主任司祭  場﨑洋神父

年間第25主日  2016年9月18日  「聖書と典礼」表紙解説」

ルカによる福音 16章10~13節

[その時、イエスは弟子たちに言われた。]ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない 一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。

説教

熊本県水俣市 水俣病資料館にある、水俣メモリアルの一部「祈りの噴水」下記より引用

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Minamata_memorial_(1).jpg?uselang=ja

年間第24主日  2016年9月11日  「聖書と典礼」表紙解説

福音朗読 ルカによる福音書 15章1~32節

[そのとき、]徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、 「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、 見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、 『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、 悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、
その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、 『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、 神の天使たちの間に喜びがある。」

福音朗読と説教

ジェームス・ティソ(1836年~1902) 善き牧者 ブルックリンミュージアム 下記より

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Brooklyn_Museum_-_The_Good_Shepherd_(Le_bon_pasteur)_-_James_Tissot_-_overall.jpg?uselang=ja

 

ミサ後、恒例のバザー。最高の好天に恵まれ大盛況でした。

年間第23主日  2016年9月4日   「聖書と典礼」表紙解説

福音朗読 ルカによる福音書 14章25~33節

[そのとき、]大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、 父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、 造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、 見ていた人々は皆あざけって、 『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、 二万の兵を率いて進軍して来る敵を、 自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、 敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、 和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

札幌教区100周年記念式典(於藤学園講堂)のため当教会でのミサはございません。

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年間第22主日  2016年8月28日  「聖書と典礼」表紙解説

福音朗読 ルカによる福音書 14章1、7~14節

安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、 人々はイエスの様子をうかがっていた。イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、 彼らにたとえを話された。 「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、 『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。 招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、 『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」また、イエスは招いてくれた人にも言われた。 「昼食や夕食の会を催すときには、 友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。 宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、 足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。 正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

 

説教

ピーター・ブリューゲル 農民の婚宴 1568年 以下より引用

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Pieter_Bruegel_the_Elder_-_Peasant_Wedding_-_Google_Art_Project.jpg

年間第21主日  2016年8月21日  「聖書と典礼」表紙解説

福音朗読 ルカによる福音書 13章22~30節

[そのとき、]イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。 「狭い戸口から入るように努めなさい。 言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、 『御主人様、開けてください』と言っても、 『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。そのとき、あなたがたは、 『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、 『お前たちがどこの者か知らない。 不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブや すべての預言者たちが神の国に入っているのに、 自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」

 

説教

イギリス リングウッド 聖ペテロパウロ教会正面の"slimmer'door" 以下を参照

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Slimmer%27s_door,_Ringwood_Church_-_geograph.org.uk_-_174036.jpg

聖母の被昇天  2016年8月15日  「聖書と典礼」表紙解説

福音朗読 ルカによる福音書 1章39~56節

そのころ、マリアは出かけて、 急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。 「あなたは女の中で祝福された方です。
 胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは
どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、 胎内の子は喜んでおどりました。 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」そこで、マリアは言った。

 「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。 身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。 今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、 力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、 主を畏れる者に及びます。 主はその腕で力を振るい、 思い上がる者を打ち散らし、 権力ある者をその座から引き降ろし、 身分の低い者を高く上げ、 飢えた人を良い物で満たし、 富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、 憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしに。」

マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、 自分の家に帰った。 

説教

     聖母の被昇天 パルマ・イル・ヴェッキオ 下記より引用

https://en.wikipedia.org/wiki/File:Palma_il_Vecchio_-_Assumption_of_Mary_-_WGA16930.jpg

年間第20主日  2016年8月14日  「聖書と典礼」表紙解説

福音朗読 ルカによる福音書 12章49~53節

[そのとき、イエスは弟子たちに言われた。]12・49わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。50かし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。51あなたがたはわたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。52今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。53父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、
対立して分かれる。」

説教  文書はお休みです

ミケランジェロによるシスティーナ礼拝堂の天井画のエレミヤ 下記より引用

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Michelangelo_Buonarroti_027.jpg?uselang=ja

