主任司祭の窓

主任司祭 場﨑洋神父

年間第4主日  2016年1月31日      「聖書と典礼」表紙解説

 福音朗読 ルカによる福音書 42130

 [そのとき、ナザレの会堂で預言者イザヤの書を読まれた]イエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。 皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。 「この人はヨセフの子ではないか。」 イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、 『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、 『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、 郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」 そして、言われた。「はっきり言っておく。 預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。 確かに言っておく。 エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、 その地方一帯に大飢饉が起こったとき、 イスラエルには多くのやもめがいたが、 エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、 シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。 また、預言者エリシャの時代に、 イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、 シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」 これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、 総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、 町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。 しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

 司式(福音朗読) 森田健児神父様

説教  場﨑神父様  於山鼻教会

 

第一朗読、エレミヤ書ではエレミヤの召命ついて書かれています。エレミヤと同じようにわたしたちのいのちも母の胎内で宿る前から神の御手の中にあります。主はわたしたちと共にいて、わたしたちを導き出してくださいます。エレミアは紀元前7世紀、南ユダ国の腐敗を改めるように呼びかけましたが、民衆から批難されてしまいます。

エレミヤ  wikipedia下記より引用

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AC%E3%83%9F%E3%83%A4

 今日の福音書はイエスが故郷ナザレに帰られたときの記述です。イエスがお育ちになったナザレですが、人々はイエスの中に働いている御父のみわざに気づきません。イエスはあえて旧約時代のエリシャとエリアをとりあげて、神が預言者を異邦の地にも遣わしたことを告げています。しかし、人々はイエスに対して憤慨し、町から追い出し、崖まで追い込んで突き落そうとしました。人々の心はイエスに対する妬み、恨み、苛立ちで煮えたぎっています。 

第二朗読、コリントの第一の手紙はエフェソで書かれました。パウロはマケドニアの信徒をたずねようと考えていましたが、コリントにいる信徒たちがもめていたので、手紙をしたためました。手紙の11012節を見てみますと、こう書かれています。 

・・・さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。 わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。 あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです」。パウロがコリントの教会へしたためた手紙は「信仰によって一つに結ばれること」という願いでした。 

今日の箇所はアガペによる愛の讃歌です。愛と言っても聖書のなかで使われている愛はいろいろな形があります。 

  旧約聖書では「アハバ」があります。選びの愛と訳することができます。愛の基本です。愛の動きには選びがなければなりません。この人を愛するか、この人をとるか、誰に心を開くかという選びが大切です。 

 「ヘン」は、一般に言う、貧しい人に対しての愛です。可愛そうだと思って手を差し伸べたりすることです。しかし、それは一過性のものに過ぎません。 

 「ヘセド」は人間関係のなかで持続する誠実な愛です。一回限りではなく、いつまでも持続する愛の働きを意味します。友人関係の繋がりがそうです。 

 「セダケ」はもっと強くなります。なぜならば、これは誓いに基づく愛だからです。 

聖書では「正義」と訳していますが、もともとは誓い、約束、契約に基づくものです。 

たとえば、結婚のときに誓う言葉があります。「私たちは、夫婦として、順境の時も、逆境の時も、病気の時も、健康の時も、愛と誠実を尽くすことを誓います」。司祭も司祭叙階式で「主の御助けによって誓います」と言います。 

誓うと言うことは、とても大切なのです。誓うということは約束を守るということです。社会生活を営み中でも契約というものは欠かせません。人間は誓いを破ってしまう傾向にあります。聖書の中の誓いは、人間同士だけではなく神に対して誓うことを大切にします。人間は約束を破りますが神は約束を破ることをしません。一度誓ったからには、どんなことがあろうと、その誓いに誠実さがなければなりません。この誓いによって、自分で責任をとり、果たすべき義務を担うことになります。ですから友人関係における誠実さ以上のものが誓いに基づく愛のなかに含まれています。 

今日はパウロの手紙でも有名な愛の讃歌と言われる箇所です。ギリシャ世界には3つの愛の形があります。「エロス」と「フィレオ」と「アガペ」です。「エロス」は自己中心的な愛(エゴ)をあらわします。「フィレオ」は友情の愛です(アメリカの都市フィラデルフィアはこの語が起源)。ギリシャ語の書かれている新約聖書に初めて「アガペ」の愛が書かれました。パウロはアガペの愛について最も偉大な賜物であると言っています。「アガペ」は他者のために捧げる愛です。愛は知識でも、哲学でも、神学でも、理論でもありません。精神レベルよりも優れたもの、霊的レベルの最高の愛の賜物なのです。 

どんなに美しいことばで語っても、あるいは素晴らしい知識をもっていても、愛が無ければ鳴るドラに過ぎません。無に等しいのです。 

 どんなに素晴らしい偉業を果たし、山を動かすほどの完全な信仰をもっていると宣言したとしても、全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、自分を死に引き渡そうとしても、本当の愛がなければ何の益にもならないのです。 

愛は忍耐強いです。愛は情け深いです。いつくしみと憐れみです。愛は寛容なのです。愛は妬んだり、自慢したり、高ぶりません。キリストは自らへりくだって低くされました。 愛は礼を失せず、道徳的無礼を嫌います。自分の利益だけを求めるものではありません。愛はイライラして人に当ったり、恨みません。愛は正義を喜び、真実を喜び、すべてを信じ、すべてを望みます。草木は枯れるが神のことばは決して滅びません。信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは愛なのです。 

自分がいかなる愛をもって行っているか、この手紙の「愛」のところに自分の名前(わたし)を入れてみてください。「わたし」は忍耐強い、「わたし」は情け深い、「わたし」は妬まない、「わたし」は自慢しません。・・・・・・・なんだかそれらしい人物ではないのでつっかえてしまいます。そして今度は「愛」のところにキリストを入れて朗読してください。「キリスト」は忍耐強い、「キリスト」は情け深い、「キリスト」は妬まない。「キリスト」は自慢しません。・・・・。そうです。これですと合点、納得がいきます。でも、自分であったならば何と恥知らずの者と思えてなりません。 

「 あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。 互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」(コロサイ31213)。やはり、謙虚になって、寛容を身につけなくてはなりません。そうすることによって神の愛を知ることができるものと信じます。わたしたちは魂の底から救われたいのです。救われ方を知らないと、間違った方向へ迷いでてしまいます。 

わたしたちは救われたいために、安らぎを得たいために愛するのです。神のみ旨を行うことが、わたしたちのすべてであるという真実です。人生は計り知れなく謎です。けれども計り知れない神の愛に導かれているという真実を知っています。

 音声は山鼻教会にどうぞ クリックしてください!

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年間第3主日  2016年1月24日   「聖書と典礼」表紙解説

福音朗読 ルカによる福音書 114節、41421

わたしたちの間で実現した事柄について、 最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、 物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。 そこで、敬愛するテオフィロさま、 わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、 順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。 お受けになった教えが確実なものであることを、 よく分かっていただきたいのであります。

[さて、]イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。 その評判が周りの地方一帯に広まった。 イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。 イエスはお育ちになったナザレに来て、 いつものとおり安息日に会堂に入り、 聖書を朗読しようとしてお立ちになった。 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、 次のように書いてある個所が目に留まった。
「主の霊がわたしの上におられる。 貧しい人に福音を告げ知らせるために、 主がわたしに油を注がれたからである。 主がわたしを遣わされたのは、 捕らわれている人に解放を、 目の見えない人に視力の回復を告げ、 圧迫されている人を自由にし、 主の恵みの年を告げるためである。」 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。 会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。 そこでイエスは、 「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」
と話し始められた。

 説教      

紀元前600年ごろイスラエルの民は新バビロンによってエルサレムからバビロンの地へ連れて行かれました。バビロン捕囚です。今日の第一朗読では 祭司エズラがバビロンから帰還したイスラエルの民に律法を読み聞かせるところです。彼らは、律法の言葉を感慨深く聞いて泣きながら神に立ち返えりました。 

 今日の福音書はイエスがナザレの会堂で聖書を読み解いています。イエスは諸会堂で教え、多くの人々から尊敬を受けられました。イスラエルの人々はバビロンに住んでいたときに、神殿に代わるものとして会堂(シナゴーグ:集会所)をつくりました。会堂はユダヤ人にとって、礼拝する場であり、社会生活、宗教生活の中心の場(結婚式、葬儀、裁判)でした。子供たちの教育のためにも重要な役割を果たしました。その後も離散したユダヤ人のアイデンティティーとなるために会堂で安息日の礼拝を遵守していきました。会堂には会堂長や会堂管理人がいました。会堂内は人々が必ずエルサレムの方角に向かって座るように建てられました。会堂での礼拝は安息日の午前と午後に行われました。  その礼拝の始めに「シェマー・イシュマエル」(聞け、イスラエルよ)を唱えました。申命記649節の有名な箇所です。安息の礼拝や日々の朝晩の祈りで唱えました。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日、わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも、道を歩くときも、寝ているときも、起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも、門にも書き記しなさい」。続いて祈りと祝福が捧げられ、律法(トーラー)と預言書(ネビーム)が朗読されました。その後に説教があります。この説教(解釈)はユダヤ人の成人男子であれば行うことができました。実際にイエスやパウロがいたるところの会堂で説教を行っていました。 

イエスはご自身の故郷のナザレの会堂でイザヤの巻物をとって朗読しました。 

「主の霊はわたしの上におられる。貧しい人々に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(イザヤ6112節)。イエスは「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と語られました。ここでイエス(新約)ご自身が旧約の預言の完成であることを示めされました。イエスご自身がみことばであり、イエスが聖書を朗読したときに成就したのです。それは神の啓示の完成者イエス・キリストがまさにここにいることです。イエスは捕らわれ人に解放し、圧迫を受けている人を自由にします。この「解放」と「自由」は「ゆるされる」と同じ意味です。イエスによって、罪の束縛から、律法の奴隷から解放され、福音の自由へと招かれるのです。その姿はパウロが語るキリスト共同体の役割です(Ⅰコリントの手紙121230)。わたしたちの体はいろいろな部分によって成り立っています。不必要なものはなく、みんな大切なものとしてその役割を担っています。「わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくします。神は見劣りする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。ひとつの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、ひとつの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」。わたしたちは神のみことばの協力者、成就者になります。今実現するのか、明日実現するのか、来年実現するのか、と思い巡らしてしまいます。神の国の到来は、今わたしたちのうち成就していっているのです。神の国は今この時に御父の愛に向かって動いているのです。愛は受動的(受身)ではありません。愛は能動的な働きなのです。愛は止まることがないのです。動いているということは成就していることなのです。日々の小さな出来事の中にも聖書のことばが成就しているのです。小さなことでも、どんなときにも、どんな場所においても愛は動いているのです。愛は流れる水です。いつも絶えず新しい命へと招くのです。

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ミサ後、新年会が催されました。ご馳走をいただきながら、ビンゴゲーム、合唱 大変楽しい会でした

年間第2主日  2016年1月17日   「聖書と典礼」表紙解説

福音朗読 ヨハネによる福音書 2章1~11節

[そのとき、]ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

司式(福音朗読) 森田健児神父様


説教  場﨑洋神父様 於山鼻教会  音声はここをクリック!

