。 

グエルチ―ノ  三位一体について瞑想する聖アウグスティヌス 1636年作 プラド美術館  freeartworksより

三位一体について子供に説明することは難しいですが、ローソクでたとえると、とても分かり易いと思います。蝋(ロウ)のなかに一本の芯(シン)が入っています。これを御子イエスと考え、それを包んでいるのが蝋である御父とします。芯であるイエスは御父の充満のうちにおられます。火が灯されることは、イエスが御父の愛を受けて燃えあがることです。ローソクは芯だけが燃えているのではなく、蝋を芯に沁(し)み込ませて一緒に燃えているのです。この御父と御子の相互愛、この炎を聖霊にたとえことができるでしょう。この慈しみ深い賜物、憐み深い輝き、永遠の喜びが聖霊なのです。

位一体を神学的な言葉で解釈するならば、もっと難解なものになります。あえて日常生活の中で考えていきましょう。それは一人称である「わたし」、二人称である「あなた」、三人称である「わたしたち」の関係です。この関係性は人生を営んでいくためにとても重要です。 「わたし」という存在は一人で生きていくことができません。「あなた」という存在があって、はじめて「わたし」は「あなた」を愛するということができます。しかし、「わたし」と「あなた」という関係には留まるのであれば関係性は狭いものになってしまいます。「わたし」と「あなた」は共になることで「わたしたち」になるのです。要するに「わたし」、「あなた」、「わたしたち」は人間にとって必要不可欠な関係性であって、それぞれが別々ではなくて、「わたし」は「あなた」であり、「あなた」と「わたし」は「わたしたち」になるのです。


わたしたちは神の似姿として創造されています。生まれてきた赤ちゃんは必ず信頼する人がいなければ生きていけません。泣いては、ミルクを与え、泣いては抱き締め、泣いては応えてあげるのです。そういう関係性において、信頼関係が出来上がっていき、愛されることと、愛することの大切さを学んでいきます。この体験によっていのちがどこへ向かっていくか、本来、人間に備わっている真理への探究が起こるのです。

大人になっていくと、自分という存在が、自己中心的なものから、他者を通して自分自身を知る価値に変わっていきます。この関係性において、客観性を育みながら長所や短所も分かってきます。そこには関係性の中から生まれてくる新しい出会いがあります。この出会いの中にある、求めてやまない探究心は生涯、生きている限り止むことはありません。

 御父はこの世を愛していたために御子をこの世にお遣わしになりました。御子は御父なしには何もできません。御子はご自身を通して御父をお示しになられました。聖霊は御父が示されたイエスの生涯から溢れ出ます。父と子と聖霊、これは切り離すことができない関係性です。わたしたちはこの神秘に絶えず招かれています。生涯、人間は関係性のなかで真理を培っていきます。

わたしたちは神の似姿として創造されています。わたしたちのうちに神が住まわれ、神のみ旨を行うものとなりますように願います。私たちも祈りと行いによって御父のみ旨を果たし、イエスのみことばを心の奥から聞き従い、出会いという関係性においてより豊かな命を見出すことが出来ますように歩みましょう。

三位一体の神秘は計り知れません。しかしこの教えはわたしたちが生きている生活の中で欠くこのできない恵みの神秘なのです。わたしたちは、「わたし」、「あなた」、そして「わたしたち」という形の中で神の恵みに気づき、みことばを伝える道具となっていくのです


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聖霊降臨の主日  2015年5月24日   「聖書と典礼」表紙解説

福音朗読 ヨハネによる福音書 15章26~27、16章12~15節

<そのとき、イエスは弟子たちに言われた。>「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証(あかし)しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

聖霊降臨を描いた15世紀の写本  wikipediaより

聖霊降臨を新約聖書の使徒言行録ではペンテコステと言います。イエスが復活して50日目のことを言っていますが、ギリシア語で50日目のことをペンテコステと言います。もともとは過越祭から50日目に行われる春の収穫祭「シャブオット」(五旬祭)に由来していました。神の霊はいつの時代にも溢れ出ていたものです。聖霊は人類の歴史、救いの歴史において、神ご自身が御子イエス・キリストによってもたらされた無償の愛から溢れ出ました。私たちが確信したのはイエスの死と復活によってもたらされたまことの霊、聖霊の到来、福音を宣教する「教会の誕生」です。聖書では霊のことを、ヘブライ語で「ルアハー」と言って「息」「風」を現します。ギリシア語では「プネウマ」です。

ヨハネ23世は第二バチカン公会議の開催を宣言し、その準備を開始した日が196065日の聖霊降臨の日でした。教皇はこの日を「新しい聖霊降臨(ペンテコステ)」と呼びました。教皇は普遍である教会が真の普遍である教会となるために改革が必要であるとおっしゃいました。聖霊は、公会議と言う狭い範囲だけのものではなく、公会議を通して教会は開かれていったのです。いや今も開かれたものでなければなりません。聖霊は教会という建物の中だけの働きではありません。日々の生活の中における出会いの中にも聖霊は働いています。自分の狭い考え方に固執していけません。教会という組織や権威に囚われてもなりません。教会にはイエスが証した聖霊が住まわなければなりません。聖霊が豊かに実るためには、平和と一致のための祈りが大切です。歴史は繰り返します。世界は混沌としています。人々は平和と一致に逆らって分裂と争いの道へ傾いています。だからこそ聖霊による一致が必要なのです。  

先週、函館トラピスチヌ修道院80半ばの修道女と面会をいたしました。彼女はこう言われました。「わたしの祈る祈りと、神様が叶えてくださる祈りは、いつも正反対ですね。でも、わたしはとても幸せですし、感謝しています。神様は、わたしたちが思っていること以上に、素晴らしいことをなさる方です」。これからもそうでしょう。霊は言うまでもなく神から来ますが、いつどこから来て、どこへいくのか誰も知らないのです。それであっても霊は愛を呼び覚まし、わたしたちの心を潤し、気高いものへと導いてくださるのです。

イエスが神殿の議員ニコデモに語った言葉があります。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(ヨハネ38)。

