主任司祭 場﨑洋神父

説教

キリストの聖体  2016年5月29日  「聖書と典礼」表紙解説

福音朗読 ルカによる福音書 911b17

[その時、イエスは群衆に]神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。 日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。 「群衆を解散させてください。 そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。 わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」 しかし、イエスは言われた。 「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。 「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、 このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」 というのは、男が五千人ほどいたからである。 イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。 弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。 すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、 天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、 裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。 すべての人が食べて満腹した。 そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。

説教

今日の第一朗読、創世記と答唱詩編(110編)にメルキセデクという祭司が登場してきます。旧約ではこの2カ所しかでてきません。しかも系図はありません。奇跡的な存在と言われます。この祭司メルキゼデクがパンとぶどう酒をもってアブラハムを祝福するのです。そして新約聖書の中ではヘブライ人への手紙のなかで7回しかでてきません。ここでは永遠の祭司キリストこそ、すでに計画されたメデキセデクであると語っています。

『アブラハムとメルキゼデクの会見』 ディルク・ボウツ 1464-1467    wikipediaより引用 

 第二朗読のコリント人への手紙、最後の晩餐の記事ですが、これは4福音書の記述よりも古いものです。紀元52年頃です。あえて古いものをここで示します。 5000人の給食の記事は4人の福音記者全員が書き記しています。初代教会ではパンや魚はキリスト教徒でのしるしでした。それほどまでにこの出来事は重要だったのです。マルコではイエスが飼い主のいない羊のような群衆のあり様を見て、憐れまれました。ルカでは神の国について語り、治療に必要な人々を癒されたことから5000人の給食へと移行していきます。またイエスは弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言っています。しかし弟子たち「パン5つと魚2匹しかありません」と絶望的です。最終的にイエスに委ねられたのはパン5つと魚2匹です。実は4福音書のこの箇所では何一つ、パンと魚を「増やした」とは書かれていないのです。勿論、福音記者もそのことは知っています。大切なのはイエスが行った行為です。イエスはパンと魚を「取り」「賛美し」「裂いて」「渡した」(与えた)ということです。私たちは日常生活で食べ物を頂くときに、「取って」、「賛美して」(感謝して)、「裂いて」(分ける、料理する)、「与える」という動作は大切ものになります。イエスの祈りに中にある「渡した」という動詞と、イエスが弟子たちに「あなた方が彼らに食べ物を与えなさい」と言った「与える」とは同じ動詞です。弟子たちの与え方とイエスの与え方が違っています。

ティントレット パンと魚の奇跡 1545 - 1550年 メトロポリタン美術館 下記より引用

http://free-artworks.gatag.net/2014/02/02/020000.html

マザー・テレサは言います。「数には興味がありません。大切なのは人間です。私は誰にも頼ろうとしません。私が頼りにしているのは唯一、イエスだけなのです」。 大切なのは数なのではなく、神に信頼し、忠実であるということです。弟子たちは5000人に対してパン5つと魚2匹とで挑もうとしています。しかし、イエスは5000人という数に対して、御父への全き信頼のうちに物事をはじめています。ですからキリストの聖なる体はわたしたちに御父への忠実さを教えています。それは人類の罪、闇(問題、困難)に対して、十字架上で捧げられたイエスの体です。イエスご自身が自ら進んで十字架に向かい(取って、賛美し)、死んでくださったことです(裂かれる、与えられる)。 

 もう一度日常におけるわたしたちの動作、言葉の中でイエスの御体を黙想していきたいです。

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三位一体の主日  2016年5月22日  「聖書と典礼」表紙解説

福音朗読 ヨハネによる福音書 16章12~15節

[その時、イエスは弟子たちに言われた]「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、 今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

説教

 

第一朗読で箴言は知恵を語ります。知恵は擬人化されて神をついて語っています。主はわたしたちを造られ、いにしえから先だってわたしたちを導きます。知恵は神によって生み出されました。

 今日の詩編8の作者は天にある月と星を眺めて思います。決して星や月を崇めているのではなく、月や星を通して全知全能の方を思い慕うのです。そのように思い続ける人間とはいったい何か、自分とは何者かと問い続けて止みません。神は人間を神に仕えるものとして造り、栄えと誉れの冠を授けて下さる方です。わたしたちは信仰を宣言して偉大なる方に向かって祈ります。 