今日はナザレの北にあるカナの婚礼での奇跡です。この奇跡はイエスが行った最初の奇跡です。ヨハネ福音書だけが伝えています。カナは小さな村です。言うまでもなくユダヤ人にとって結婚式は大きな祝い事です。今日の福音の冒頭で「ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた」と述べています。恐らく、マリアの親戚の結婚式かもしれません。マリアが全体の流れの中でイエスと祝宴の仲介をしているようです。福音書は「イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた」と言っています。イエス「も」、弟子たち「も」の「も」が、特別の親しさを伝えています。弟子の中にカナ出身のナタナエル(バルトロマイ)がいましたが、詳細の関係は分かりません。母マリアは、ぶどう酒がなくなったことを察知して、「ぶどう酒がなくなりました」とイエスに知らせました。美しいマリアの配慮です。ここで思い起こすことは弟子たちの酒好きです。ルカ福音書ではこう記されています。「 人々はイエスに言った。『ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。』」(ルカ53334)。恐らく、弟子たちはお酒好きだったと思います。ちょっと気が緩むと、必要以上に吞んでしまったのかもしれません。だからぶどう酒が尽き果てたのではないでしょうか。推測はここまでにしましょう。 イエスはあらたまった態度で母に答えます。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時は来ていません」。しかし、母マリアは召使いたちに「この人が何か言いつけたら、その言うとおりにしなさい」と言われました。マリアは何を願っていたのでしょうか。息子イエスが弟子たちにお金を与えて、酒を買い足しに行かせようとしたのでしょうか。でも宴は夜です。店は閉店です。ぶどう酒はありません。召使いは言われた通りにしました。何のためらいもなくイエスの言われたとおりに、6つの水がめに水をいっぱい入れたのです(1つのかめの容量は1000リットル)。イエスは「それをくんで、宴会の世話役のところへ持っていきなさい」と言いました。世話役は味見をしたのです。そして花婿にこう言ったのです。「だれでも始めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったところに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」と。 

カナの婚宴 バルトロメ・エステバン・ムリーリョ 1672年頃https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bartolome_murillo-bodas.jpg?uselang=ja より引用

イエスが行ったこの「奇跡」、「しるし」は、イエスの神の国の到来を預言します。イエスのみことばは始めも終わりも普遍です。一貫として御父の愛を示す上等のぶどう酒なのです。聖書は婚宴の花婿と花嫁の関係を示します。旧約では「イスラエル」を神の花嫁とし、新約では 「教会」をイエスの花嫁としています。また「始め」と「終わり」の関係では「最初のアダム」と「最後のアダム」(イエス)になり、「しるし」で説明すれば。「最初のしるし」(カナの奇跡)と「最後のしるし」(イエスの死と復活)で相似関係にあります。第一朗読を見てもそうです。「主があなたを望まれ、あなたの土地は夫を得るからである。花婿が花嫁を喜びとするように」(イザヤ6245)。

第二朗読のコリントの手紙では、神から与えられた賜物にはいろいろあることを教え、すべて同じ霊によって結ばれ、働いているということ述べています。結婚の役割も同じです。 

今日の福音の風景を見渡すと、祝う人、祝われる人、招かれる人、世話役、配慮する人、仕える人・・互いにどこかで補われて、補完し合っています。ほんとうに喜びの宴になるためには、誰かの犠牲の中で成り立っているということを学ばねばなりません。 

他の人々の幸せを願わないで、自分だけの幸せを求める人には本当の幸せはありません。 

キリストはみことばです。みことばはぶどうの木です。みことばであるキリストは、十字架上(ぶどうの木)で血(ぶどう酒=カナのぶどう酒=十字架の血)を流して御父の愛を貫徹されました。十字架はぶどうの木なのです。御父のいつくしみと憐れみに満ちた、上等のぶどう酒が実るのです。婚宴は最初から終わりまで上等なぶどう酒で酔いしれたのです(日本ではこれを「おもてなし」と言うのでしょうね?)。  婚宴の席に招かれた弟子たちは、かなりの大酒飲みだったに違いありません。恐らくイエスが奇跡を起こしたことも知らなかったでしょう。知っていたのは母マリアと召使いたちだけです。いや、ヨハネはこの福音書を書きましたから、後で聞いたことでしょう。わたしたちも、信仰という、伴侶がいます。わたしたちの信じるイエスがいつも上等のぶどう酒を用意してくださっています。イエスのみことばが、わたしの花嫁、わたしの花婿でありますように。

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主の洗礼   2016年1月10日    「聖書と典礼」表紙解説

 福音朗読 ルカによる福音書 315162122節 

[そのとき、]民衆はメシアを待ち望んでいて、 ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、 皆心の中で考えていた。 そこで、ヨハネは皆に向かって言った。 「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、 わたしよりも優れた方が来られる。 わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。 その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 民衆が皆洗礼を受け、 イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、 天から聞こえた。

(福音朗読) 韓 晸守神父様

 説教  場﨑洋神父様

 

7年前の120日、バラク・オバマがアメリカの大統領に就任しました。「わたしたちはできる。あなたはできる・・・We canYou can」のフレーズで、人々を𠮟咤激励し、強いインパクトを与えました。人間は生まれてから成長していく段階で、身の回りのことが一人で「できる」という自信がつきます。自信は大人になっていくことの証しです。 

わたしたちが生きているということは、「できる」ということと、深く関わっています。 

この「できる」という感覚は自己肯定につながります。子供はいろいろなことを学習していくことによって、何でもやりたがります。自分で食事をし、自分で服を身に着けようとします。大人が手助けしようとすると、とても嫌がります。自分で自分の身の回りのことが「できる」ということは大人になったという証しですから、同時にプライドもつきます。 

しかし、歳を重ねる度に、病気になったり、人の世話になることがどんなに屈辱であり恐怖であるのか、年配者の方は重々知っています。自分のことが何もできなくなり、自分自身さえも認識できなくなるくらいなら、生きる意味がないと、嘆いてしまうものです。 

しかし、わたしたちは無力である自分を信じることが「できる」のであれば、新しい「できる」を得たことになります。それは新しい「信じ方」です。この新しい信じ方によって、より一層「ありのままの自分を受け入れること」ができるようになります。イエスが洗礼を受けられたということは、「神がわたしたちと共におられる」ということの証しです。主は共にいることを教えておられます。イエスは言われました。「恐れるな、わたしだ。安心しなさい」「わたしを信じなさい」。「世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」。信仰の要は主が共にいるということなのです。 

共にいるということ、それは信じることからはじまります。信じなければ共にいることを感じることができませんし、気づきません。 

旧約の神も、新約におけるイエスも、「あなたと共に歩む方」でした。神はイスラエルの民に深い憐みを注がれ、「慰めよ、わたしの民を慰めよ」(イザヤ4015)と、いつくしみを示されました。パウロは、テトスへの手紙の中で「この世で思慮深く、正しく、信心深く生活するようにと」勧め、「祝福に満ちた希望、救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを望むように」(21114)と教えています。「この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現されました」(同)と述べています。 

 キリストの洗礼 バルトロメ・エステバン・ムリーリョ 1655年  wikimediaより

 今日の福音で洗礼者ヨハネは民に向かって言いました。「わたしよりも優れた方がこられる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(ルカ31516)。 

キリストは神の身分でありながら人間と同じ肉をもってこの世に来られました。人間が担っている苦しみ、悲しみ、嘆き、痛みを共にされるのです。 

イエスが宣教を開始するにあたって洗礼を受けたということは、「主はあなたがたと共にいる」ということを教えるための準備でした。水は流れる川です。汚れを流し、体を清め、渇きを癒します。水は生きているいのちです。神はイエスを通して、わたしはあなたがたと共にいる、わたしはあなたがたと共に救いの泉にいざなう、と励まされるのです。イエスは罪人と共に歩み、罪人と共に救いの清めに与るのです。それは血と霊によってです。イエスの死と復活によってです。ヨハネはヨルダン川で悔い改めの洗礼を授けていました。洗礼はギリシャ語の「バプテスマ」で、「浸水する。水の中で一度死ぬこと」の意味をもっています。それは今までの生き方を変えるために、死んで生まれ変わることです。イエスが洗礼を受けられたことによって、御子は共にいる御父をわたしたちにお示しになられたのです。 

今日はこのあと入門式が執り行われます。5人の方が信仰を新たにして準備しています。主が共におられることを信じ、与えられた道を歩んでいくことができるよう共に祈りを捧げましょう。

 

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主の公現    2016年1月3日     「聖書と典礼」表紙解説

司式(福音朗読)韓 晸守神父様

 福音朗読 マタイによる福音書 2112 

イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。 そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。 わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。 エルサレムの人々も皆、同様であった。 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、 メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。

『ユダの地、ベツレヘムよ、
お前はユダの指導者たちの中で
決していちばん小さいものではない。
お前から指導者が現れ、
わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、 星の現れた時期を確かめた。 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。 わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、 東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。 彼らはひれ伏して幼子を拝み、 宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、 別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

説教  場﨑神父様  於山鼻教会  音声はここをクリック!