このイエスの言葉を引用して典礼聖歌「風がどこから」が作詞作曲されました。 

1番の歌詞

風が どこから吹いてくるのか、人は誰も知らない。愛を呼び覚まし 心を潤し
いつの間にか わたしの中を 吹き抜けてゆく、それは気高い キリストの思い

どこへ風は吹いてゆくのか、誰も知らない。

私たちは霊を見ることができません。聖霊の到来を信じていながら、いつ聖霊が私たちのところへ来て、私たちの心を満たし、私たちから去っていくのかも分かりません。今、ここに来た、あそこに来た、と、簡単には言えるものでもありません。私たちの望んだとおりに聖霊は来るのでしょうか。私たちは、どの出来事が、どの出会いが、本当の聖なる霊なのか完全に知ることはできません。昔、これこそ神の霊だと信じ込んでいましたら、時間の経過と共に、それが過ちであったことに気づいたりすることがよくあります(自分も、私たちも、国家も、歴史も)。その時、自分の中に気づきが起きます。自分が新たないのちによって変えられていく気づきです。聖霊は計り知れない深さをもってわたしたちを導いてくださる方なのです。 

2番の歌詞

炎がどうして 燃え上がるのか、人は誰もたずねない。
闇をなめつくし 腐敗を貫き、深く高く すべてのものを 清め続ける
それはみなぎる キリストの力、なぜか炎は燃えているのに、誰もたずねない。
 

キリストの力、キリストのいのちが、炎のようにいつも燃えあがっています。それなのに、そうであるのに、人は誰もたずねないのです。しかし、霊はそれでもわたしたちに語り掛けます。すさんだ心、汚れた心を清め続けるのです。 

 3番の歌詞

時がいましも 過ぎていくのに、人は誰も気づかない。
道を先駆けて 恵みを携え、遠くはるか ひとりひとりを守り導く
それは ひそかなキリストの祈り、なおも時は過ぎてゆくのに
誰も気づかない。
 

時が過ぎて行きます。それはいのちです。いのちは時間です。キリストのいのちが今ここに生きているのに、人は誰も気づかないのです。霊の結ぶ実りは愛、喜び、平和、寛容、親切、誠実、善意、柔和、節制です。人は倒れながらもそれを築こうと聖霊に助けられるのです。典礼聖歌は第二バチカン公会議後、日本人のために多くの方々の尽力によって完成に至りました。作曲家・高田三郎氏の功績は大きく、グレゴリオ聖歌を上手に組み込みながらつくられました。上記のものは菅野淳(かんのじゅん)が作詞(KJ)したものです。菅野さんは神父様でした。いろいろな葛藤の中で悩み続けていた頃の作品です。「友よ、聞こう」。「ごらんよ空の鳥」。「風がどこから」などを作詞しています。

今日(2015524日)、聖霊降臨のミサの「閉祭の歌」で歌われました。
典礼聖歌386番。「風がどこから」(作詞 菅野 淳 作曲 高田三郎)より。

 

「バベルの塔」ヨース・デ・ モンベル 国立古美術館蔵 wikipediaより

最後に聖霊に向かって祈ります。

聖霊よ、わたしたちの自己中心的なおごりを打ち砕いてください。わたしたちのうちに主が住まわれますように。

聖霊よ、わたしたちは不安な時代を生きながら悲観的になります。このわたしたちの闇にあなたの光で注いでください。あなたを見出し、希望のうちに、あなたを証しすることができますように。

聖霊よ、世界は今、バベルの塔を築き、競い合っています。核保有国は核を手離すことをせず、核でもって平和を築こうとしています。現代にある傲慢の象徴バベルを打ち砕き、

互いに理解し合い、一致と平和によって、世界がひとつになりますように。

聖霊よ、わたしたちの傷をいやしてください。互いに赦し合うことによって、互いの傷を癒すことができますように。

聖霊よ、この世のテロ、暴力、残忍さから、この世界を救ってください。人間のエゴから生まれる悲惨な行為をあなたはお赦しになりません。すべてを聖霊にゆだね、平和を求める世界となりますように。

聖霊よ、あなたは御父と御子の愛から生まれた、偉大な賜物です。わたしたちがイエスを通して、御父を知り、聖霊によってその偉大さを誇ることができますように。

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主の昇天   2015年5月17日    「聖書と典礼」表紙解説

福音朗読 マルコによる福音書 161520

そのとき、イエスは11人の弟子に現れて>言われた。
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。
彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」
主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。

福音朗読   晸守ペトロ神父様

説教   場﨑神父様

 第一朗読の使徒言行録1章、ルカはテオフィロ(「神を愛する人々」の意)にこの書を献呈しています。恐らく、テオフィロという一人ではなく、神を愛する人々に送った書と言えましょう。その冒頭はイエスが40日間にわたって人々に復活したいのち、ご自身を現し、天に昇られた出来事を記しています。イエスが天に昇るまで40日間、人々に復活のいのち、まことのいのちを現されました。この40は聖書でいう40日と同じ意味を持ちます。イエスの死と復活の意味をよりいっそう信仰体験として学ぶ時間、教訓、学び、熟していく時間を意味しています。イエスは死で終わらないのです。イエスは死に勝利して、キリスト(救い主)になったことを証しているのです。キリストは死を打ち砕き、永遠に生きている真のいのちを教えられました(旧・教会暦ではイエスが復活されて40日目の木曜日に「主の昇天」が祝われていましたが、日本では平日に信徒が集まらないために主日、日曜日になっています)。

フランシスコ教皇は主の昇天についてこう述べています。「主の昇天はイエスが不在であることを示すのではありません。むしろイエスがわたしたちのただ中で、新たな方法で生きておられることを語っています。イエスは昇天以前のときのような、世の特定の場所におられるのではありません。今や彼は神の支配のうちに、あらゆる場所と時間と空間を越えて現存し、わたしたちのそばで生きておられます。ですから、わたしたちは人生において決して独りきりになっていないのです・・・・・・・・・・・・・」