 第二朗読、ローマへの手紙は、神とわたしたちの間にキリストが遣わされて平和と栄光、希望をもたらしていることを伝えます。さらに希望のなかにあっても苦難をも誇りにしています。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むという信仰です。 

ヨハネ福音書では御父は御子イエスをとおして聖霊を送ることを語ります。イエスによって示されたいつくしみと憐れみです。 

今日は三位一体の主日です。父と子と聖霊の交わりです。三位一体という言葉はアウグスチヌスによって確立されました。それぞれの三つの位格(ペルソナ=父と子と聖霊)は、それぞれ別々でありながら一つであるということです。聖霊は御父と御子の交わりです。御子は御父よって聖霊を注ぎます。御父は御子を通して聖霊を送ります。神学的に語るとわたしたち日常からかけ離れたものになってしまいます。しかし、三位一体は日々の生活の中にいつもあるものなのです。父が子を生み、父と子と、交わりのうちに聖霊が注がれるのです。 

 ある神学者は、我、汝、我々 という関係で表現しました。一人称の「わたし」は二人称の「あなた」がいて、はじめて人を愛することができます。そして、そうすることによって三人称「我々=わたしたち」という形で広がっていきます。二人以上であれば、すべてわたしたちなのです。13億人、45億人、宇宙すべてのものを含めて「わたしたち」という三人称なのです。父と子と聖霊とはコミュニケーションです。交わりです。御父がみ旨を行われることが聖霊の賜物です。 

 

三位一体、ルカ・ロセッティダオルタ、1739年(イヴレアの聖ガウデンツィオ教会)フレスコ画。下記より引用

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Luca_Rossetti_Trinit%C3%A0_Chiesa_San_Gaudenzio_Ivrea.jpg?uselang=ja

福島智(ふくしまさとし)さんという方がいます。9歳で失明し、18歳で聴覚を失いました。彼にとって今までになかった意識のない世界に引きずりこまれます。光りを失い、音を失った人を「盲ろう者」といいます。彼にとって交わりがもっともっと重要なものになったと言います。彼は今、全盲ろう者として世界初の大学教授としてコミュニケーションの研究をしています。彼は著書のなかでこう語っています。 

盲ろう者になり、自由に言葉を交わすことができなくなって、コミュニケーションが水や空気や食べ物のように、生きるうえで絶対に必要なものだと私は痛感しました。コミュニケーションは心の酸素と私は言っているのですが、コミュニケーションがないと人は窒息してしまうのです。それは水の中に顔を突っ込まれて息ができなくなって、拷問を受けているようです。そんな苦境に立たされた時、私に最初に空気を提供してくれたのが(ダイアローグ)対話でした。母が最初に指文字で呼びかけた「さ と し わ か る か」という言葉や、友達の「よ う や く も ど っ て き た か」というひと言が私の力になっていきました。福島智さんの詩を紹介します。

 

 指先の宇宙 

ぼくが光と音を失ったとき、 

そこには言葉がなかった。 

そして世界がなかった。 

ぼくは闇と静寂の中でただ一人、 

言葉をなくして座っていた。 

ぼくの指にきみの指が触れたとき、 

そこに言葉が生まれた。 

言葉は光を放ちメロディを呼び戻した。 

ぼくが指先を通してきみとコミュニケートするとき、 

そこに新たな宇宙が生まれ、 

ぼくは再び世界を発見した。 

コミュニケーションはぼくの命 

ぼくの命はいつも言葉とともにある。 

指先の宇宙で紡ぎ出された言葉と共に。

 

   (「ぼくの命は 言葉とともにある」 著 福島智)

 

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聖霊降臨の主日  2016年5月15日  「聖書と典礼」表紙解説

福音朗読 ヨハネによる福音書 14章15~16、23b~26節

[その時、イエスは弟子たちに言われた。]「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。 父は別の弁護者を遣わして、 永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。イエスはこう答えて言われた。 「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、 父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、
わたしをお遣わしになった父のものである。わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」

 