  東方の博士は救い主の星を見て、旅立ちました。 彼らが3人であることは聖書に記されていませんが、救い主のために持参した贈り物が「没薬」「黄金」「乳香」の3つと記されていることにより、博士は3人と言われるようになりました。彼らが救い主が生まれた場所として立ち寄ったところが宮殿にいたヘロデ王でした。救い主の誕生ですから、宮殿にお生まれになったと思い込んだことは自然のことでしょう。ヘロデ王は博士たちに「見つけたら、教えてくれ、わたしも拝みにいくから」と言って送り出しました。博士たちは幼な子を拝んだあと、夢のなかで「ヘロデのところへ戻るな」とお告げを受けたので「別の道」を通って帰っていきました。この「別の道」というのは新しい生き方を示しています。博士たちは占星術の学者とか魔術師とか、天文学者とか言われます。要するに彼らは闇夜に救い主の星を見つけたことから、旅を決意しました。彼らはヘロデ王と謁見しますが、まことの救い主を捜し当てました。そして、拝んで、贈り物を捧げ、その後、「別の道」を通って帰ったのです。博士たちは東方の異教の民です。ある聖書学者によれば博士たちは改宗して「別の道」(新しい道)を歩んで行ったと解釈します。

 

 

マギの礼拝 バルトロメ・エステバン・ムリーリョ 1655~1660年 トレド美術館  wikimediaより

この物語をわたしたちと照らし合わせてみましょう。わたしたちには救い主の星、まことの道をもっています。天を見上げてそれを求め続けることもできます。しかし、その星のことも忘れてこの世のものに心奪われてしまうことが多いです。しまいに神様のための持って行く贈り物も忘れてしまいます。神様のための贈り物、それは憐み、慈しみ、平安、柔和、謙遜の心です。人々への平和です。わたしたちも自分が歩むべき道を示してくださる「救い主の星」をもう一度確認しましょう。この道でいいのか、本当にわたしたちはまことに信仰者なのか、与えられた旅の中で何度も確認していきましょう。

 

 今日は「主の公現祭」です。ラテン語では「エピファニア・ドミニ」と言って「主の栄光が公に現された」という意味を持ちます。この世の栄光は富や財産、地位です。しかし神の栄光は秘められた計画のなかにあります。キリスト教は啓示宗教です。啓示とは、旧約においては預言者を通して神のことばが告げられたことです。そして新約において人間となったイエスによって御父が啓示されたのです。啓示は覆いかぶされて、絶えず秘められた神のわざがあります。時が満ちると栄光をあらわします。

 

     「秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。

 

この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らさ

 

れていませんでしたが、今や霊によって、キリストの聖

 

なる使徒たちや預言者たちに掲示されました」。(エフェソ326

 

今の時代にも主はいろいろな形でわたしたちに語り掛けているのです。

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神の母聖マリア   2016年1月1日     「聖書と典礼」表紙解説

 福音朗読 ルカによる福音書 21621節 

[そのとき、羊飼いたちは]急いで行って、 マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。 その光景を見て、 羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、 思い巡らしていた。 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、 神をあがめ、賛美しながら帰って行った。 八日たって割礼の日を迎えたとき、 幼子はイエスと名付けられた。 これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。

説教

 

皆さん、明けましておめでとうございます。今日、新しい年を迎えました。2016年、主が共におられることを信じ、賛美と感謝の内に歩みましょう。 

2015年、わたしたちは過ぎ去った1年を振り返ります。皆さんの周りで天に召された方々、父、母、兄弟姉妹、子供たち、友人、恩人・・・・・その人たちはわたしたちを祝福してくださいました。そして今も天国で祝福を贈り続けています。 

今現在、世界は目まぐるしく動いています。グローバル化していく世界は、いろいろな難問を突き付けられています。9月初旬のシリア難民の3歳のアイランちゃんの死(難民ボートが転覆)は世界に衝撃を与えました。ヨーロッパは難民を受け入れることを決意したものの11月のパリ同時テロで板挟みの選択を強いられています。シリアでは取り残された人々の傷は計り知れなく深いものです。テロという脅威のなかで無差別に殺されていく人たち、その家族の悲しみは想像を絶します。日本も不安な世相のなかでナショナリズムの機運さえ感じられます。テレビの報道を見ても、かなり情報操作の中にあることを憂慮します。メデアで飛び交う情報は膨大になってきています。私たち一人で正しい情報を得ることがなかなか難しい時代です。感情は理性を支配してしまうことがあります。しかし、感情は長続きしません。理性に立ち戻ると、中庸という教訓を学びます。わたしたちは絶えず感情に流され易いものなのです。

 

 

日光東照宮の三猿像    wikipediaより

今年の干支は「申年」です。「三猿の教え」は必ずこの年に取り上げられます。「見ざる、聞かざる、言わざる」。これは孔子が唱えたものです。高度経済成長期の日本、1970年代に流行した「三無主義」を思い出します。無関心でいきましょう。無責任でいきましょう。無気力でいきましょう。これに無感動を加えて四無主義という言葉も生まれました。最近は、それが世渡りする処世術のように思われている風潮さえ見え隠れします。都合の悪いことが起きた時には「中立」を主張し、有利に立ったときには、人々を守っていると主張します。 

今年、福者であるマザー・テレサが聖人の列に加えられます。マザーはこう言いました。「愛するの反対は無関心です」と。それぞれの時代に対して「今の若者は何を考えているのか」と大人たちは若者を批判しますが、その時代をつくったのも私たちです。子供は必ず親から、大人から、教育から、世相から学びます。ですから、わたしたちは自ら謙虚な心となって歴史から学ばねばなりません。人間の弱さと醜さをです。第二次大戦直前の世相、今のような言い知れない不穏な空気が蔓延していました。今のような時代に似ていると言われます。マザーは続けて言います。「痛くなるまで愛しなさい」「自分の痛みと共に愛しなさい」と。痛みを共有共感することによって、わたしはわたしでなくなります。すでに他者との関わりの中で祈るわたしたちに気づくようになります。2016年、ひとつの節目として、1年が始まります。平和を脅かし、武力による圧力に向かっては、確固たる毅然な態度が必要です。 

ここにいるわたしたち一人ひとりには年齢があります。妊娠中の人、生後2ケ月の乳飲み子、5歳、10歳 20歳、30歳、40歳、50歳、60歳、70歳、80歳、90歳、100歳・・・。しかし、わたしたちの「いのち」は年齢ではありません。年はとるのではありません。年をとったということになれば1歳の子供も年をとったということになります。いのちは年をとることではありません。新しいいのちを迎えることなのです。どれだけ古いかではなくどれだけ新しいいのちを迎え入れられるかということです。わたしたちはすべて「新しいいのち」の中で生かされています。迎えるいのちは絶えず神様から注がれている、いのち、祝福なのです。すべてのいのちは初体験なのです(20の時の元旦、50の時に元旦、70の時の元旦・・・すべて初体験です)。希望も、躍動も、儚さも、悲しみも、嘆きも、喜びも・・・・・時相応に与えられるものです。今注がれているこの「いのち」に感謝しましょう。若さも、老いも、病気も、すべて恵みのうちに招かれていることを信じていきましょう。

羊飼いの礼拝 バルトロメ・エステバン・ムリーリョ 1657年頃 プラド美術館  wikimediaより

羊飼いは、飼い葉桶で眠っている乳飲み子を捜し当てました。わたしたちも人生のなかで何度も飼い葉桶を見失ってしまうことがあります。わたしたちは羊飼いのように主を証しする者となりたいです。証しするということはいのちを祝福することだからです。 

マリアは自分では理解できない出来事をすべてこころに納めて、思い巡らしていました。 

神はもっとも小さな人々に祝福を注いでくださいます。マリアのように神の御旨を行う霊的相続人として歩みましょう。新しいいのちに祝福を贈り、賛美と感謝を捧げます。 

  主が皆さんを祝福し、守られますように。 

主の御顔をわたしたちの上に照らし、わたしたちを祝福で満たしてくださいますように。大きなことをしなければならないというのではありません。小さいことであっても、大きな愛をもって行うことができますように。 

大切なのは量より質なのです。どれだけ愛を込めたかです。このわたしではなく、この日本ではなく、世界で生きる人々に平和がありますように心を込めて祈りましょう。わたしたちのいのちは主のものです。主の喜びとなるように捧げましょう。

 

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聖家族      2015年12月27日     「聖書と典礼」表紙解説

司式  韓 晸守神父様  場﨑洋神父様  佐藤謙一助祭様

福音朗読 ルカによる福音書 24152 

[イエスの]両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、 両親は祭りの慣習に従って都に上った。 祭りの期間が終わって帰路についたとき、 少年イエスはエルサレムに残っておられたが、 両親はそれに気づかなかった。 イエスが道連れの中にいるものと思い、 一日分の道のりを行ってしまい、 それから、親類や知人の間を捜し回ったが、 見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。 三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、 話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。 聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。 両親はイエスを見て驚き、母が言った。 「なぜこんなことをしてくれたのです。
御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」 すると、イエスは言われた。 「どうしてわたしを捜したのですか。 わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、 知らなかったのですか。」 しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。 それから、イエスは一緒に下って行き、 ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。 母はこれらのことをすべて心に納めていた。 イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。

福音朗読 佐藤謙一助祭様 

説教  場﨑神父様

 聖家族Ⅰ

父としてのヨゼフ、どのような方だったかと言いますと「正しい人」です。このシンプルな表現に魅力を感じます。ヨゼフが乙女マリアに対しての思いやり、優しさは計り知れません。懐妊したときには、マリアを表ざたにすることを好みませんでした。絶えず、主のみ旨を歩み続ける夫ヨゼフ、確固たる信念の持ち主でした。正しい人、それ以外の飾りはありません。だから目立たない立役者なのです。ナザレからベツレヘムへ、人口調査のための長い旅、夢でのお告げ、エジプトへ避難、幼児殺害。どんなときも毅然とした態度で信仰のうちに行動していきました。乙女マリア、この人は、絶えずみことばを温めながらみ言葉を温め、思い巡らし、希望と信頼の内に生き抜いた女です。自分の子イエスを御父に委ねた女の生涯は壮絶です。イエスは父と語り、母と語り、また両親と共に祈りを捧げました。天におられる父、そしてこの世における父ヨゼフ、ご自身の父を重ねあわせながらお育ちになりました。マリアは十字架の道を歩んだ我が子をどのような思いで見守っていったことでしょう。だから、聖家族をとおして祈ります。わたしたちの家族に「聖」は付けられないものです。しかし、わたしたち家族を絶えず浄化し、聖なるものにしようと神様は働きかけておられます。わたしたちの肉の絆は消えるものではありません。まして精神的絆はなおさらです。しかし、このような弱い家族であっても、わたしたちは生かされているのです。父を失った家族、母を失った家族、子供を失くした家族、不和が続く家族。それが病気か、事故か、災害か、戦争か、天災か、些細なことだったのか・・・・。わたしたちの心から煮えくり返る感情が沸き上がってきます。どうぞ、わたしたちを聖なるものへ近づけてください。少しでも、わずかでもいいのです。あなたの慈しみを絶えず求め続けます。

 