  パウロはイエスがキリスト共同体にお現れになったことをコリントの手紙の中で伝えています。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後、十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。 次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」(Ⅰコリント1538)。

イエスは「生きている」のです。イエスは「生きているいのち」なのです。イエスは「生きている」ことを教えているのです。イエスを五官で感じなられなくても、肉体が見えなくても、福音を通じて、聖霊を通して、イエスと出会い、イエスと語り合うことができるのです。イエスに出会うということは神に出会うということです。わたしたちはイエスによって神との交わりを深め、よりいっそう親しくなって一つに結ばれるのです

昇天 ゲプハルト・フューゲル 1893年  wikipediaより

わたしたちは死んだ人と何度も涙のお別れをしたことでしょう。親しいい人の姿はもうありません。その人の声も聞くこともできません。でも、そこですべてが終わりではないのです。みなさん、亡くなった人々と約束したことはありますか? 天国でまた会いましょう、と。おじいちゃん、おばあちゃん、両親、兄弟、お子様・・・すでに亡くなった人々は、この世の死で終わりではないのです。わたしたちはその人たちと何で結ばれていたのでしょうか。ただの五官で感じる間柄だったのでしょうか?信仰によって結ばれていませんでしたか。「見ないで信じるものは幸い」とイエスは弟子(わたしたち)におっしゃられました。わたしたちの日常の行い、それを神様は勿論のこと、わたしたちの親しい人たちも見守り祈ってくださっているのです。

 天国にたくさんのお友だちをつくってください。それもわたしたちの信仰の恵みです。

わたしたちは死を信仰しているのではありません。人を通して生きているいのちを信仰しているのです。

 見えない神を愛していながら、目に見える友人を愛しているということでしたら、それは神様のご意志ではありません。死んだ人を死んだ者として見ることは誰でもできます。 わたしたちは死んだご遺体を見て、ご遺体を信じて来たのではありません。わたしたちはその人を通して、最も大切ないのちと対話してきたのではありませんか。

いよいよ来週、聖霊降臨、教会の誕生を祝います。わたしたちキリスト共同体のうちに豊かな霊が満ち溢れ、神のみ旨が行われますようお祈りして参りましょう。

2015517日 カトリック新聞社  キリストの光・光のキリスト  より


           天に上げられたキリストに結ばれて

                           場﨑 洋 神父

病者は弱さを担っている。体が衰え、精神も弱る。でも、病者には無力の中で祈る神への叫びがある。「神父様、お忙しいのに・・・・ありがとうございます」。弱さの中で、病者が感謝する。その時、司祭は圧倒される。病者は主の受難を共にし、永遠の命を垣間見ている。苦しみの中にあっても、人を招き、感謝し、喜びを伝える福音宣教者となる。

 20年前になる。末期癌に侵された先輩の司祭がいた。ある日、告知に立ち合った。主治医は言った。「今まであなたの腫瘍は良性と診てきましたが、再度検査したところ癌であることが判明しました。大変、残念なのですが、余命は今年一杯となります。もし、細胞が悪さをすれば、来月あたり、変化があるかもしれません」。医師はそう言って病室から退室した。私は言葉を失った。顎が胸につくほどうなだれた。それなのに彼は心穏やかに感謝した。「どうしたの?そんなに暗い顔して?病気の原因がやっと分かったのだから、これから準備するだけよ。司教様に伝えてくれるかい」。私は病院を後にして司教館へ向かった。涙がとめどもなく流れた。車のフロントガラスが見えなくなった。

夕食の席で司教に言った。「今日、告知がありました」。司教は驚いて聞き返した。「本人が知ったのですか?彼の様子はどうでしたか?」。「いいえ、動揺はしていません。冷静でした。・・・司教様、行ってあげてください・・」。

 翌日、夕食の席で司教は言った。「今日、彼のところへ行ってきました。とても冷静でした。一緒にミサを捧げることを約束しました。そして病室から出ようとしたときです。彼は号泣しました。・・・辛かったんだろうな・・」。司教の目には涙が溢れていた。

司祭職に就いて10年、彼にとって青天の霹靂だった。とても思いやりのある優しい司祭だった。イエスの道具になりたいと言って司祭になった。199588日、神のもとへ安らかなに旅立った。42歳だった。

 いつか私たちも病者になる。病者はどれほど、神に希望と慰めを請い願っていることか。病者の祈りは真の祈りである。病者の感謝は言い尽くせない宝である。

私はその時、彼を見ていた。そして彼は見えなくなった。しかし、私は再び彼を見るだろう。衰え朽ち果てて逝ったのは彼ではない。彼を通して、最期まで生き抜いた主が共におられたのである。

主は天に昇られた。主は弟子たちから見えなくなった。しかし、弟子たちは聖霊を受けて生きている主を宣べ伝えるのである。

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復活説第6主日    2015年5月10日   「聖書と典礼」表紙解説」

新緑がまぶしいメタセコイヤです。日に日に葉が増え、緑が濃くなっていきます。


教会の庭

福音朗読 ヨハネによる福音書 15917

<そのとき、イエスは弟子たちに言われた。>「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕(しもべ)とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。
 

              福音朗読 ハン神父様

説教 場崎神父様

今日は最後の晩餐で語るイエスの遺言です。

皆さんは家族に遺したい遺言はあるでしょうか。財産、土地、通帳など、遺産を引き継ぐための遺言があるでしょう。自筆遺言や公証人によって作成されたものもあります。

しかし、イエスが伝えたい遺言はそのようなものではありません。人間にとって、もっとも大切ないのちの遺言なのです。

イエスはわたしたちを僕とは呼びません。わたしたちを友と呼びます(1515)。それは、御父からイエスを通して語られた神と人間との親しい関係の回復なのです。

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(1512)。

互いに愛し合いなさいとは、最後の晩餐でイエスが示された、互いに足を洗い合うことです。それは互いに罪を認め、赦し合うという深い愛の交わりです。そうすることによって、