年間第19主日  2016年8月7日  「聖書と典礼」表紙解説

福音朗読 ルカによる福音書 12

そのとき、イエスは弟子たちに言われた。35「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。36主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。37主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。38主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。39このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。40あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

説教  文書はお休みです

コルコバードの丘のキリスト像とリオデジャネイロ   以下より引用

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Christ_on_Corcovado_mountain.JPG?uselang=ja

年間第18主日  2016年7月31日  「聖書と典礼」表紙解説

福音朗読 ルカによる福音書 121321節 

[その時、]群衆の一人が言った。 「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」  イエスはその人に言われた。 「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」  そして、一同に言われた。 「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。 有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることも できないからである。」 それから、イエスはたとえを話された。 「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、 『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』 と思い巡らしたが、やがて言った。 『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、 そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。 「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。 ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』 しかし神は、 『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。 お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

説教  文書はお休みです

説教  文書はお休みです

「空の空、すべては空なり Vanitas vanitatum, et omnia vanitas」 下記参照

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:A_Vanitas)_by_Edward_Collier.jpg?uselang=ja

年間第17主日   2016年7月24日  「聖書と典礼」表紙解説

司式  萱場 基 神父様

 福音朗読 ルカによる福音書 11113 

イエスはある所で祈っておられた。 祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、 「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、 わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。 そこで、イエスは言われた。 「祈るときには、こう言いなさい。 『父よ、御名が崇められますように。 御国が来ますように。 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。 わたしたちの罪を赦してください、 わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。 わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
また、弟子たちに言われた。 「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、 真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。 『友よ、パンを三つ貸してください。 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、 何も出すものがないのです。』 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。 『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、 子供たちはわたしのそばで寝ています。 起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』 しかし、言っておく。 その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、 しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。 そこで、わたしは言っておく。 求めなさい。そうすれば、与えられる。 探しなさい。そうすれば、見つかる 。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、 門をたたく者には開かれる。 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、 魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、 自分の子供には良い物を与えることを知っている。 まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

年間第16主日  2016年7月17日   「聖書と典礼」表紙解説

新司祭を迎えて 司式 パウロ 佐藤謙一 神父様

福音朗読 ルカによる福音書 103842 

[そのとき、]イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

イエスの接待に立ち働くマルタと説教に聴き入るマリア(画:フェルメール )  wikipediaより引用

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Jan_Vermeer_(attr.)_-_Christ_in_the_House_of_Martha_and_Mary_-_National_Gallery_of_Scotland.jpg?uselang=ja

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ミサ後、新司祭パウロ 佐藤謙一 神父様の歓迎祝賀会が明るく楽しく催されました

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年間第15主日  2016年7月10日  「聖書と典礼」表紙解説

 福音朗読 ルカによる福音書 102537

 [そのとき、]ある律法の専門家が立ち上がり、 イエスを試そうとして言った。 「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」 イエスが、「律法には何と書いてあるか。
あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、 彼は答えた。 「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、 あなたの神である主を愛しなさい、 また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」 イエスは言われた。 「正しい答えだ。それを実行しなさい。 そうすれば命が得られる。」 しかし、彼は自分を正当化しようとして、 「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。 イエスはお答えになった。 「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、
追いはぎに襲われた。 追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、 半殺しにしたまま立ち去った。 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、 その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
同じように、レビ人もその場所にやって来たが、 その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、 その人を見て憐れに思い、 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、 宿屋に連れて行って介抱した。 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、 宿屋の主人に渡して言った。 『この人を介抱してください。 費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』 さて、あなたはこの三人の中で、
だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」 律法の専門家は言った。 「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。 「行って、あなたも同じようにしなさい。」

説教 文書はお休みです。

善きサマリア人 レンブラント 1633年 下記より引用

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Rembrandt_Harmensz._van_Rijn_033.jpg