説教

 今日は「教会の誕生」のお祝いです。復活祭の次に大切なお祝い日でもあります。 

イエスのみことば、イエスの死と復活の意味が、弟子たちのなかで成熟し、神の働きかけ、聖霊を受け入れることのできた教会誕生のお祝い日です。 

聖書の中で霊についていろいろな形で表現されています。息(ルアハ)、風(プネウマ)、流れる水、清める水、燃える炎、温める熱などです。聖書のなかでは肉の支配ではなく霊の支配下にあるようにと教えています。肉の支配下にあるものは神の喜びではありません。ただ間違って理解しないようにしましょう。肉となると、骨格、肉、あるいは欲望を想像しがちですが、パウロの手紙の肉とは、「精神に対する物質的な身体」と言った方が正しいです。わたしたちは身体をもっていますが、身体が精神を支配するのか、精神が身体を支配するかという二元論的なものではなく、身体と精神がともにあるということです。そこにいつも宿るのが、働くのが神の霊なのです。人間の弱さ、はかなさ、虚しさは、自分の力で埋め合わせることはできません。イエスは最後の晩餐で弟子たち語ったことはわたしたちが心から御父の霊を信じることに向かわせることにありました。「わたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネ1426 

今日の答唱詩編(詩編104)の中で、聖霊を、いぶき、神の霊で歌っています。それはまことで、偉大で、英知で、新しくし、永遠で、栄えであり、神と私の喜びであるのです。神とわたしの間に働く霊、わたしと隣人との間に働く霊、わたしたちすべての人々の間に働く霊、この自然界に働く霊、宇宙に働く霊、すべてです。第二の朗読(ローマの手紙8)では霊という言葉が13回もでてきます。霊の現れを「喜び」「義」「命」「神の子」「相続人」「栄光」として示し、霊はわたしたちの内に宿っているものであると語ります。それは留まるだけでなく「導く霊」です。わたしたちが祈るとき、隣人とわたし、神とわたしの間に働く霊は同じ霊です。 

自分の意志があたかも神の霊であるかのようになってはいけません。霊は働きかけるのです。人が人を支配するものではありません。 

今、「聖霊の続唱」が歌われました。「続唱」は9世紀から15世紀に歌われた中世の教会典礼です。ラテン語で「セクエンティア」と言って「続いて」という意味になります。アレルヤや詠唱に続くものとして歌われていましたが、15世紀には5000曲にもなってしまいました。それで16世紀のトリエント公会議で廃止されましたが、第二バチカン公会議で5つに絞り込みました。残ったものが主の復活に歌う「復活の続唱」と教会の誕生の日に歌う「聖霊の続唱」です。その他3曲(悲しみの聖母、聖体、葬儀)は任意となっています。今歌われた「聖霊の続唱」はとても素晴らしい祈りです。聖霊は教会の誕生を祝います。続唱の歌詞は光、熱が素材となっています。日常でいえば太陽だと思ってください。太陽の光は一方的にわたしたちのところへ注がれています。月の光も太陽です。わたしたちもみんな光を受けていますから見えるのです。太陽の光がなければ、地球は死んだ惑星になります。わたしたちは太陽の光を浴びて感謝するように神の愛を意識します。 

ペンテコスト エル・グレコ 1597年 マドリード プラド美術館 下記より引用

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Pentecost%C3%A9s_(El_Greco,_1597).jpg 

 アメリカの聾学校で教師生こんなふうにして子供たちに神様のことを教えます。花壇に咲いているチューリップのところへ子供たちを連れていきます。そして先生は手話で教えます。

「チューリップは、光、太陽に向かって神様に感謝、神様に賛美と声をあげて咲いているのです」と教えるのです。子供たちはそれを信じて、木々や花々といっしょに神を称えるのです。太陽の光は一方的に注がれています。あなたを愛するという輝きです。わたしたちは光に対してお礼を言ったことがあるでしょうか。でもどんなにお礼を尽くしても、お礼に値することはできません。聖霊は絶えず注がれているのです。わたしたちに働きかけているのです。だからそれに気づくために祈り、願うのです。わたしたちの一人ひとりの聖霊降臨を願いましょう。聖霊は今も、いつでも、どんなときも、わたしたちに働き掛けています。聖霊来てください。あなたの光の輝きで、 わたしたちを照らしてください。貧しい人の父、心の光、証の力を注ぐ方。 やさしい心の友、さわやかな憩い、ゆるぐことのないよりどころ。 苦しむ時の励まし、暑さの安らい、憂いの時の慰め。 恵み溢れる光、信じる者の心を満たす光よ。あなたの助けがなければ、すべてははかなく消えてゆき、 だれも清く生きてはゆけない。汚れたものを清め、すさみをうるおし、受けた痛手をいやす方。 固い心を和らげ、冷たさを温め、乱れた心を正す方。あなたのことばを信じてより頼む者に、尊い力を授ける方。 あなたはわたしの支え、恵みの力で、救いの道を歩み続け、 終わりなく喜ぶことができますように。
アーメン。