父であるヨゼフよ、母であるマリアよ、わたしたちのために祈ってください。 

御子をこの世に贈ってくださった御父に感謝します。 

子供をとおして御父を見ることができますように。 

妻を通して御父を見ることができますように。 

夫を通して御父を見ることができますように。 

すべて弱さをと共に歩んでくださる慈しみ深い御父を信じます。 

家族の一員である一人ひとりの傷を癒してください。 

わたしたちが癒すことのできない傷を、どうぞ癒してください。 

少しでも、わずかでも・・わたしの魂があなたに向かって歩むことができますように。あなたの喜びとなるように。

聖家族と聖霊  ムリーリョ 1675~1682年    wikimediaより

 聖家族Ⅱ 

今日、朗読された御言葉、心に響いたところを選びました。 

  「わたしは、この子を主にゆだねます」(サムエル上1・28 

「愛する皆さん、御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい」 

(Ⅰヨハネ31)。 

「神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった“霊”によって分かります」(Ⅰヨハネ324)。 

「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」(ルカ248)。 

「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(ルカ249)。 

 主のみ旨を果たすために家族はいろいろな葛藤のなかに追いやられます。わたしたちは「父の家」にいるはずなのですが、父の家で戸惑ったり、不安にかられたりすることさえあります。それは必要なことなのです。マリアにも、ヨゼフにも、イエスにも葛藤がありました。 

聖家族とはいったい何でしょうか。それはわたしたちの日常で起こることです。共に喜び、共に苦しみ、共に悲しみ、共に希望する、共に挫折する。こんな醜い家族であっても、神はどれほどの愛をもってわたしたちを聖なる者へと導いてくださることでしょうか。主は、わたしたちが、失敗しても、過ちを犯しても、主はつねに祝福し、浄化し、“霊の絆”によって立ち上がらせてくださるのです。幼少の頃、毎晩家族で「晩の祈り」を祈りました。その中に「寝る前の祈り」(公教会祈祷文)がありました。ときどき口ずさみます。あの「イエズス、ヨゼフ、マリア」の祈祷のリズムがいいのです。 

 

   就床時の祈り 

イエズス、マリア、ヨゼフ、心と霊魂とをみ手に任せ奉る。 

イエズス、マリア、ヨゼフ、臨終のもだえの時に、われらを助けたまえ。 

イエズス、マリア、ヨゼフ、御保護のもとに、安らかな息絶ゆるを得しめたまえ。 

守護の天使、保護の聖人、われを照らし、守り、導きたまえ。アーメン。

 

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主の降誕(日中ミサ)  2015年12月25日  「聖書と典礼」表紙解説

 

福音朗読 ヨハネによる福音書 11~14節 

初めに言があった。 言は神と共にあった。 言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。 成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。 命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。 暗闇は光を理解しなかった。 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 言は世にあった。 世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、 神によって生まれたのである。 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。 わたしたちはその栄光を見た。 それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

 

司式 (福音朗読) 祐川郁夫神父様

クリック!場﨑神父様のお説教を聴くことが出来ます。(於山鼻教会)

主の降誕(夜半ミサ) 2015年12月24日   「聖書と典礼」表紙解説

 

福音朗読 ルカによる福音書 2114

 

そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、 ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。 宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。 天使は言った。 「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。 この方こそ主メシアである。 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。 これがあなたがたへのしるしである。」 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。 「いと高きところには栄光、神にあれ、 地には平和、御心に適う人にあれ。」

福音朗読 佐藤謙一助祭様

 説教  場﨑神父様

クリスマスおめでとうございます。 

今日わたしはキリストの降誕、クリスマスを祝います。クリスマスとは「キリスト」の「ミサ」と言う意味です。今日の福音はイエス誕生の物語を伝えています。婚約していたヨゼフとマリアは人口調査のためナザレから130キロ離れたエルサレムの南10キロにあるベツレヘムへ赴きました。ここはダビデ王が生まれた町でヨゼフはその血筋でしたので妻マリアと登録するために旅立ちました。二人にとってそれは長旅でした。ところがベツレヘムには着きましたが宿屋が満杯で彼らの泊まる場所がありませんでした。しかもマリアに陣痛が起きています。どうにかして宿をとらなくてはなりません。赤ん坊を産まなくてはならないのです。最終的にルカ福音書では、乳飲み子は布に包んで「飼い葉桶」に寝かせたと語っています。 「飼い葉桶」についてお話しをします。ベツレヘムはヘブライ語で「パンの家」と言う意味です。イエスがパンとなってこの家に降りてきたと言ってもいいでしょう。なぜならば、クリスマスと言う英語はキリストとミサという意味ある言葉です。要するに「キリストのミサ」と言う意味です。ミサとはキリストが最後の晩餐で遺された記念の食事です。「飼い葉桶」という乳飲み子が据えられたことは本当に神秘に満ちています。神の子である方が、宮殿やお城ではなく、貧しい「飼い葉桶」でお生まれになったということは深く意味があります。これによって神は救い主の誕生の証し人を選びます。それは羊飼いでした。羊飼いは当時、社会的に最も低い位置にいた人々です。夜通し羊の番をしていましたので、安息日も守ることもできません。しかも、羊飼いが所有していた羊ではありません。大地主が所有していたものを託されていたのです。しかし、羊飼いは神の子の誕生の証し人として選ばれるのです。 

わたしたちも今日、このミサに与っているということは「飼い葉桶で眠っている幼子こそ、神の子である」と、羊飼いと共に証言台に立っているのです。クリスマスは一般社会では派手に騒いだり、ロマンチックな夜と想像する人が多いと思います。あるいはクリスマスにはプレゼントをもらうのが当然の楽しみと思っている人もいます。しかし大切なことはクリスマスはまことのいのち、いのちの誕生をお祝いする日なのです。この世に生まれてくるわたしたちの確率は計り知れなく低いものです。わたしたちの先祖は江戸時代にも他の国にもいたのです。間違いなく生きていたのです。そして今、みなさんは歴史の先頭、このときを生きているのです。 「飼い葉桶」に幼子が寝かされているということはどんな意味をもつのでしょう。「飼い葉桶」に神の子がお生まれになったということは、神とわたしたちの間に怖れを取り除かれたことです。「飼い葉桶」に寝かされたということは、どんな人もそこへ行けることなのです。幼子を抱け上げることもできるのです。もし、神の子が宮殿や、お城、お金持ちの家に生まれたら、恐らく、誰も乳飲み子を拝みに行けないでしょう。もし、救い主が神殿や宮殿、お金持ちの家に生まれたならば 銃をもった兵士や警備隊によって阻止されるでしょう。身分の高い人や、特別に許可された人だけしか入れないでしょう。神様はイエスを通して救いの道をお開きになりました。人間と神との間に、何の壁もおつくりにならなかったのです。世界の人々が「飼い葉桶」の乳飲み子を礼拝することができるためです。乳飲み子を抱き上げることができるのです。乳飲み子に接吻できるのです。しかし、いつの時代も、飼い葉桶」に眠っている貧しい乳飲み子たちを殺してしまう、現代社会があります。戦争や、紛争、テロが絶えないことは悲しいことです。「飼い葉桶」の乳飲み子には国境がありません。権力、地位、支配、階級という壁はありません。乳飲み子を誘拐することもできるでしょう。乳飲み子はみなさんの手に委ねられています。皆さんは今ここに生きている「飼い葉桶」そのものであると言ってもいいでしょう。乳飲み子をみなさん一人ひとりがもっている心の布で包んであげられますか。いのちを自分の「飼い葉桶」に迎えることができますか。 

今日、皆さんは羊飼いと「飼い葉桶」に眠っている乳飲み子を拝みに来ました。それがあなたがたへの「しるし」になるのです。馬小屋の乳飲み子は人形であっても、陶器であっても、そのいのちが長い歴史のなかで受け継がれていという「しるし」をわたしたちは見ています。「飼い葉桶」で眠っている乳飲み子、それは今、まさにみなさん一人ひとりの「心の飼い葉桶」に来られということなのです。幼な子を抱きしめてください。無力でしょう。何もできないでしょう。神は乳飲み子を通して、わたしたちに信頼という関わりを教えておられるのです。 恐れを教えているのではありません。権力を見せつけているのではありません。不安を教えているのではありません。神は人間となってわたしたちの内にお住みになったことは、神が自ら貧しくなられたのです。神自ら、へりくだりの心、謙虚さ、素直さを、飼い葉桶を通し、乳飲み子を通し、わたしたちにまことの愛を教えているのです。皆さん一人ひとりが今日、飼い葉桶の乳飲み子を信じることができれば、神のみ言葉を抱き上げることができます。み言葉を日頃の糧として包むことができます。わたしたちは貧しくなられた御子イエス・キリストをわたしたちの「貧しい飼い葉桶」の中に受け入れることができます。これこそ、あなたがたへの「へりくだりの『しるし』」なのです。だから、天使が羊飼いに語ることばはわたしたち一人ひとりに語られていることなのです。 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」。布に包まって飼い葉桶の中に眠っている乳飲み子、これがあなた方へのしるしである。今日の出来事は2000年前の出来事ではありません。わたしたちの中で平和を告げ知らせている救い主が今日も明日も日常の中で生まれているのです。シリアの難民の子供たちの中に。マザーテレサが求め続けた貧しい「飼い葉桶」の中に。それは平凡と思える日々のなかの「飼い葉桶」の中にあります。わたしたちはそれを見出すことができます。羊飼いと共に見つけ出して、神の子の誕生の証し人になれます。愛するものよ、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。皆様の「心の飼い葉桶」にメリークリスマス! 主の降誕、心からお祝い申し上げます。 最後に今日、届いたクリスマスカードのなかに書かれた祈りを捧げます。

 

   神は言われる 

わたしは裸で生まれた 

  あなたが自我を捨てるために 

わたしは貧者で生まれた 

  あなたがわたしを唯一の冨とみなすために 

わたしは馬小屋で生まれた 

  あなたがどんな場所をも聖とするために 

   神は言われる 

わたしは弱者に生まれた 

   あなたがわたしを怖がらないように 

わたしは愛のために生まれた 

   あなたがわたしの愛を疑わないように 

わたしは夜中に生まれた 

   わたしがどんな現実でも照らせることを 

   あなたに知ってもらうために 

   神は言われる 

 わたしは人間として生まれた 

   あなたが神の子となるために 

 わたしは被害者に生まれた 

   あなたが困難を受け入れるために 

 わたしは質素な者に生まれた 

   あなたが粉飾を捨てるために 

 わたしはあなたの中に生まれた 

   あなたをとおしあなたと共に 

 すべての人を父の家に連れて行くために

 