御子イエスの喜びがわたしたちの内にあり、わたしたちが喜び満たされるのです(1511)。

「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(1513)。イエスは友のために命を捨てられる方です。ご自身の命を差し出し、投げ出す方なのです。イエスは罪人のために、失われた者たちを見つけ出すためにご自分をお捧げになられる方なのです。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」(15

16)。イエスは御父が先にわたしたちをお選びになったことを教えられました。わたしたちが、自分で好きなように人やモノを選ぶというものではありません。イエスはわたしたちを召し出し、選ばれたのです。そして愛しておられるのです。そしてこう言うのです。「あなたはわたしの友である」と。

わたしたちはイエスに自分の汚れをお見せします。すると、イエスはわたしの汚れを洗ってくださいます。わたしたちはイエスに自分の傷をお見せします。すると、イエスはわたしの傷を癒してくださいます。

しかし、わたしたちの心は幼子のように素直ではありません。わたしたちは人の汚れは洗ってあげようとはしません。洗ってくださいともお願いしません。人の傷を癒してあげようともしません。自分の傷を癒してくださいともお願いしません。

これであってはイエスの言われる「友」にはなかなかなれません。

イエスはわたしたちの友となるためにこの世に来られました。どうしてもわたしたちは自分が主人になって相手を僕として見下してしまいます。

 イエスは今日もわたしたちを友として召し出しています。イエス自ら近寄られて、わたしたち一人ひとりを「友」と呼ばれます。イエスの言われる友とは、互いに愛し合うことです。互いに赦し合うことです。いつも浄化する関係、友の関係であるということです。

ペテロの足を洗うキリスト フォード・マドックス・ブラウン  1851年テイトギャラリー ロンドン freeサイトより

復活節第5主日    2015年5月3日   「聖書と典礼」表紙解説

教会の裏庭等

福音朗読 ヨハネによる福音書 1518

<そのとき、イエスは弟子たちに言われた。>「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」

                     

説教   場崎神父様   福音朗読 ハン神父様

今日の第一朗読、使徒言行録ではキリスト者を迫害していたパウロが劇的回心を果たし、その後のことが記されています。パウロはなかなかキリスト共同体へ受け入れられるのが難しかったようです。神から遣わされた使徒バルナバはその仲介者となって、パウロをキリスト共同体へ導き入れました。パウロもキリストの木に繋がっていた枝になり、最後には豊かな実を結ぶのです。

 昨日の夕食時、ハン神父様は今日の福音朗読の練習をしました。私はご飯を口に入れていました。彼は丁寧にゆっくりと朗読します。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である・・・・」(151)。何と不思議でしょう。わたしはみことばを咀嚼し味わっているように感じられたのです。宣教師が言葉を学び、その国の言葉で一生懸命にイエスを伝えようとしているのです。まさにこの時、イエスの息遣いが伝わってくるのです。

イエスはご自身を「まことのぶどうの木」と言いますから、「まことでないぶどうの木」もあるのです。それで、わたしたちはときどきイエスから離れてしまうことがあります。イエスはぶどうの木を育てるのは農夫である御父と言います。イエスをまことのぶどうの木とされたのは、農夫である慈しみ深い御父なのです。御父がイエスを育て、みことばを豊かにして、まことの実を結ばせたのです。「わたしはぶどうの木、あなたたちはその枝である」(155)。

この節をよく理解するためにはぶどうの木をよく観察しなければなりません。パレスチナではイエスの時代からぶどうの栽培が盛んでした。ぶどうの木を見たことがありますでしょうか。どこかにぶどうの幹があるのでしょうか?どこから枝が始まっているのでしょうか。キリストはぶどう木、わたしたちはその枝なのです。わたしたちは幹にがっちりと繋がっていなければ実を結ぶことができないのです。一見、ぶどう園の枝を見ると、ぶどうの枝からどこへ繋がっているのか、すぐには分かりません。しかし豊かに実を結ぶことによって、がっちりと幹に繋がり栄養をいただいていることが分かります。イエスは御父を通してわたしたち一人ひとりである枝から離れないのです。離れやすく、脆いのがわたしたちなのですが、枝であるわたしたちに実を結ばせようとなさっているのです。わたしたちは本当に繋がっているのでしょうか。親戚より、友人より、家族より、恋人より、もっともっと深く繋がっているでしょうか。繋がることで、愛し方が変わるでしょう。繋がることで祈り方が変わるでしょう。虫や鳥がきて木に留まるのではなく、イエスの血といのちが流れて繋がっている、信仰の恵みによって繋がっているのです。キリストのいのちが流れていなければ、わたしたちは豊かに実を結ぶ、ぶどうの枝にはなれません。キリストをアクセサリにし、ファッション化して、楽しんでいるわたしたちがいます。都合のいいときには繋がっていると言い、都合が悪くなると繋がっていないと言います。人間と言う者は、ほんとうに我儘で自己中心的なのです。

ブドウの十字架 トビリシ・シオニ大聖堂蔵 wikipediaより

ぶどうの木について聖書学や典礼学ではいろいろな形で語られています。豊かに実ったぶどうの木はイエスの十字架そのものです。イエスのみことばの実りとしてぶどうの木のように装飾された十字架をよく見かけます。イエスの死と復活は豊かに実ったぶどうの木そのものです。アダムとエワは神から食べてはいけないと言われた善悪を知る木の実に触れました。人間が触れてはいけない神の領域に彼らは触れてしまったのです。アダムの罪によって人類は神のようになりたいという傲慢(戦争、迫害、残虐)さを持ってしまったのです。すべての罪の根源は神のようになりたいというアダムの罪の結果になります。死を意味したアダムの木が、イエスの十字架によって救いのぶどうの木、溢れ出るぶどうの木になったのです。第二朗読の使徒ヨハネの手紙の冒頭を見てみましょう。 「子たちよ、言葉や口先ではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。 これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知って、神の前に安らぎを得るのです」。