今日の北26条教会の庭のチューリップ

ミサ後シエナのベルナルディーノ場﨑洋神父様霊名お祝い の会が催されました。盛大で本当に楽しい会でした。

主の昇天  2016年5月8日   「聖書と典礼」表紙解説

福音朗読 ルカによる福音書 244653 

[その時、イエスは弟子たちに言われた。「聖書には] 次のように書いてある。 『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、 その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。 エルサレムから始めて、 あなたがたはこれらのことの証人となる。 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。 高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、 手を上げて祝福された。 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

説教

 キリスト者として生きていくことは、この世に属していないながらも、この世で生きるということです。この内面に働く自由は、ひとり静まる世界の中で育まれていきます。 

 弟子たちはイエスの死に衝撃を受けました。なぜならば彼らは絶えずこの世、すなわち自分を中心にしてイエスを見ていたからです。 

 どんな人も自分を中心にこの世界はあるのだと思い込んでいます。「わたしを見たものは御父を見たのだ」とイエスは弟子たちに言われたのに、弟子たちはそれが何のことなのか理解できませんでした。 

イエスは弟子たちの御父の憐れみといつくしみを現されました。それは死が、すべての終わりではないということをイエスの復活を通してお示しになられたのです。

 

司祭になりたての頃、ある家庭集会であるお婆さんからお話を聞きました。結婚して、愛しい子どもを二人授かりました。しかし、病気で二人の子供を同時に亡くしてしまったのです。悲しみは計りしませんでした。目に入れても痛くないわが子が奪われてしまったのです。若い母はお通夜の日、夢を見ました。5歳の長男と3歳の妹が手を繋ぎながら笑って光に向かっているのです。二人の子は本当に嬉しそうでした。母親はそのあとを追いかけます。わたしも連れて行って・・・・。しかし、突然、大きな壁にはだけってしまいます。もうそこに二人の姿はありませんでした。残された若いお母さんの寂しさはどれほどだったのでしょうか。しかし、その母はこの短い子供の生涯を通して、幼子の心を学び、永遠のいのちを得ることを可能にしたのです。

 

 仏教の言葉ですが人生の苦しみについて語ります。生まれてくること、老いていくこと、病気になること、死ぬことです。「生老病死」といいます。それに加えて苦しまなければならないことがあります。愛していた人と別れなければならい苦しみ。憎い人、嫌いな人に出会わなければならない苦しみ。自分の欲しいものが自分のものにならない苦しみがあります。れらを含めて仏教用語で「四苦八苦」と言います。

 

イエスはこれらの苦しみの中に御父をお示しになられました。汝の敵を愛せ、罪びとを招きなさい、赦し合いなさい。人間が出来そうもないことをイエスは言われるのです。

 

人間は思いのまま生きて幸せを求めます。この世界は成功志向の世界です。わたしたちはますます最高のものに牛耳られてしまいます。最も高い塔、最も長い橋、最も優秀な人、最も早いもの、最も便利なもの・・・・。弟子たちも恐らく、これらの志向と同じ考えをもっていたはずです。しかし、弟子たちはイエスの死と復活を通して自己中心の世界から神中心の世界へ成熟していくことができるのです。霊的成熟していくことによってイエスが述べる福音を伝えることができるのです。イエスの姿は見えませんが、御父を見るのです。

 

マザー・テレサはある出会いを語っています。 

一人の若者が死にかけていましたが、何としてでも生きながらえようとしました。 

マザーは「どうして、そんなに生きたいの」と尋ねました。すると彼は「父親に赦してもらうまでは、死ねないのです」と答えました。父親が彼のもとに着いたとき、若者は父親に抱きついて赦しを願いました」。二時間後、若者は平安のうちに死んでいきました。 