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ミサ後、茶話会がささやかながら和やかに行われました。

待降節第4主日  2015年12月20日  「聖書と典礼」表紙解説

福音朗読 ルカによる福音書 1章39~45節

そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

司式(福音朗読) 森田健児神父様

  説教  場﨑神父様  於山鼻教会

神父様の音声をお聴きになりたい方は山鼻教会ホームページへどうぞ

昨日、若い夫婦が教会にきました。お腹の中に新しい命が宿っていました。妊娠六か月で、来年の4月が出産予定です。何と素晴らしいことでしょうか。三人で祝福の会話が始まりました。「どんな具合ですか?胎児は動いていますか?」「はい、ときどき動いています」。「男の人は分かりませんけど、どんなふうに動いていますか?」。「泡のようにブクブクと言っているようで・・・・」。「ブクブク・・・???」男性には決して分からないことです。いのちは本当に不思議です。いのちはわたしからのものではなく、神様からの授かりものです。祝福されたいのちの営みです。 第一朗読、ミカの預言は、到来する救い主はイスラエル(わたしたち)にとって平和であると言います。第二朗読のヘブライ人への手紙の中では、救い主の到来は神のみ旨を果たすためであると語っています。「ご覧ください。わたしは来ました」「神よ、御心を行うために」「わたしは来ました。御心を行うために」。「御心に基づいてキリストの体が捧げられる・・・・」。救い主キリストは、御父の御旨を果たすためにこの世に来られたのです。それはすべての人々に祝福を贈るため、すべての人々の救いのためです。 ルカ福音はマリアのエリザベト訪問を伝えています。妊婦が互いに祝福し合うことは本当に美しいことです。この祈りは アヴェ・マリアの祈りの中で祈られている祈りです。いのちは互いに祝福し、祝福され、神の霊に満たされます。いのちが宿るということは計り知れない神のみわざです。わたしたちはこのいのちに招かれ、このいのちに生かされます。聖書では祝福のことを「ベラカー」と言います。人は神様からの祝福を願い、人を祝福することもできます。神様は天地を創造されて「良し」とされ、すべての人に祝福を注ぐのです。

訪問(マリアとエリザベト)マリオット・アルベルティネリ 1503年 ウフイツイ美術館  wikimediaより

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Albertinelli_Visitation.jpg?uselang=ja

この世界はどのような目的で創造されたのでしょう。それは人間にとって最も大切こと、わたしがわたしであるという存在価値を知るためです。文明や知能が進歩したという次元ではありません。「人間はどこまで愛されているか」、「どこまで愛することができるか」という存在価値です。万物は神様から「良し」とされて祝福をいただいています。神様がわたしたちに絶えず祝福を贈ってくださっているように、わたしたちも隣人に祝福を贈り続ける存在でありたいです。わたしたちには 悲しみがあります。痛みがあります。思い通りにいかないときもあります。しかし神様は腕の中にわたしたちを温かく包み、憐れみと慈しみのうちに祝福を注いでくださいます。

わたしたちは常日頃「モッタイナイ」と言う言葉を使います。環境保護活動でノーベル平和賞を受賞したケニアのワンガリ・マータイさんは日本語の「モッタイナイ」を好んで使いました。あの人にこのケーキをやるのは「モッタイナイ」、チョコレートをやるのは「モッタイナイ」と言うでしょう。しかし、神様には「モッタイナイ」がないのです。神様は愛です。絶えず祝福を贈る方です。「モッタイナイ」は「かたじけない」「恐れ多い」「身に受ける恩恵に対して、感謝の念でいっぱいである」とも表現できます。わたしたちは「モッタイナイ」がない、神様の慈しみと憐れみに触れていきましょう。そして日々の生活を通して祝福が注がれることを願いましょう。主は来られます。いのちの源である御父をお示しになられた神の子イエス・キリストの誕生を心からお祝いしたいです。

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待降節第3主日  2015年12月13日  「聖書と典礼」表紙解説

福音朗読 ルカによる福音書 31018

[その時、群衆はヨハネに、]「わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。
わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。

(福音朗読)韓 晸守神父様

説教

今日は「喜びの主日」です。主の降誕祭が真近かに迫っている待降節第3主日を喜び日として迎えます。主なる神はどこにおられるのでしょうか。どこか遠いところにおいでなのでしょうか。

喜びの預言ゼファニアは主がすでにわたしたちの中におられることを呼びかけています。

「イスラエルの王なる神はお前のただ中におられる」(ゼファニア3・)。このメッセージは主が共におられることに気づかないわたしたちの心を奮い立たせてくれます。

会衆は答唱を詩編ではなくイザヤの書でもって喜び歌います。

 「喜びに心はずませ、救いの泉から水をくむ。神はわたしの救い、わたしは信頼して恐れない・・・・・」(詩編イザヤ12

パウロの手紙は喜びを伝えます。この手紙も先週に引き続きローマの獄中で書かれたものです(紀元61年~62年頃)。束縛された中であっても、パウロは主において確信に満ちた喜びを宣言します。

パウロはフィリピの共同体に強い愛着を抱いていました。ですから、パウロの強い思いが祈りとなって伝わります。この手紙を解説する必要はないでしょう。手紙自体が美しく希望に満ちているからです。

「主において喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようにしなさい。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いを捧げ、求めているものを神に打ち明けなさい」。

 獄中にあったパウロは多くの体験をとおして、宗教、民族、文化、言語の壁を分け隔てて、まことの喜びを切実に教えています。わたしたちは物質的に不自由な生活をしていないのに、なかなか喜ぶことができません。今日の手紙を読むと、現代人は「冗談じゃない。誰がそう簡単に喜べるものか」と不満を口にするでしょう。パウロはただ単に、わたしたちに「喜びなさい」とは言っているのではありません。彼は「主において」と言います。それは「主をとおして」、「主にあって」、「主と共に」あることで、神の御慈しみと憐れみによって生かされていることを知るのです。それはどんなときでも、主において感謝と喜びをもって祈ることです。神の御慈しみとまことはどんなときにも、私たちと共に歩んでいるのです。愛である神がわたしたちから離れるのではなく、わたしたちが慈しみとまことである神から離れてしまうのです。喜びは自分の視点から発することはできないのです。神の視点をとおして、まさに今、慈しみを注いでいる方と出会うのです。出会うことによってわたしたちの魂は喜びと感謝に溢れるのです。主軸は真理です。真理のうちに歩む者はまことの喜び、まことのいのちに与ることができるのです。


イエスを見つめる洗礼者ヨハネ(ヨハネ1・36)オッタビオ・Vannini 17世紀 commons.wikimedia.orgより

今日の福音で、洗礼者ヨハネは「わたしよりも優れた方が来る。わたしはその人の履物の紐を解く値打もない」と来たるべき救い主を差し出します。洗礼者ヨハネは救い主の到来を真近かに感じながら、差し迫ってくる喜びの緊張感をわたしたちに告げ知らせます。それは恐れの接近ではなく、喜びの接近、神の国の接近なのです。ヨハネは主軸を神のご計画に倣うのです。

その方は「聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と言います。霊は燃え盛る炎のようです。光は闇を照らし、聖霊はわたしたちを聖なるものにしてくださいます。

わたしたちの人生をもう一度振り返りましょう。与えられた恵みの中で、わたしの計画と神のご計画を擦り合わせてみましょう。洗礼者ヨハネのように脇役でも構いません。わたしたちには神様から与えられた使命と役割があります。主役であろうが、脇役であろうが、素晴しい神の計画の一員なのです。主において誇ることができます。主において誇ることのできる人はまことの喜び、まことの感謝に与れるのです。

 「喜び」の反対は「悲しみ」です。「喜び」は「祝うこと、賛美すること」です。・・・と言うことは「悲しみ」は「祝うことができないこと、賛美できないこと」です。ミサは賛美と感謝です。イエスはすべての悲しみを「賛美と感謝」変えてくださいました。「あなた(神)は嘆きを喜びに変え、あら布を晴れ着に替えてくださった」(詩編3012)のです。

 

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待降節第2主日  2015年12月6日  「聖書と典礼」表紙解説

福音朗読 ルカによる福音書 316

皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。
そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」


説教

今月はわたしたちとキリスト者にとって身近な月となっています。先週123日は聖フランシスコ・ザビエルのお祝いです。今日は6日ですが、聖ニコラスの日になっています。128日、いつくしみの特別聖年開始の日、無原罪の聖母の祭日です。光を意味するルチアは13日ですから今年は主日と重なります。ザビエルは中国での宣教を切望しながら天に召されていきました。彼の宣教意欲は神のみ旨のみに従っていく僕の姿でした。聖ニコラスは貧しい人々のために生涯を捧げ尽くし、その精神は多くの人々の希望と慰めとなっています。殉教者ルチアは光です。ガラス職人や目を守る保護者にもなっています。北欧(ノールウエイ、フィンランド、スエーデン)ではルチアを尊び光の祭儀を祝います。

さて、今日のみ言葉に触れて参りましょう。

フィリピ人への手紙はパウロが獄中で書いた手紙です(紀元61頃)。その他にもコロサイ、フイレモン、エフェゾの信徒への手紙も獄中で書かれています。パウロはユダヤ人でありながらローマの市民権をもっていました。彼はもともとファイサイ派のガマリエルの門下生で、キリストを迫害する者でした。しかし、復活したキリストとの出会いによって劇的回心をしました。3回に亘る宣教旅行の末、エルサレムでユダヤ人たちに捕えられますが、ローマ皇帝に上告したためローマへ護送されました。パウロの獄中生活はかなり保障されていました。その中でもパウロが思い続けるキリスト共同体への思いやりや感謝の気持ちは大きなものでした。

「いつも喜びをもって祈っています。あなたがたが最初から今日まで、福音に与っているからです。わたしがキリストの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているか・・・・・・」。パウロの切実に祈る思いが手紙のなかから伝わってきます。

  バルクの預言は第二正典(聖書続編)にあります。バルクは預言者エレミヤの弟子であり、書記官でした。紀元前600年頃、南ユダ国が滅亡することを預言したエレミアは批難されバルクと共にエジプトにも逃亡しています。この書は実際、紀元前2世紀から1世紀ごろにあった伝承を、ある者によってまとめられて書かれたと言われています。今日の箇所は暗黒の地バビロンへ、捕囚の身になっていく人々に救いを告げ知らせています。エルサレムへの帰還が迫っていることを伝えている希望と慰めの預言です。

福音書は救い主の到来を告げる旧約最後で最大の預言者、洗礼者ヨハネを登場させます。

 彼は罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えていました。それは救い主がいよいよ訪れる前に、主に立ち返るように、道を整えさせます。

「荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え、その道をまっすぐにせよ。谷は埋められ、丘と山は低くされ、曲がった道はまっすぐに・・・・・」