年間第14主日  2016年7月3日   「聖書と典礼」表紙解説

 福音朗読 ルカによる福音書 101121720

 [そのとき、]主はほかに七十二人を任命し、 御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。 そして、彼らに言われた。 「収穫は多いが、働き手が少ない。 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。 行きなさい。 わたしはあなたがたを遣わす。 それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。 財布も袋も履物も持って行くな。 途中でだれにも挨拶をするなどこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。 平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまるもし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。 その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。 働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。 どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、 その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい

説教 今回、文書はお休みです。

年間第13主日  2016年6月26日  「聖書と典礼」表紙解説

福音朗読 ルカによる福音書 9章51~62節

イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。そして、先に使いの者を出された。 彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。

しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。 弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、 「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、 彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。そして、一行は別の村に行った。 一行が道を進んで行くと、イエスに対して、 「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。イエスは言われた。 「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、
その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。 「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」また、別の人も言った。 「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」イエスはその人に、 「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、 神の国にふさわしくない」と言われた。

説教

 第一朗読 

旧約における代表的な預言者エリアが後継者エリシャにその使命を託します。12軛の牛を引いていたエリシャにエリアは外套をまとわせるのです。こうしてエリシャを召し出し、エリシャは「母親に別れの挨拶をしてから従います」と言いました。まとうということはキリストを着ると同じように、その使命に与ることです。

 

第二朗読 

 ガラティア人への手紙の中でパウロはまことの自由について述べています。自由とは何でしょうか。人間は自由であれば何でもできる、本当の幸せに預かれると思いこんでしまいます。国家権力に支配される者もいれば、社会的規範で生きる者もいます。社会主義であっても共産主義であっても独裁主義はいつも残っています。だからと言っても自由になれば何もかも幸せになれるのでしょうか。知らない場所に住むと人間は関わりがないと生きていくことは容易なことではありません。元日本兵の小野田寛郎さんや横井正一さんのように強靱な精神力がない限りジャングルで何十年も生き延びることは難しいです。自由とは何でしょうか。手紙では自由の反対は奴隷です。まことの自由は霊的に導かれている魂のことを指します。それは福音に生きる自由です。今日の手紙ではもともと割礼が問題になっていました。割礼を慣習としていたユダヤ人キリスト者が異邦人キリスト者に対して割礼を義務化しようとしていたからです。それでパウロは割礼は重要ではないということを諭したのです。わたしたちは肉(モノ)をもっていますから、体のことはもちろんのこと、この世の習慣の中にあるモノ、財産、名誉、地位、未練、憎悪に束縛されがちになるのです。

 

Christ,gardener ティツイアーノ・ヴェチェッリオ 1553年 プラド美術館 キャンパス、油絵 下記より

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Christ,_a_gardener.jpg?uselang=ja

福音書 

今日のルカ福音書はイエスに従うことの心構えを教えています。イエスは天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められました。途中イエスと共に異邦人の地サマリアに入った弟子たちはサマリア人を非難し排除しようとします。弟子は「天から火を降らせて滅ぼしましょうか」と排他的な態度をとるのです。イエスは彼らを戒めました。 他の人たちもイエスに従おうと決心をしますが、なんらかの条件を出しています。「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」。イエスは答えます。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが人の子には枕する所もない」。 イエスは言います。「わたしに従いなさい」。 

ある者は 父の葬りが終わったらとか、家族のいとまごい(別れの挨拶)をさせてくださいとかと、イエスに従うことを後回しにしています。 

 イエスは「鋤に手を掛けて後ろを振り向く者は私に相応しくない」とおっしゃるのです。これは弟子に対する、福音的勧告です。わたしたちには家族があり、その中にも神様がわたしたちを召し出されています。 

 人生をやり直すことは今からでもできます。それは過去に戻るのではありません。この人生は失敗だった、生まれ変わってやり直したいという後悔じみた愚痴を言うのではなく、今、この時からイエスに従うという強い心構えです。 

 今は余りにも情報が多い時代です。情報もモノのひとつです。情報が氾濫しているなかで何が本物なのか情報に翻弄されているのが私たちです。 

 リスクのない、都合のいい選択はありません。何かしら重荷を負うことを覚悟して選択しなければなりません。選ぶ力とは謙虚になる能力とも言われます。それは御心を汲み取る力をもっているということです。 