復活したイエスがご自身を弟子たちに現されたことはこれに似ています。弟子たちは、イエスから赦されていることを知ったとき、平安を受けました。あなたがたに平安があるように。そして彼らは生かされ、彼らの中でイエスは生き続けるのです。神はイエスを通して成長させてくださるのです。

ジョット 昇天 フレスコ画 スクロヴェー二礼拝堂 14世紀 以下より引用

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Giotto_-_Scrovegni_-_-38-_-_Ascension.jpg?uselang=ja

わたしたちはイエスが見えなくなっても、イエスを見ることができるのです。なぜならば、主を証するために尊い宝、信仰をいただいているからです。目で見えないものを信じていく新しい世界へいざなわれているのです。 

わたしたちには絶えず混乱に陥らせる恐れと不安があります。しかし、わたしたちは弟子たちと同じようにキリストによって送られる聖霊によって変容されていくのです。不可能だったことが可能になります。弟子たち、わたしたちを捕えていたすべての悲観的な思いが溶け始めるのです。自分中心の一方的な思いから自由になって、イエスを招く日々となるのです。主の昇天、主によって召されたわたしたちは弟子たちと同じようにみ言葉を発酵させ実らせていくことができたのです。聖霊は今も生きているのですから。 

落ち込んでいた時間もあります。悲しんでいた時間もあります。しかし、その時間も神様は無駄にはなさいません。人生はそれがあって人生なのです。

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復活節第6主日  2016年5月1日   「聖書と典礼」表紙解説

 

福音朗読 ヨハネによる福音書 142329

 

[その時、イエスは弟子たちに言われた。] 「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。 わたしの父はその人を愛され、 父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。 あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、 わたしをお遣わしになった父のものである。 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、 あなたがたにすべてのことを教え、 わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。 わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。 心を騒がせるな。おびえるな。 『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』 と言ったのをあなたがたは聞いた。 わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。 父はわたしよりも偉大な方だからである。 事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、 今、その事の起こる前に話しておく。」

 説教

ヘブライ人の手紙の中で「かつて預言者によって先祖たちに語られました。この世の終わりの時代に御子によって語られました」と述べています。これは旧約の預言者は律法によって語られ、新約においては御子イエスによって生きたみ言葉が語られたということです。

 第一朗読の使徒言行録はユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者との間に起こった問題について記されています。それは「割礼を受けなければ救われない」ということでした。 

このことについてエルサレムで使徒たちの会議が行われました(紀元48年、エルサレム使徒会議)。最終的にパウロの働きかけで割礼なしにでも救われることを説くことになります。 

福音書で先週に引き続き、最後の晩餐の箇所です。イエスは弟子たちに弁護者を送ると約束しました。神のものへ呼び寄せる霊「弁護者」です。弟子たちは、それがどのような意味なのか分かりません。イエスが捕えられて殺されると言うことは誰も考えませんでした。しかし、イエスを取り巻く環境は不吉な闇へ吞みこまれるような雰囲気を感じていたようです。イエスはその状況にあっても確固たる信念をもって、御父が示してくださる弁護者、聖霊の賜物が送られることを弟子たちに語ります。 

わたしたちの人生において神の助けなしに生きていけないのです。助け手であり力を得ることで生きて行けるのです。弁護者である霊はどこにいるのでしょうか。ただイエスの過去の出来事、物語として捉えていていいのでしょうか。わたしたちの人生そのものを振り返り、また今から始まる、いのちの歩みのなかに聖なる霊が働きかけていることを喜びとしたいです。導き手となる霊、霊的助けてはすべての人々に働いています。 

聖霊が鳩のかたちをとって降ったとされる聖書の記述を基に作られたステンドグラス(サン・ピエトロ大聖堂内)ベルニーニ 1660年頃

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Rom,_Vatikan,_Basilika_St._Peter,_Die_Taube_des_Heiligen_Geistes_(Cathedra_Petri,_Bernini).jpg?uselang=ja

今日は感動するお話をします。失明した妻のためにシバザクラを庭一面に咲かせた夫の愛と、それを受けとめる妻、そしてそこを訪れる人々に感動の心を沸き起こせます。

 