真理に属しているというのはキリストのぶどうの木に繋がれていることです。キリストに結ばれていること、確信していること、信じること、互いに愛し合うことなのです。

 付録ですが、ぶどうのたとえで有名なイザヤの書を紹介しておきましょう。わたしたちもイザヤが言われるようなぶどうの木になっているのかもしれません。イザヤは絶えず警告しています。「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。 よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ/わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。 わたしがぶどう畑のためになすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに/なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。さあ、お前たちに告げよう/わたしがこのぶどう畑、 わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず/耕されることもなく/茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。」

                         (イザヤ5章1~6

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復活節第4主日    2015年4月26日    「聖書と典礼」表紙解説

教会の庭 (桜はご近所)

  ヨハネによる福音

[そのとき、イエスは言われた。]「10:11わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 10:12羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。―― 10:13彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。 10:14わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。 10:15それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。 10:16わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。 10:17わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。 10:18だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」 

福音朗読 ハン神父様

説教  場﨑神父様

ミサに与ると羊を連想することができます。イエスは御父を示すためにミサを記念として残されました。羊飼いは羊を呼び集めます。主の食卓へ集めます。司祭のくびに掛けているのはストラと言います。これは羊飼いの象徴です。迷子になった羊を見つけて肩にのせている喜びの姿です。羊飼いのもとで羊は安らぎを得ているのです。これでは狼も盗人も近寄れません。まさしくこれが羊飼いの姿、イエスの姿なのです。今日の福音の続きは明日のミサでも朗読されますが、その中に羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す、とも語られています。羊一匹ずつに名前が付けられていることは本当に意味深いです。みんな羊でありますけれど、一匹一匹は個性や癖があります。それでも羊飼いはその羊の声を聞き分けます。羊も自分の羊飼いの声を聞きわけるのです。パレスチナでは羊飼いは自分の羊に花の名前を付けることが多いようです。ユリ、カリン、チューリップ、カリン、ラベンダー、ダリア、チェリー、グレープ、オレンジ、レモン、オリーブ、・・・・。

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羊飼いが100匹の羊を導くことができれば一人前の羊飼いと言われます。聖書では、羊飼いが羊を導く表現があります。探し出す、世話をする、救い出す、連れ出す、集める、養う、飼う、憩わせる、力づける、などです。羊にはある習性があります。羊はたいへん臆病で脆弱な動物です。不安と恐怖で逃げ回ることもあります。同時に、たいへん迷いやすい動物です。実際に,羊は羊飼いが示す道から外れてしまうことが多いのです。こんなにも方向感覚の悪い家畜は他にいるでしょうか。しかも、とても頑固で、羊飼いとは逆の道へ入って、群から離れてしまうのです。場合によっては自ら危険なところにはまって死ぬこともあります。だから詩編23では、羊飼いはムチをもって正しい道に導く様子が描かれています。羊が羊飼いに従うためには鉄則があります。先ずは、羊は羊飼いが、わたしたちのリーダーであるということを知ることです。次に羊は羊飼いの声を聞きわけることです。そして、主人である羊飼いの後に従うということです。

イエスはなぜわたしたちを羊のようにたとえるのでしょうか。それは福音書に記されている通りです。イエスは群衆を見て、羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている群集を見て憐れむのです(マタイ9:36)。イエスが来たのは、羊が命を得て、それを豊かに受けるためです(ヨハネ10:11,10)。しかも、わたしたちはイエスを離れては、何もすることができないのです(ヨハネ15:5)。イエスが羊飼いであるということは、イエスが真の御父へわたしたちを招きたいからです。羊飼いと羊の関係は、まさにイエスとわたしたちの関係に近いのです。

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復活節第3主日    2015年4月19日    「聖書と典礼」表紙解説

福音朗読 ルカによる福音書 24章35~48節

[その時、エルサレムに戻った二人の弟子は、]道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」


ハン神父様 北26条教会初のお説教です

  場﨑神父様 説教   

イエスの復活した「からだ」とはどのようなものなのでしょう。福音書ではイエスの復活したからだは人間のように肉があるということを伝えています。普通に考えれば、蘇生ではないかと思ってしまいます。イエスは幽霊という言葉を用いて、幽霊にはからだも肉もないが、わたしにはそれがあると言いました。そしてイエスは弟子たちと一緒に食事もしました。イエスの復活を文字通りに受けとめない神学者は、イエスの復活信仰は思い出、記憶であると説明します。記憶に刻まれたイエスの記憶を弟子たちが初代教会で教え広めたものだと言います。わたしたちは物事を科学的に説明されることを望みます。体は朽ちるものだ、だから「復活のからだ」なんて考えられないことだと思います。これは人間が当たり前に思う考え方です。要するに人間は死んで、からだは腐敗して塵に戻るということです。そして人間には保存したい本能がありますから過去の記憶を甦らせて継承していきたいという思いがあります。しかし、使徒言行録の弟子たちは、今までの弟子たちとは違います。つくりものの体験でしたら、滅ぶでしょうが、彼らは復活したイエスを証ししているのです。彼らはわたしたちが語り尽くせない、体験に遭遇したとしか思えません。それは復活したイエスとの出会いです。 カトリックの歴史のなかでも腐敗しない「からだ」というものがあります。聖ザビエルの聖腕、ルルドの聖ベルナデッタ、聖カタリヌ・ラブレ、チマッチ神父・・・・・、これらはイエスのからだとは、ほど遠いものですが、イエスの復活したからだの似姿であると言ってもいいでしょう。わたしたちは自分の「からだ」をただの肉と考えるのではありません。この世界との交わりの場として考えます。イエスを見ること、イエスを聞くこと、イエスを嗅ぐこと、イエスに触れこと、イエスを味わうこと・・・・・これらすべてはこの世においての交わりの手段になります。イエスのからだは、人間として生まれたイエス、肉をもって生まれたイエスが、霊的からだをもってわたしたちとの交わりを深めてくださるものです。人間も霊的な存在ですから、時間と空間を越えてイエスのからだと交わることができるのです。わたしたちの日々が霊的なものであること切に祈ります。パウロは復活について「体が朽ちても、朽ちない体に復活する」と、何度も強調しています。わたしたちは肉のなかに連続性である「わたし」があることを信じています。この中に永遠を志向している真実であるわたし」が潜んでいます。 ミサはイエスがわたしたちに遺してくださったイエスとの出会い、愛の記念、霊的からだの勝利なのです。イエスは今も聖体のかたちでわたしたちのところへいらっしゃっています。パンが、ただのウエハス(パン)であるならば、ただのウエハスでしょう。犬が食べたとしても、ただの食べ物でしょう。しかし、わたしたちがいただくパンはイエスご自身なのです。イエスがパンの形でわたしたちのところに来て下さるのです