若いときには何でも出来ると過剰な自信に溢れます。 

しかし年を召してくると、モノを所有することができても、それを捨てることがなかなかできません。しまいに神からお預かりしている自分の体も思い通りに動かなくなるものです。捨てることによって、自分の魂にイエスをお迎えする力を養うのです。鋤に手を掛けるとは強い決心、強い信念、強い信仰です。その先には何の障害も苦しみも無いという訳ではないのです。実にイエスがそれを示されたからです。御父のみ旨を果たすことによって受難を甘んじてお受けになられたのです。それは御父のみ旨を実現するため、神の国を実現するためだったからです。 

 答唱詩編(詩編16)は主の恵みを受けて、喜びに生きる人を歌っています。 

 アレルヤ唱はサムエルの召し出しの始めの祈りです。神の声に耳を傾ける祈りの姿勢です。 

「主よ、話してください、しもべは聞きます。あなたは永遠のいのちのことばをもっておれらる」(サムエル上39、ヨハネ6・68)。この祈りをいつも大切にしていきましょう。 今日の福音から次のことを黙想してみましょう。 

 1、変えられない自分をまず認めます。 

 2、変えられるけれどもいつも引き延ばしている自分がいることを確認します。 

 3、なぜ変えられないのか問い続けます。 

 4、人生の優先事項をならべて出来るところから行っていきます。 

  挨拶、祈り、聖書朗読、小さいことでもいいのです。限りなく主の声に従おうとする心構えです。 

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ミサ後「みことばを伝える 実技を兼ねて」 聖書朗読講習会(典礼委員会主催)がありました。講師は場﨑神父様。短時間でしたが心構えを中心に要点をしっかり楽しく教えていただきました

年間第12主日  2016年6月19日  「聖書と典礼」表紙解説

本日は集会祭儀です。音声はありません。

説教

主任司祭からの説教メッセージを代読いたします。 

イエス様は弟子たちに言われました。「わたしについて来たい者は、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」と。わたしたちにとって十字架とは何でしょうか。 

ある統計学者が人生を80年として、人間はどのように過ごしているかを分析しました。まず25年間は寝て過ごし、25年間はおしゃべりして過ごしています。また他の21年間は勉強して学んでいます。そして2年間はお手洗いのために使う時間で、残った7年間はケンカという「もめ事」だそうです。これには驚きました。人生の3分の1近くが寝て過ごしていることです。要するに神の御手の中にあるということです。 

 イエス様が十字架を背負うということは、この世の闇、この世の人生を素直に受け入れることにあります。イエス様は今日の福音書でおのおの与えられた十字架を背負ってイエスに従っていくことをお教えになっているのです。 

 

十字架を運ぶキリスト エル・グレコ 1580年 メトロポリタン美術館蔵 下記より引用 

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Christ_Carrying_the_Cross_1580.jpg

自分の十字架を素直に受け止めることのできる人、あるいは他者と比較して自分の十字架の重さ、軽さを量ってしまう人もいます。自分の十字架で精一杯な人もいれば、他者の十字架を共に背負って喜びとしている人もいます。イエス様はまた別な言い方でもお教えになられます。それは「わたしのくびきを負いなさい」というたとえです。イエスは「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いから」と言います。そう考えるとわたしたちにとって苦しみとは何でしょう。わたしたちにとって荷物とは何でしょう。わたしたちにとって十字架を背負うということはどういう意味をもっているのでしょうか。十字架はひとそれぞれ違います。今まさにどのようにして自分の十字架を背負っているかという忠実さ、熱心さが問われているのです。悲観的か、楽観的か、絶えず祈り求めているのか、どのように十字架の意味を把握しているのか、自分だけで背負っているのか、それとも自分以外の人たちの助け、支えによって背負っているのか・・・、いろいろな角度から黙想することができます。 

もう一度、自分の十字架、他者の十字架の間に働いているイエス、現存しておられるイエスの十字架を黙想して参りましょう。人生をどう生きるか、善い行いをして人を喜ばせるか、悪いことを人を悲しませるのでしょうか。 