この箇所はイザヤ書(4035)からの引用です。主とは救い主キリストの到来です。

いよいよ救いの歴史において、神の子が到来する時、時が満ちるのです。

 

洗礼者ヨハネ 1542年 ティツィアーノ・ヴェチェッリオ アカデミア美術館ヴェネツィア蔵 wikimediaより

今日は希望することを告げています。わたしたちは絶えず喜びをもって希望することです。人生にはあらゆる試練がやってきます。試練を耐え忍ぶことによって信仰を深められ、希望はまことの希望となっていくことでしょう。しかし、わたしたちは間違った形で希望を希望としてしまうことがあります。それは希望を 願望、野望、欲望、羨望にすり替えてしまっているということです。願望は、可能性があるかどうかは関係なく心が望むことです。野望は。この世を支配したいためにおこる野心的な望みです。欲望は、本能的な欲に身を任せてしまう望みです。羨望は 自分にはない他者を見て、あるいは比較して、そうなりたいと憧れる望みです。しかし、聖書が伝える希望は願望でも、野望でも、欲望でも、羨望でもありません。

今日のみことばは、わたしたちに、魂が求めて止まない永遠のいのちを告げ知らせています。まことの希望は自分だけの喜びではなく、すべての人々が主の食卓を囲んで共に祝い、賛美し、喜び、永遠のいのちを待ち望むこととなります。

 わたしたちは正しく希望し、正しく歩み、正しく実行するものとなるように祈りを捧げていく必要があります。 信仰は希望です。希望は信仰です。そこで実るのが神の愛です。

希望のない信仰は偽りになります。信仰がなければ希望もありません。まことの喜びを希望し、主の降誕祭を迎えましょう。

 今まさに世界は 野望と欲望に満たされています。神の国の到来を切に待ち続けながらクリスマスを迎えましょう。特にクリスマスは子供たちを祝う日です。世界の子供たちが戦争や弾圧から解放され、イエスの眠る飼い葉桶にいざなわれますように祈りを捧げましょう。


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待降節第1主日 2015年11月29日   「聖書と典礼」表紙解説

福音朗読 ルカによる福音書 21章25~28、34~36節 

[そのとき、イエスは弟子たちに言われた]「それから、太陽と月と星に徴が現れる。  地上では海がどよめき荒れ狂うので、  諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。  人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、  恐ろしさのあまり気を失うだろう。  天体が揺り動かされるからである。  そのとき、  人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。  このようなことが起こり始めたら、  身を起こして頭を上げなさい。  あなたがたの解放の時が近いからだ。」  「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。  さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。  その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。  しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、  人の子の前に立つことができるように、  いつも目を覚まして祈りなさい。」

司式(福音朗読) 森田健児神父様

説教    場﨑神父様


今日から新しい暦がはじまりました。待降節第1主日を迎えて、「待降節の輪」のローソクに火が灯されました。やがてローソクの火が1から2本、2本から3本、3本から4本となって喜びの主の降誕の日を迎えることになります。

子供のときに、兄弟で松の輪をつくったり、馬小屋を組み立てたり、鐘を磨いたり、とにかくクリスマスを心から待ち焦がれながら過ごしていたことは本当に嬉しい日々でした。待降節は喜びのうちに待ち続ける希望の季節と言えます。

エレミアは「ダビデのための若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもって国を治める。・・・ユダは救われ、安らかに人の住まいとなる」と語って、救い主の到来を預言しています。それは「主は我らの救い」であり、御父は御子イエスをこの世に送ってくださるのです。イエスの名には「神は救い」です。

答唱詩編では詩編25「すべての人の救いを願い、わたしはあなたを待ち望む」が歌われました。「わたし」ではなく、「わたしたち」が心から真のすべての人々の救いを願い、希望のうちに平和のために祈るのです。

福音書はこの世の終わりについて言及しているかのように暗雲の動詞を並べます。

この世の異変のなかで、わたしたちの心は気を乱してしまいます。「不安に陥って、人々は怯え、恐ろしくなり、気を失ってしまいます」。しかし、みことばは希望をもって待つことを教えます。希望することによって人の子が降りてくるのです。そのときは身を起こして頭を上げることができるのです。だから心が鈍くならないように注意し、いつも目覚めていなさい、と、イエスはわたしたちを喝破されるのです。


今日のテサロニケへ第一の手紙は希望を伝えています。この手紙は新約聖書の中では一番古いものです。パウロがテサロニケにいる信徒に宛てて書いたものです。紀元51年頃でしょうか。この手紙を読んでいくと、とても励まされます。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい」。このように日々わたしたちの心は喜びのうちにキリストを迎えることが出来るのです。

この待降節の中でわたしたちは喜びを携えて、絶えず祈り、日々感謝することによって真の救い主を迎えることが出来るのです。

「 しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。 あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。 従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう」(第一テサロニケ手紙5・46参照)。暗いと不平を言うよりも進んで明かりをつけていきましょう。この精神は希望と喜び、感謝です。主の到来を心から待ち続けましょう。


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王であるキリスト   2015 年11月22日      「聖書と典礼」表紙解説

福音朗読 ヨハネによる福音書 18章33b~37節

 [その時、ピラトはイエスに、]「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。  イエスはお答えになった。  「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。  それとも、ほかの者がわたしについて、  あなたにそう言ったのですか。」  ピラトは言い返した。  「わたしはユダヤ人なのか。  お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。  いったい何をしたのか。」  イエスはお答えになった。  「わたしの国は、この世には属していない。  もし、わたしの国がこの世に属していれば、  わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。  しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」  そこでピラトが、  「それでは、やはり王なのか」と言うと、  イエスはお答えになった。  「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。  わたしは真理について証しをするために生まれ、  そのためにこの世に来た。  真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」

説教

今日は教会暦の最後の日曜日です。わたしたちの人生は、まことの王である救い主イエス・キリストに向かって歩んでいます。この祭日「王であるキリスト」は1925年、ピオ11世によって定められました。当時は第一次大戦から第二次大戦へと向かっている暗雲の時代でした。この世の権力を象徴するものとして昔から王が登場してきました。主の降誕の物語の中で天使が羊飼いに告げる箇所があります。「ダビデの町にわたしたちのために救い主がお生まれになった」。このダビデはイスラエルを代表する王です。新約においてこのダビデと同じような王が出現することを人々は信じていました。しかし、この王は煌びやかな服を着た人ではありません。王冠を頭にかぶっている人ではありません。手に王尺をもっている方ではありません権力を貪る方ではありません。その方は仕えられるためではなく、仕えるために来られた方でした。パウロは手紙の中で救い主イエス・キリストについて語っています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でしたこのため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、 すべての舌が、イエス・キリストは主であると公に宣べて、父である神をたたえるのです」。(フィリピ2711)。

 わたしたちの王とはまことの御父をお示しになられたイエス・キリストです。戦争を興して統治するのではなく、全ての人々の救いのために来られた救い主が王なのです。人間がこの世を支配するのではなく、神の愛がこの世を支配するのです。   

「神はその独り子を与えるほど、この世を愛された。それは御子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を得るためである」(ヨハネ316

「その神秘とは、天にあるもの、地にあるもの、すべてのものを、キリストを頭として一つに結び合わせるということである」。(エフェソ110

ピラトから尋問されるイエス  ジェームス・ティソ  19世紀  wikimediaより

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Jesus_Before_Pilate,_First_Interview.jpg

今日のヨハネ福音は聖週間の、受難の金曜に朗読される箇所です。ピラトはイエスに「あなたはユダヤ人の王なのか」と言いました。イエスは「わたしの国は、この国に属していない」と答えられました。イエスは「わたしは真理について証をするためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」。

 御父がこの世に送ってくださった救い主イエス・キリストによって真理が示されました。

    キリストをとおして永遠の命を知りました。  

    キリストによって、まことの食べ物、飲み物を頂きました。

    キリストによって道を知り、命を知りました。

    キリストによって闇に光が灯されました。

    キリストを見る者は、御父を見ることができました。

    キリストはわたしたちの真の王となり、救い主となりました。

    それはわたしたちの希望であり、喜びであり、平和です。

今日は三人の子供たちの初聖体を受けられます。イエスは御父の愛を皆さんに告げ知らせるために来られました。だから食べ物としてわたしたちのところに降りてきました。皆さんの心にいつもイエス様の愛が輝きますようにお祈りいたしましょう。


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年間第33主日    2015年11月15日    「聖書と典礼」表紙解説

福音朗読 マルコによる福音書 13章24~32節

[その時、イエスは弟子たちに言われた。] 「それらの日には、このような苦難の後、  太陽は暗くなり、  月は光を放たず、  星は空から落ち、  天体は揺り動かされる。  そのとき、  人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、  人々は見る。  そのとき、人の子は天使たちを遣わし、  地の果てから天の果てまで、  彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」  「いちじくの木から教えを学びなさい。  枝が柔らかくなり、葉が伸びると、  夏の近づいたことが分かる。  それと同じように、あなたがたは、  これらのことが起こるのを見たら、  人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。  はっきり言っておく。  これらのことがみな起こるまでは、  この時代は決して滅びない。  天地は滅びるが、  わたしの言葉は決して滅びない。」  「その日、その時は、だれも知らない。  天使たちも子も知らない。  父だけがご存じである。」

 

司式 今田玄五神父様 (福音朗読)

 説教


 カトリック新聞 「キリストの光 光のキリスト」より 場﨑洋神父様


        天地は滅びるが、神の言葉は決して滅びない。


典礼暦も終わりに近づく。共観福音書はこぞって黙示的な表現を取る。この世の終末に起こること、すなわち「覆いが取り除かれること」「隠されていたものが明らかにされる」ことが告げられる。イエスは「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と教える。この世のあらゆる苦難、試練、艱難を乗り越えたとき、神の言葉は明らかにされるのである。

 今世紀は人類の歴史を見ても未だに一触即発であることは言うまでもない。人間は思いのままに自然を支配してきた。しまいに効率よい農薬を見出したが、生物学者レイチェル・カーソンは自然連鎖の崩壊に警鐘を鳴らした。彼女は「沈黙の春」の中で時の重要性を教えた。

 「自然は、沈黙した。鳥たちは、どこへ行ってしまったのか。みんな不思議に思い、不思議な予感におびえた。・・・春が来たが、沈黙の春だった」。

世界を取り巻く環境がどんどん変わる。自然破壊によって、動物も、植物も、水も、空気も、同様にわたしたちの命も傷つけられていく。この世界というものは共生共存している。人類は常に新しいモノを獲得したいがために自然を破壊してきた。新しいものを求めてコロコロと変化する生活を楽しみ、得たときの満足感で至福を味わう。しかし、その満足感は表面的なもので真の幸せではない。