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カトリック新聞社 キリストの光・光のキリスト より          

 「わたし」は生きている

                 場﨑 洋 神父

イエスの復活した「からだ」はどのようなものなのでしょう。仏教思想からすれば諸行無常の教えを説いています。この世のあらゆるものは移ろい行くということです。日本人はこのことを「もののあわれ」と表現しました。しかし、「もののあわれ」で片づけてしまうと、イエスの説いた永遠のいのちは否定的なものになってしまいます。興味深いことに和辻哲郎は「もののあわれ」を永遠の究極的な思慕、絶対者への依属の感情として解釈していることは、もっと深いものに焦点をあてているように思えます。

日常生活から「からだ」について考えてみます。たとえば生まれてから毎日、自分の顔写真を撮ってもらうことにしましょう。人生85年と考えれば、85年間で31,025枚になります。これをどこかの体育館の壁に貼り付けます。果たして、本当の「わたし」の顔写真はどこにあるのでしょうか。若いときが一番の「わたし」かもしれません。でも年老いても「わたし」であることには変わりありません。「からだ」が老いても「わたし」が「からだ」を通してこの世界で交わり続けています。葬儀の遺影は「わたし」という。連続性の中で撮られた「からだ」の一瞬に過ぎません。変化していく「からだ」の中で普遍でありたい「わたし」が永遠を志向しているのです。「からだ」はその使命を終えたときに死を迎えます。しかし「わたし」は死を越えて溢れ出る御父の愛、永遠のいのちを求めて止まないのです。イエスの復活した「からだ」は、蘇生ではありません。イエスが弟子たちに「まさしく『わたし』だ」(ルカ2439)と語ったことは、イエスの「からだ」を通して成就したみことば、人間イエスがキリストとなった証しです。パウロは言います。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないと思います」(ローマ818)。「からだ」を通して生きてきた「わたし」の苦しみは決して無駄にはなりません。イエスの「からだ」は、この世の罪と死に隷属していながら、この世の救いのために捧げられた霊的な「からだ」となったのです。 「わたし」にとって復活の「からだ」とは何でしょうか。完全に語ることは出来ませんが、星野富弘さんの詩「暮秋」がそれを教えてくれるような気がします。

冬があり 夏があり/昼と夜があり/晴れた日と/雨の日があって/ひとつの花が/

咲くように/悲しみも/苦しみもあって/私が私になってゆく

         (星野富弘「花の詩画集・花よりも小さく」<偕成社>より)

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復活節第2主日     2015年4月12日  「聖書と典礼」表紙解説

 ヨハネによる福音書 20章19~31節

その日、すなわち週の初めの日の夕方、 弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、 「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。 弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。 「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。 「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、 彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。 「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。 戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、 「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。 「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。 信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
イエスはトマスに言われた。 「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである

(福音朗読フィリップ神父様) 

説教    場﨑神父様

 弟子たちはユダヤ人を恐れ、鍵をかけて家の中で怯えていました。弟子たちはこの数日間、あってはならない出来事に遭遇したからです。彼らが苦しみながら語っています。

・・・・・・・・・・・・ゲッセマネの園でわたしたちの主が捕縛された。自分たちは恐ろしくなり主を捨てて逃げた。ペトロは正義感に燃えて、大祭司カヤファの官邸で主の様子を伺っていた。しかし、彼は三度、「主を知らない」と言った。鶏が鳴くとペトロは主を思い出して激しく泣いた。ユダは祭司長に主を引き渡し、主を裏切った。イエスはローマ総督ピラトに引き渡され、死刑の判決を受けた。主は鞭打たれ、唾を掛けられ、茨の冠を被せられ、十字架を負わされた。ゴルゴタに十字架が立てられた。主は死んだ。主はもはやここにはいない。ただただ困惑するだけである。自分たちも殺されるかもしれない。自分たちが信じてきたイエスはもうこの世にいない。もはや希望も力もない。・・・・・・・・・

 このように怯えていた弟子たちのところへイエスが入ってきました。イエスは「あなたがたに平和があるように」と言われました。そして、彼らに息を吹きかけ「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば赦される。だれの罪でも赦さなければ、赦されないまま残る」と言いました。ところがそのときトマスは、居合わせませんでした。彼は「主の傷跡に手を入れて見なければ信じない」と言いました。彼は五感で確認しなければ信じないというのです。このトマスの態度はわたしたちが生きている現代社会へ警告を鳴らしています。

 イエスを信ずるということはイエスの傷を知ることです。イエスの傷は人類の救いのために示された神の傷、愛の傷なのです。私たちはこの傷をただの傷として理解してしまうならば与えられた人生は意味のないものになってしまうでしょう。トマスのように、その傷口に手を入れて見なければ、信じないという思いは、わたしたちにとって日常茶飯事の態度です。しかし、わたしたちはトマスのように「わたしの主、わたしの神よ」と叫ぶ時が来ます。その時、わたしたちは人生の中で絶えず語り掛けておられた神の存在に圧倒されてしまうのです。わたしの主、わたしの神よ。わたしたちに信じる力を与えてください。日々の生活のなかであなたを見出すことが出来ますように祈りを捧げます。


お元気で。又お会いしましょう

ミサ後、「フィリップ神父様とハン・ジョンス神父様の歓送迎会」がありました。大勢の皆さんに囲まれて大変楽しい会でした。

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復活の主日      2015年4月5日    「聖書と典礼」表紙解説

ヨハネによる福音 ヨハネ20・1-9

20:1 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。2 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」3 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。5 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。6 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。7 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。9 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。