人生が感謝と賛美であるならばなんと素晴らしいことでしょうか。 

そうであるように祈ります。そうでありますように願います。 

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

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年間第11主日  2016年6月12日  「聖書と典礼」表紙解説

 福音朗読 ルカによる福音書 73683 

[そのとき、]あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。 この町に一人の罪深い女がいた。 イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、 後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。 イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。 そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。 イエスはお話しになった。 「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。 二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。 二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」 シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。 イエスは、「そのとおりだ」と言われた。 そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。
「この人を見ないか。 わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが
この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。 あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。 あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。 だから、言っておく。 この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。 赦されることの少ない者は、愛することも少ない。 そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。 同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。 イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。

説教

今日のみことばは愛されること赦されることの大切さが示されています。「赦されることの少ない者は、愛することも少ない」ということです。イエスはシモン・ぺトロに言いました。「ある金貸しから二人の人が金を借りていました。一人は500デナリオン、もう一人は50デナリオンでした。」額の大きさは1デナリオンが日当の額です。時給800円ですと8時間働いて、6400円となります。そうなると二人の額には大きな開きがあります。イエスは続けて言われました。「二人には返す金がなかったので金貸しは帳消しにしました。それでどちらの人が多く金貸しを愛するだろうか」と尋ねられたのです。答えは一目瞭然です。シモンは「帳消しにしてもらった額が多い方だと思います」と答えました。イエスは「そのとおりだ」と言われました。この教えはひとつの法則として成り立ちます。まさにそうだということは日常の人間社会で理解できます。どうしてこれだけの大きな額を赦してくださるのか、帳消しにしてくださるのか、予想もしない喜びに遭遇したことになります。 

左 預言者ナタンのイコン18世紀ロシア正教会キジ島にある顕栄聖堂イコノスタシスより)右 ビクトール・ユーゴ レオン・ボナ画(1879年)共にwikipediaより引用

第一朗読はサムエル記です。ダビデが罪を犯し、それを諭すために預言者ナタンが遣わさた箇所です。それに対してダビデは何の弁解もせずに「わたしは罪を犯しました」と告白しました。この告白が偉大なものとして伝えられているのが、詩編51のダビデの悔い改めの祈りです。 ビクトール・ユーゴの「レ・ミザラブル」(ああ無情)があります。一切れのパンを盗んだことで19年も牢獄生活を強いられたのがジャン・バルジャンでした。釈放されて罪を犯したのが教会の聖具を盗んだことです。彼は憲兵に捕まってミリエル司教のところへ差し出されます。しかし司教は「それはわたしが与えたものです」と答えたのです。お陰で彼は解放されました。この罪の赦しが彼を大きな回心へと導くのです。 諺に「熱しやすく冷めやすい」があります。人間は絶えず弱さを担っています。たくさん赦されても、その恵みに気づかないことがどれほど多いことでしょうか。神に愛され赦されている恵みを日常の生活のなかで感じ取っていのちの賜物として歩んでいきましょう。

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午後1時から「北海道宣教の 礎」と題して 場﨑  神父様による 札幌教区100周年講演会が開催されました。聖堂は道内各地からの信者聴講者で超満員、本当に充実一杯の2時間30分でした。 (主催 北26条教会運営委員会    

年間第10主日  2016年6月5日  「聖書と典礼」表紙解説

 福音朗読 ルカによる福音書 71117

 [そのとき、]イエスはナインという町に行かれた。 弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。
イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。 その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。 主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。 そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。 イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。 すると、死人は起き上がってものを言い始めた。 イエスは息子をその母親にお返しになった。 人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。 イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった 。