ミッシャル・エンデの「モモ」の中に「灰色の男たち」が登場してくる。彼らは時間泥棒である。速いスピードでモノを動かし、時間を効率よく使おうとする。立ち止まって見る時間も、立ち止まって考える時間もない。出会いを熟成することもしない。ただ時代の価値観に翻弄されるだけである。情報はどんどん流れていく、熱しやすく冷めやすい。世の中の変化に敏感でありながら、神が告げる時には気づかない。

「私たちは、今や分かれ道にいる。どちらの道を選ぶべきなのか。長い旅をしてきた道は、すばらしい高速道路で、すごいスピードに酔うこともできるが、私たちはだまされているのだ。・・・もう一つの道はあまり人も行かないが・・・最後の、唯一のチャンスがあるといえよう」(「沈黙の春」訳:青樹梁一)。

 カーソンは「生命が終わりを告げることは自然で、不幸なことではない」(同)と言う。「夏が近づいている」「人の子が戸口に近づいている」。だから積極的に学び、主に応えて沈黙を破らなければならない。その日、その時は、だれも知らないからである。


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年間第32主日   2015年11月8日   「聖書と典礼」  表紙解説

福音朗読 マルコによる福音書 12章38~44節

 [そのとき、]イエスは教えの中でこう言われた。  「律法学者に気をつけなさい。  彼らは、  長い衣をまとって歩き回ることや、  広場で挨拶されること、  会堂では上席、  宴会では上座に座ることを望み、  また、やもめの家を食い物にし、  見せかけの長い祈りをする。  このような者たちは、  人一倍厳しい裁きを受けることになる。」  イエスは賽銭箱の向かいに座って、  群衆がそれに金を入れる様子を 見ておられた。  大勢の金持ちがたくさん入れていた。  ところが、一人の貧しいやもめが来て、  レプトン銅貨二枚、  すなわち一クァドランスを入れた。  イエスは、  弟子たちを呼び寄せて言われた。  「はっきり言っておく。  この貧しいやもめは、  賽銭箱に入れている人の中で、  だれよりもたくさん入れた。  皆は有り余る中から入れたが、  この人は、乏しい中から 自分の持っている物をすべて、  生活費を全部入れたからである。」


説教

今日の福音書にでてくる賽銭箱は神殿の境内のなかにあったものです。当時、神殿はユダヤ人にとって権力の象徴でした。神殿の雄大さ、美しさは神の権威を見せつけるために打ってつけでした。この神殿を建てたのがあの暴君ヘロデ大王でした。彼は自分の権力を見せつけるために壮大な神殿を建設し、主なる神と大祭司たちを利用して権力を貪っていました。

今日の福音で二人の正反対の人物が登場してきます。それは権威のもとに居座り、上席で見せかけの祈りをする律法学士者たちです。彼らは律法で貧しいやもめを食いものにしていました。律法が貧富を産み、貧しい人たちをさらに貧しい場所へ追いやっていたのです。イエスはこのようなものは人一倍厳しい裁きを受けるであろうと言いました。

もうひとりは貧しいけれども自分のすべてを神に捧げるやもめでした。イエスは賽銭箱の向かいに座ってずっとその様子を見ていました。当時の賽銭箱は神殿の境内の中にあり十三のラッパ型のものが並んでいました。献金はいけにえの動物を買う費用に当てられたり、神殿の維持管理などに使われていました。参詣人が祭司にお金を渡して用途を伝えますと、祭司はその用途に応じた賽銭箱にお金を投げ込むのです。そうなるとどこに入れたかが分かります。コインの音も違ってきます。金持ちたちがお金を投げ込むときと、貧しい人が投げ込むとき(レプトン銀貨2枚)、コインの音で身分がだいたい分かってしまうのです。レプトン銀貨とは数十円の額です。大勢の金持たちはいつも有り余る中からお金を入れていましたが、この貧しいやもめは乏しい中から自分のもっている物をすべて、生活費を全部入れていたのでした。イエスはこのやもめの姿に慈しみを示されたと同時に、外見だけを装う金持ちや、律法学士たちを批難しました。


今年の春、隣の教会のルカ神父様から新宿のど真ん中にフランシスコ像が建てられていることを聞きました。しかもそのフランシスコの像のモデルになったのが、今、北見教会で協力司祭として働いているロンデロ・カリシモ神父様(イタリア人のフランシスコ会司祭)です。もう85歳を越えています。詳細は分かりませんがホテルに関係しているあるオーナーがアシジの聖フランシスコのことを大変尊敬していたそうです。それで是非、イタリア人の司祭をモデルにしたいということでお願いされたそうです。その像が建てられているのが東京都庁のすぐ近くの高層ビル(新宿住友ビル)の入口の庭です。そのビルは何と地上52階(地下4階)建て、高さが210メートルです。建設された1974年時点で、日本一の超高層ビルでした(今現在日本では25位)。フランシスコの銅像が両手を広げて天を仰いているのですそれが神殿と貧しいやもめ。権力者とイエス、現代社会とその中で証を立てるフランシスコの精神と対比できます。

人間は知識を獲得することで、幸せになれると思っています。知識とはモノをつくる知識、人を支配する知識へと変貌していきます。わたしたちは何かに駆り立てられ、何かの虜になってしまいます。自己中心的な奉仕主義、業績主義、規則主義(律法主義)に陥っていくのです。人間は何かに打ち込みながらも、自分を失ってしまうことがあります。何かの不安に駆られて疲れてしまうことがあります。わたしは今これを「doing=しているのだ」という自惚れがあります。「Knowing=わたしは知っている」という自惚れにも欺瞞にも陥りやすいのです。ところが人間は今、まさに「神と共にいる」=「being」を忘れてしまっているのです。律法学士や金持ちたちは「doing」 と「knowing」に自惚れ、所有していることに浸っていました。 しかし、貧しいやもめも、キリストも「神と共にいる」ことをわたしたちに教えています。イエスはいつもわたしたちに この世の財産、名誉、地位ではなく、すべてを捧げる奉献生活、神と共に「being」=ある生活を望んでいます。新宿のフランシスコ像はまさしく超高層ビルが建ち並ぶなかで、堂々と「我が神、我がすべてよ」と叫んでいるのです。わたしたちの拝金主義に警鐘を鳴らしているのです

左 新宿住友ビル  建築 1974年(当時は日本第1位の高層ビル)。 高さ 210メートル(今現在日本で25位)地上52階、地下4階。三角柱型の超高層ビル 角柱型の超高層ビル所在地:東京都新宿区西新宿2丁目61号 (写真wikipediaより)

中 フランシスコ像(10月15日場﨑神父様撮影)  右 若き日のカリシモ・ロンデロ神父様(カトリック釧路教会ホームページより)



諸聖人   2015年11月1日      「聖書と典礼」 表紙解説

8福音朗読 マタイによる福音書 5章1~12a節

[そのとき、]イエスはこの群衆を見て、山に登られた。 腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。 心の貧しい人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである。 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。 柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。 憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。 心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。 義のために迫害される人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、 身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。

 

司式 (福音朗読) 萱場 基神父様

説教   場﨑神父様

カトリック教会は、福音的な生き方を貫き、信者の模範として生涯を捧げた人を聖人として尊敬しています。初代教会にあたっては、キリストのために命を捧げた殉教者はすぐに聖人として崇められました。中世では列聖するための審査機関を設けています。教皇シクトス5世は1588年、教皇庁に「礼部聖省」を定めました。

現在は、ローマ教皇庁の「列聖省」で厳しい審査のもと列聖調査が行われます。列聖省に申請の書類が提出され、受理されると「神の僕」と呼ばれ、本格的な調査に入ります。次の段階でその人物が福音的生き方をしたということが認められれば「尊者」という称号が与えられます。聖人になるまでには数十年から数百年かかると言われています。その時、その時代の人気に固執するだけではなく、その人物の残した霊的遺産が時間の流れの中で、どのように成熟していくかも調査していきます。彼らの行いは、時を経て熟成していくからです。この厳しい審査をクリアしますと聖人の前の段階、「福者」となります。福者になるためには、殉教を省いて、ひとつの奇跡が必要になります。それはマジックのようなものではありません。そのしるし(奇跡)が神のみ旨にどのように適っているか、慎重な調査さが必要とされます。聖痕(キリストのような聖なる傷)が体に現れたアシジの聖フランシスコや、聖ピオ神父がいます。聖母マリアの出現にあっては、聖ベルナデッタや聖ルチアなどがいます。聖人たちは与えられた生涯の中で忠実にイエスの教えに従って歩んだ人、証し人です。生涯の中で絶えず祈り、節制し、寛容であり、慈しみであり、憐み深いイエスの似姿として生きていった人です。最終的に聖人と認められたならば言うまでも天の宴の中にいること、その聖人に取次ぎを願うことが公に可能となります。そして聖人の日を定めて教会が祝うことになります。聖フランシスコ・ザビエルは帰天してから70年後の1622年に列聖されました。福者マザー・テレサは6年後の2003年に福者になりました。異例の速さです。聖ヨハネ・パウロ二世は、死後9年後で聖人となっています。アシジの聖フランシスコは生前からヨーロッパに影響を与えた聖者ですから、死後2年後に列聖されました。

諸聖人  フラ・アンジェリコ 15世紀  wikimediaより

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e0/All-Saints.jpg?uselang=ja


わたしたちはキリストになれませんが、キリストのように生きることができます。わたしたちの生活はキリストの教えにほど遠いものかもしれませんが、キリストの生き方に、この世の真理を見出します。聖人の中には、この世に名前すら残らなかった多くの無名の諸聖人もいます。

わたしたちは聖人たちのいさおし、生き方、実りをいただきましょう。彼らは、信じ、希望し、愛し、試練に耐え、自分の救いではなく他者への救いのために生き抜きました。人は人の生き方から学びます。子供は親の後ろ姿を観て育ちます。わたしたちには目に見えない神の業を神が創造された被造物から学ぶことができるのです。今日の日を迎え、諸聖人の取次ぎを切に願いながらイエスの食卓を捧げて参りましょう。

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年間第30主日   2015年10月25日   「聖書と典礼」表紙解説

昨日、今日あっと言う間にこの寒さ!