  説教            主の復活を心よりお慶び申し上げます。

もう一度、主の過越しを思い起こしましょう。イエスの死と復活はわたしたちキリスト者にとって信仰の神髄であることを忘れてはなりません。

イエスの処刑の直接原因は、ユダヤ人指導者たちの権力、欺瞞、野心、ねたみ、エゴです。これはイエスの時代だけのことではありません。いつの時代にも起こっている人間の醜さ、おろかさです。長い歴史を振り返っても然りです。権力者たちは、すべてを自分のものにするために、手段を選びません。少数派の人々もことごとく抹殺されていきました。歴史に残されずに、人知れずして葬り去られた人たちは数えきれません。

 イエスの十字架上の死は歴史の一点に過ぎないのでしょうか。それは2000年前に起きた、屈辱的な敗北、悲劇だったと思うのでしょう。イエスの弟子たちもイエスを置き去りにして逃げ出してしまいました。

ところが聖書はイエスの死を絶望や敗北として捉えていないのです。ここにイエスの十字架の神秘、人知を超えた不思議な力があります。イエスはご自身が殺されることを重々知っていました。エルサレム市街ではいつでも捕えられ激昂に合う危険にさらされていました。それにも拘わらず、イエスは自らの死を甘んじて受け入れていったのです。

 当時、ユダヤ人社会からしてみれば十字架刑は最も残酷残忍な刑で、人間的な価値観からしますと異常と言えるものですし、ユダヤ人からしれみれば木に掛けられて殺されることは、愚かであり、呪いのしるしでした。

 このイエスが十字架に向かって行ったということはどんな価値があるのでしょうか?

パウロは手紙の中でこう綴っています。

「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を求める。しかし、私たちは十字架に磔になったキリストを宣べ伝える。ユダヤ人にとってはつまずきで、異邦人にとっては愚かであるが、ユダヤ人であれ、ギリシア人であれ、召された者にとって、キリストは神の力、神の知恵である。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」(1コリント12225)。

 ここでパウロが言うキリストの十字架に凄さは「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」という確信です。わたしたちはいつもその逆の中に引きずり込まれてしまいます。

・・・神の愚かさは私たちにとって敗北であり、神の弱さは信仰そのものを失わせてしまうであろうと・・・・・わたしたちにはいつもこのような誘惑の中で生きています。神は御子イエスを通して、これほどまでに愚かに、これほどまでに弱くなられて、わたしたちを救おうとされていたのです。そこに私たちは語り尽くせない神の愛に圧倒されます。

セバスティア―ノ・リッチ  復活 1715~16年 ダリッジ・ピクチャー・ギャラリー Free-artworksより

 聖週間での受難の主日、受難の金曜日の詠唱を思い起こしてみましょう。パウロは手紙でキリストがこの世に来られた意味を宣言します。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、

 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、 すべての舌が、イエス・キリストは主であると、公に宣べて、父である神をたたえるのです」

                          (フィリピ2511

イエスの死と復活は御父から託されたみことば、福音の成就です。イエスが語った福音はまさに真のいのちとして私たちの内に甦ってきます。

「心の貧しい人々は幸いである 天の国はそのひとたちのものである」「悲しむ人は幸いである その人たちは慰められる」「義に飢え渇く人々は幸いである、その人たちは満たされる」「平和を実現する人々は幸いである その人たちは神の子と呼ばれる」「汝の敵を愛しなさい」「隣人を自分のように愛し合いなさい」「友のために命を捨てる、これ以上の愛はない」「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」「父よ、わたしの時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すときがきた」・・・・。

イエスの宣べ伝えた福音は今ここに生きています。それは父がわたしたちの内に生きておられる証しです。イエスが御父を示したみことば、福音はまさにわたしたちにとって真理であり、希望であり、愛です。御父は御子イエスをとおして、十字架の死を通して永遠のいのち、復活をお示しになったのです。今日は週のはじめの日です。キリスト者はこの週の始めの日に集まってキリストの死と復活を称えて祝うのです。

イエスを置き去りにして逃げってしまった弟子たちは、あれからどのように生きたのでしょう。今日の使徒言行録にあるように、彼らはキリストを宣べ伝えているのです。彼らのなかに活き活きと主が生きているのです。彼らにとって復活は外見的なからだの復活ではありません。ただの思い出ではありません。創作ではありません。演出ではありません。彼らは死を惜しまずにイエス(愛)を宣べ伝えているのです。彼らの中にイエスが生きているのです。

今日の日を共に喜び讃えましょう。主は苦しみを受けて永遠のいのちを示されました。

キリストはこの世の闇、この世の死にのみ込まれたのではありません。キリストは死に勝利し、希望の光を注ぎ、まことのいのちを証ししてくださったのです。

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受難の主日(枝の主日)   2015年3月29日   「聖書と典礼」表紙解説

福音朗読 マルコ15・1-39

1夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全 体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。2ピラトがイエスに、 「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っ ていることです」と答えられた。3そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。 4ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えている のに。」5しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議 に思った。   6ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。7 さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男が いた。8群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。9そこ で、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。10祭司長た ちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。11祭司 長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。12そこで、ピラト は改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうして ほしいのか」と言った。13群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」14ピラトは言っ た。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字 架につけろ」と叫び立てた。15ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈 放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。   16兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員 を呼び集めた。17そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、18 「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。19また何度も、葦の棒で頭をたた き、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。20このようにイエスを侮辱したあ げく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き 出した。   21そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から 出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。22そし て、イエスをゴルゴタという所― ―その意味は「されこうべの場所」― ― に連れて行った。23没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受け にならなかった。24それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、/その服を分 け合った、/だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。25イエスを十字架につけ たのは、午前九時であった。26罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。 27また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけ た。29そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。 「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、30十字架から降りて自分を救って みろ。」31同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わる イエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。32メシア、イス ラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一 緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。   33昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。34三時にイエス は大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、 わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。35そばに居 合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者 がいた。36ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待 て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲 ませようとした。37しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。38すると、 神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。39百人隊長がイエスの方を向いて、 そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本 当に、この人は神の子だった」と言った。 