説教

第一朗読と福音書は、甦りの箇所が朗読されています。列王記ではやもめの息子が病気で死んでしまいました。エリアが主に願うことによってその子どもは生き返ります。イエスはナインの地で息子の死を悼んでいる母親と出合います。そのとき、息子の棺が運び出されるところでした。イエスの心の動きは母親を見て憐れまれます。見て、近づいて、手で棺に触れ、言われました。「若者よ、あなたに言う。起きなさい」。すると、死人は起き上がってものを言い始めました。イエスはその息子を母親にお返しになられました。人々は皆恐れを抱いて神を賛美しました。わたしたちは日々、不思議な出来事、奇跡を待ち望んでいますが、実は奇跡は日々起きています。今まさにわたしたちが生きていることこそ、それが奇跡なのです。 甦りの奇跡は今日の箇所の他に、ラザロの復活、会堂長ヤイロの娘の蘇りなどがあります。わたしたちの生活にも病気によって余命を宣告されたりすることがありますしかし、予定は未定ですから、いつ神様から呼ばれるかは分かりません。病気になって全快をしたときの喜びは本当に嬉しいものです。しかし人間は必ず、息を引き取る時を迎えます。今日の甦りの奇跡は奇跡ですが、いつかはこの息子たちも死を迎えることになります。大切なのは死者が蘇えったという奇跡そのものに焦点を合わせるのではなく、神は偉大で、神に出来ないことは何ひとつないという信仰に心を向けることなのです。わたしたちの弱さはいつも奇跡が起こるという「しるしだけに執着してしまいます。奇跡が起こらないと神を信じないという薄い信仰です。日々、働きかけている偉大な神の業が奇跡であり、主がいつも共にいることが信仰の恵みです。感謝と賛美のうちに人生を謳歌することです。答唱詩編は「死」に対するいのちである神の勝利を歌います。「神よ、あなたはわたしを救い、死の力が勝ち誇るのを許されない。神よ、あなたは死の国からわたしを引き上げ、危ういいのちを助けてくださった」(詩編30211)。 わたしたちは死の中に神を見いだしません。神はいのちの神だからです。 第二朗読、ガラティアの手紙のなかでパウロはイエス・キリストの啓示によって福音がもたらされたことを告げています。パウロ自身、母の胎内にあるときから神によって選ばれ、召され、御心のままに生かされていることを誇りにしています。 すべてにおいてわたしたちは神によって生まれ、神によって生かされ、神によって召されていくものです。わたしたちの中に絶えず真理が働いています。わたしたちは確信するのです。与えられた信仰こそ恵みです。教会は死にゆく人たちに対して、悲しむ人たちに対して「泣くな」というメッセージを語ります。それは単に死者が甦るということでもなく、また天国で再会できるという単純なものではありません。教会は死者と生きている者とを分断する「死」という出来事を越えて、死んだ者と生きている者も共に生きる世界を語っています。つまり私たちの最大の恐れは死であり、この問題は「離別」「別れ」という悲劇があるからです。ナインのこの母親の悲劇は分断された息子と自分との関係、絆です。これがわたしたちにとっての「死のとげ」です。パウロは「死のとげ」が抜き取られたとき、そこにはもはや死はなく、死は悲劇ではなくなると言います。パウロはイエスの復活を称賛してこのように宣言します。 「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(1コリント155455節)。  

ナインのやもめの息子を生き返らせるイエス ピエール・ヴィヨン(1776~1831年) フランス ルマン テッセ美術館蔵 下記より

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Pierre_Bouillon_-_Jesus_Resurrecting_the_Son_of_the_Widow_of_Naim.jpg?uselang=ja

 今日の福音の物語は最終的に「イエスは息子をその母にお返しになった」、という言葉で結ばれていることに気づきます。要するに一旦引き裂かれた関係、絆が回復されるということです。この物語を読み直すと、母親もまた周囲の人たちも、「癒してください」とか「生き返らせてください」という言葉を一言も発していないのです。ルカ福音書の「山上の垂訓」があります。「今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」(ルカ6:21)と語られました。イエスは今泣いている人に一方的に近づき「泣くな」と語られるのです。 今日、登場してきた息子をなくしたやもめは、イエスによって、神との関係性が取り戻されていくのです。わたしたちも親しい人との別れにおいて関係性が分断されてしまいますが、それと同時に更に神と関係を深めていくことが可能になります。イエスの奇跡は御父の偉大さを指し示すものです。わたしたちが神に立ち返って、神との関係を取り戻すことにあるのです。

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