福音朗読 マルコによる福音書 10章46~52節

イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、  エリコを出て行こうとされたとき、  ティマイの子で、  バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。  ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、  「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」  と言い始めた。  多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、  彼はますます、  「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」  と叫び続けた。  イエスは立ち止まって、  「あの男を呼んで来なさい」と言われた。  人々は盲人を呼んで言った。  「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」  盲人は上着を脱ぎ捨て、  躍(おど)り上がってイエスのところに来た。  イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。  盲人は、  「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。  そこで、イエスは言われた。  「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」  盲人は、すぐ見えるようになり、  なお道を進まれるイエスに従った。

(福音朗読)韓 晸守神父様

説教  場﨑神父様

今日の福音にでてくるエリコは、紀元前8000年前からあったと言われる世界最古の町と言われています。エリコは海抜マイナス250メートのところにあり、スルタンと言う泉が溢れていました。古代からここに人々が住みつきました。旧約聖書の中では「エリコの戦い」が記されています。モーセの後を継いだヨシュアがイスラエルの民を率いて7日かけてエリコの防壁を壊した出来事です(ヨシュア記6章参照)。福音書ではエリコはイエスがよく訪れていたところです。徴税人ザアカイの回心(ルカ19)、そして今日の盲人バルティマイの癒しです。今日の福音書でイエスはエリコの町で群集に囲まれていました。その時、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端で物乞いをしていました。イエスが近くにいるのを知ると、大きな声で「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫びました。人々は彼を叱り、黙らせようとしました。しかし、ますます彼は叫びました。「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」。イエスと盲人の間には群集と弟子たちと言う大きな隔たり、壁がありました。盲人がイエスのところへ行くためにはどうしても導き手が必要です。しかもイエスは群集に阻まれています。イエスは盲人の叫ぶ声に心を留め、立ち止まって言いました。「あの男を呼んで来なさい」と。イエスの言葉を受けてある者が盲人に言いました。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」。それを聞くと盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がりながら、イエスのところへ来ました。イエスは盲人に「何をしてほしいのか」と尋ねました。盲人は「目が見えるようにしてください」と答えました。イエスは言いました。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。すると盲人は見えるようになり、なお進まれるイエスに従っていきました。


バルティマイを癒すイエス 彫像 1861年 ヨハン・ハインリッヒ・ストーバー  wikimediaより

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Christus_Bartimaeus_Johann_Heinrich_Stoever_Erbach_Rheingau.JPG?uselang=ja

盲人バルティマイがより求める信仰に倣いましょう。彼は目が見えなくても、群集の中で、イエスを求めました。ダビデの子、わたしを憐れんでください。彼は、上着を脱ぎ捨て、躍り上がって、イエスのところへ連れて来られました。上着は物乞いをするときの入れ物です。それをも捨てたのです。そして一心に「目が見えるように」とイエスに願いました。彼は癒されただけでなく、イエスに従ったのです。「ダビデの子」と叫んでいる意味は、当時のユダヤ人たちが、待ち望んでいた現世的なメシアでした。今日の福音から物乞いをしている盲人の力強い祈りに圧倒されます。今日の福音はミサの流れに似ています。わたしたちは「主よ、憐みたまえ。主よ、憐みたまえ」と祈ります。そしてイエスのところへ導かれます。彼はすべてを捨てる思いです。彼はイエスのみことばを受け入れたことによって癒されました。そしてイエスに従います。癒されて終わりではなく、イエスに従うことで救いが始まるのです。わたしたちもイエスによって派遣されていきます。「行きましょう。主の平和のうちに」と。第二朗読から分かるようにイエスは憐れみを求める人に、いのちの糧を与える大祭司なのです。


年間第29主日   2015年10月18日  「聖書と典礼」表紙解説

マルコによる福音10・42-45

[その時、イエスは十二人]を呼び寄せて言われた。  「あなたがたも知っているように、  異邦人の間では、  支配者と見なされている人々が民を支配し、  偉い人たちが権力を振るっている。  しかし、あなたがたの間では、そうではない。  あなたがたの中で偉くなりたい者は、  皆に仕える者になり、  いちばん上になりたい者は、  すべての人の僕になりなさい。  人の子は仕えられるためではなく仕えるために、  また、多くの人の身代金として 自分の命を献げるために来たのである。」

 

司式(福音朗読) 森田健児神父様    

説教

 カトリック新聞 「キリストの光 光のキリスト」より  場﨑神父様

           世界が連帯で仕え合うとき

内閣府の人口推移によると日本の総人口は2048年には1億を割ると予測している。少子高齢化の中で、生産者人口、出産者人口も右下がりとなり都市と地方の二極化が進む。そうなると海外からの移民や難民を寛大に受け入れ、同等の権利を与えていくべきではないか。
9月6日、教皇フランシスコは、サン・ピエト広場で民衆に呼び掛けた。シリア難民について、欧州の教区、修道院、教会がそれぞれ一家族を受け入れるように求めた。戦争や飢餓から逃れてきた何万もの亡命希望者の悲劇を目の当たりにし、福音はわれわれに、見捨てられた人々の隣人となり、具体的な希望を与えるよう教会の立場も訴えた。
 国連に参加した安倍首相はシリア難民問題を取り上げ日本は国際社会で連携し、972億円を支援すると言った。ところがすぐに難民問題を自国の人口問題にすり替えてしまった。「人口問題として申し上げれば、移民を受け入れる前に、女性の活動であり、高齢者の活動であり、出生率をあげることである」と。
この発言にはあきれてしまった。国際社会との連携と謳いながら難民のことを棚上げにしたのだ。だからある海外メデアはこの首相の発言から日本は第二次大戦後、移民の受け入れに対して失敗していると批難した。
教会には国境がない。国籍、宗教、言語、人種の壁を取り払って同等の権利を与えるべきである。会社派遣法や外国人就労は国家利益が優先となり、事が足りれば使い捨てにされているのが今の社会である。
弟子たちはイエスの傍にいることで自惚れていた。自分の地位、自分の名誉、自分の利益だけが全てだった。イエスは弟子たちを叱責した。「あなたがたは自分が何を願っているのか、分かっていない」。今の国際情勢を観てもしかりである。紛争地帯の軍事介入、サイバー攻撃、海洋進出において一歩も譲歩しない国家のエゴがある。これならば連帯は皆無に等しい。
わたしたちは誰のために生き、誰のために死ぬのか。「わたしたちはだれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人はいない」(ローマ14・7~9)のである。
9月25日、訪米中の教皇は国連総会でパウロ6世が語った言葉を引用して演説を行った。「・・・私たちの共通起源、歴史、共通の運命を振り返るため、休止し、回想、熟考、そして祈祷することが絶対的に必要な時がきました・・・」(1965年10月4日国連演説にて)。
今この時、世界が試練を共有し、結束する時である。互いに主に仕え合うため、真のいのちに仕えるために。

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年間第28主日クリック!   2015年10月11日   「聖書と典礼クリック!表紙解説

福音朗読 マルコによる福音書 10章17~30節

 [そのとき、]イエスが旅に出ようとされると、  ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。  「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」  イエスは言われた。  「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。  神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。  『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』  という掟をあなたは知っているはずだ。」  すると彼は、  「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。  イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。  「あなたに欠けているものが一つある。  行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。  そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」  その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。  たくさんの財産を持っていたからである。  イエスは弟子たちを見回して言われた。  「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」  弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。  イエスは更に言葉を続けられた。  「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。  金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」  弟子たちはますます驚いて、  「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。  イエスは彼らを見つめて言われた。  「人間にできることではないが、神にはできる。  神は何でもできるからだ。」

(福音朗読)韓 晸守神父様


主任司祭  場﨑洋神父

説教  場﨑神父様   都合により音声はありません

     

第一朗読で知恵の書は語ります。「わたしは祈った。すると悟りが与えられ、知恵の霊が訪れた」。それは霊的知恵です。この知恵は最も気高いものであり、財産も冨も無に等しいものになります。わたしたちは健康や容姿の美しさ、現世的な栄光に囚われていますが、それ以上に、霊的知恵を選ぶ恵みを授かっています。今日の福音の中でひとりの男がイエスのもとに走り寄ってひざまずき質問しました。「善い先生、永遠の生命を受け継ぐためには、何をすればよいのでしょうか」。イエスはとって善い先生は御父だけです。イエスはその男にモーセの十戒を語りました。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え・・・・・」と。すると彼は「そのようなことは子供の時から守ってきました」と自信ありげに答えました。しかしイエスは彼を見つめ慈しみながら言いました。「あなたに欠けているものがある。行って持っている物を売り払い、貧しい人に施しなさい。そうすれば天に宝を積むことになる。それからわたしに従いなさい」。彼はがっかりしてそこを立ち去りました。財産をたくさん持っていたからです。イエスは弟子たちに皮肉交じりのジョークを言いました。「金持ちが神の国に入るのは何と難しいことか・・・・金持ちが神の国に入るより、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」。ここでわたしたちが所有する財産について考えてみましょう。この世のものはすべて神が創造したものです。これを被造物と言います。わたしが所有しているものは何でしょうか。土地ですか。家ですか。会社ですか。家族ですか。車ですか。お金ですか。わたしの体は誰のものですか。確かに自分の体はわたしのものでしょう。しかし、どこにわたしのものだという証拠、確信があるのでしょうか。自分の体も知っているようで実は知らないのです。自分の胃を見たことがありますか。心臓を見たことがありますか。体は自動的に動いてその機能を果てしくれています。ですから、この世のものはすべて神のものなのです。この世のすべてのものは神によって創造されたものなのです。今日の答唱詩編でも神が創造したものを信仰者は賛美し、感謝しています。大自然も、モノも、人間も、すべて神様からの授かりもだということを忘れてはなりません。神から授かったすべてのモノは互いに分かち合いながら生かして合っているのです。すべてのものは神が祝福してわたしたちに与えてくださったものです。ヘブライ人の手紙の後半にこう記されています「神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の前には裸であり、さらけ出されているのです」。このようにわたしたちは、霊的知恵を育んでいくいのちが与えられています。神が愛であるように、その似姿として創造されていることを忘れてはなりません。

人間の歴史を振り返ると、人間が自然を破壊し、公害をつくり、多くの環境問題を引き起こしました。世界の貧困、戦争、紛争、難民・・・・・・これらすべてのものは人間のエゴの結果です。何もかも自分のもの、自分の国として、モノを獲得し、人を支配することにだけ心が奪われていました。今日の福音からわたしたちは信仰の視点に立って、地球規模における和解と一致に心を留めていきましょう。すべて創られてものは、神からお借りしているものであることです。家も、土地も、服も、能力も、体も、すべて神からお借りしている賜物なのです。

キリストと金持ちの青年 ハインリヒ・ホフマン 1889年 wikipediaより

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