説教

イエスは御父から託された過越しの記念を完成するためにエルサレムへ入城します。今日の典礼の始めの「枝の祝別」のときにマルコ福音(B年)が朗読されましたが、イエスは事前に小ろばを用意しておられたのが分かります。このような準備は過越しの食事の前にもしています。弟子たちはイエスに「過越しの食事をするのにどこへ行って用意しましょう」と尋ねています。イエスは次のように言っています。「都に行きなさい。すると水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が「弟子たちと一緒に過越の食事をする私の部屋はどこか」と言っています』。すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい」(マルコ14・12~16)。

ここで気づくのは男が水がめを運んでいるということです。イエスの時代、水がめを運ぶのは女の役目でした。そうなるとこれは目印、合図になります。イエスは周到な準備をしていたのです。過越祭はユダヤ人にとって最大の祭です。四方八方からユダヤ人が都に入り、エルサレム市街は雑踏に包まれます。神殿の境内では神殿で捧げられる家畜を売る商人や、両替商が軒を連ねていました。こんな状況でありましたから、イエスは御父から与えられた使命を全うするために、念入りな準備を行っていたのが分かります。今日、イエスは小ろばにのってエルサレムに向かいました。人々は自分の服を道に敷き他の人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷きました。イエスこそ、人々を救ってくださる王であると人々は称賛したのです。馬は戦利品ですが、ろばは平和の象徴です。人々は手に葉のついた枝をもっています。オリーブでしたら、勝利の王、平和の王の到来を意味します。 「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。

  我らの父ダビデの来たるべく国に、祝福があるように。  いと高きところにホサナ。」(マルコ11・9~10)しかし、この風景を尋常ではありません。遠くからじっと眺めている大祭司や長老たちの冷たい視線を感じます。イエスはそのことを知らないはずがありません。自分がまもなく彼らに捕えられ殺されること重々知っていました。マルコ福音書の10章に、三度目の受難の予告がされていることからも分かります。  「今、わたしたちはエルサレムに上って行く。人の子は祭司長たちや律法学士たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして人の子は三日の後に復活する」 (10・33~34)


イエスの入城 ジョット画 ナツメヤシが描かれている  wikipediaより

いよいよ、2015年の過越祭が始まります。イエスは最後の晩餐でご自身がみことばであるしるしとして聖体制定し、十字架上ですべてを成し遂げます。わたしたちもイエスの十字架にあやかりながら、自分の十字架を思い巡らし、みことばが豊かに実るように祈っていきたいです。

今週から聖週間が始まります。

この1週間の典礼についてお話しします。

聖香油ミサ:このミサは本来、聖木曜日の午前中に教区の司教座聖堂(カテドラル)で執り行われるものです。教皇様はローマ司教として、聖ペトロ聖堂ではなく、伝統に従ってローマのカテドラル・聖ラテラノ聖堂で執り行われます。この日、全世界の各々の教区で司教ミサが捧げられ「油の祝別」(聖香油、病者の塗油、洗礼志願者の油)と「司祭叙階の更新」をいたします。札幌教区では遠方の司祭が多いため司牧的配慮から聖火曜日の午前中に執り行われています。司祭叙階更新を祝って昼食を共にします。

「聖なる過越の三日間」

 一般に聖木曜、聖金曜、聖土曜日と呼ぶ方がありますが、それぞれ正式には「主の晩餐の夕べのミサ」「主の受難」、「復活の聖なる徹夜祭」(復活の主日)です。

「主の晩餐の夕べのミサ」

 イエスが御父のみ旨を果たすために、最後の晩餐(過越しの食事)を行います。イエスは食事の席で弟子たち一人ひとりの足をお洗いになりました。ミサの中で洗足式があります。互いに愛し合いなさい。互いに足を洗い合いなさい、とイエスは弟子たちに模範を示されました。イエスは捧げられる御自身の体を、パンとブドウ酒の形で聖体制定を行います。

「主の受難」

イエスは、大祭司の手に引き渡され、ローマ総督ピラトのもとで死刑の判決をくだされます。十字架を負わされたイエスはゴルゴタの丘で十字架に磔にされ殺されます。全世界の教会は御父の無償の愛であるキリストの十字架に頭を垂れます。典礼は受難劇、盛式共同祈願、十字架の礼拝・崇敬です。

「復活の聖なる徹夜祭」(復活の主日)

安息日が終わる日没以降にこの典礼が執り行われます。闇と死に打ち勝った復活したキリストを称えます。最初に「光の祭儀」ではじまります。火と復活のろうそくを祝別し、闇が光によって打ち払われていきます。教会は「復活の讃歌」を歌ってキリストの勝利を祝います。教会は救いの歴史を振り返り「みことばの典礼」に耳を傾けます。古来から四旬節は洗礼志願者のための準備期間として設けられていました。この日、成人の洗礼式が執り行われます。

ところで、なぜ、徹夜祭と言うのでしょうか。イエスが十字架から降ろされて埋葬されたのが金曜日の夕方です。ユダヤにおける一日の始めと終わりは日没です。安息日は金曜日の日没に始まり、土曜日の日没に終わりました。この間は労働することは律法で許されていません。金曜日の夕方、安息日に入る数時間、イエスを丁寧に埋葬するために香料を塗る余裕はありませんでした。それで一晩待ちますが、安息日が終わるのが土曜日の日没です。それから墓に行けばよいのですが、日が沈み、暗い所で作業ができませんでした。それで、もう一晩待って、夜明けを待ち続けたのです。週の始めの朝早く、女たちが香料をもって墓に赴きました。するとイエスの遺体がないのです。これこそ主の復活なのです。教会はこの夜明けを待ちわびます。ですから徹夜して主の復活を待ち続けるのです。正教会は今も徹夜して祈りが捧げられ、夜明けと共に主の復活を称えます(正教会の司祭は相当体力がないといけません。特に腰が強靭でなければなりません)。