 宮崎県富岡町のある一軒家の庭には素晴らしいシバラクラが咲き誇っています。黒木敏幸さん(86歳)と妻の靖子さん(76歳)がお住まいの家です。今から31年前にお見合いをして二人は畑作をし、それから酪農を営みました。子供にも恵まれ、日々一生懸命に働く夫婦でした。朝は午前2時起き、牛への餌やり、乳搾りなどで明け暮れる毎日でした。やがて酪農の事業は拡大し、乳牛60頭を養うまでになりました。二人の夢は将来、夫婦で日本一周旅行をすることでしたから、コツコツ貯金をしていきましたそんな矢先のことです。靖子さんが目の不調を訴えたのです。すぐに病院で診てもらったのですが、糖尿病による合併症、失明だったのです。 靖子さんからは笑顔がなくなってすっかり落ち込んでしまいました。敏幸さんは、毎日、妻に対して申し訳ないと悔いていました。妻の体を労わってあげられなかった自分を責めたのです。 ある日、庭に生えていたシバラクラに人々が集まってくるところを見ました。そこで敏幸さんはシバラクラを分けてもらって自分の庭に植えはじめたのです。黒木さんはたった一人で雑草を取って、裏庭を切り開き、苦労を重ね試行錯誤を繰り返してシバザクラを植え続けました。植えるということが妻への祈り、妻への贈り物となったのです。主が働きかけています。次第に。この庭を訪れる人が多くなってきました。敏幸さんは靖子さんを外に出そうとしましたが、なかなか出来ませんでした。心を塞ぐ妻のために決して諦めはしませんでした。しかし、ある時、靖子さんは敏幸さんの熱意と訪れる人々の声を聞いて庭に出てきたのです。それから靖子さんに満願の笑みが戻ってきました。ここは今、宮崎県の観光の名所になっているほどです。週末にもなれば一日、4千人から5千人の方々が訪れるのです。靖子さんもシバラクラのように咲いているのです。シバザクラはもちろんのこと、靖子さんと敏幸さんに会いにくるのです。夫婦はシバザクラのように咲く、人々は美しい夫婦の営みに心打たれます。 あるお客様が「奥様にもお花を見せてあげたいですね」と尋ねました。すると靖子さんは「いいえ、私に見えています。たくさんたくさん咲いています。香りもいいです」。 

本当に見えるということはこのことです。このことは視覚優先主義の現代社会に警鐘を鳴らしていいます。わたしたちはこの物語からたくさんの気づき学びます。

 

第二朗読、ヨハネの黙示は御子イエスが捧げることによって新しい都の到来を告げています。「この都には神殿がなかった。全能者である神、主と小羊とが神殿だからである。この都には、それを照らす太陽も月も必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである」(ヨハネ黙示212223)。  神の小羊となったイエスによって御父の愛が示され真の都が築かれるのです。 

人生の中でわたしたちはイエスの語り掛ける声に気づかされることでしょう。キリストのことを知っていても言葉だけにとどまって信仰の実践を果たせない人もいます。またキリストのことを知らない人の内にも、真の霊を聞き分け、平和を築こうしていく人もいます。 

 わたしたちの人生は何度も何度も挫折を繰り返します。そのどん底で神の霊を受けとめようと助けを求める努力をしたか、あるいは自分を通そうとして頑なになったのか・・・・ 

わたしたちはいつもわたしたちを招いて花を咲かせようとしている霊的弁護者、助け手である主が生きていることを心に留めたいです。なぜならば主は生きている神です。死んだ神ではないのです。わたしたちは脆い土の器です。しかし神の霊を受けとめる素晴らしい器をも備えています。 

 

復活節第5主日  2016年4月24日  「聖書と典礼」表紙解説

福音朗読 ヨハネによる福音書 133133a3435 

さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。 「今や、人の子は栄光を受けた。 神も人の子によって栄光をお受けになった。 神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、 神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。 しかも、すぐにお与えになる。 子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。 あなたがたはわたしを捜すだろう。 『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』 とユダヤ人たちに言ったように、 今、あなたがたにも同じことを言っておく。 あなたがたに新しい掟を与える。 互いに愛し合いなさい。 わたしがあなたがたを愛したように、 あなたがたも互いに愛し合いなさい。 互いに愛し合うならば、 それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、 皆が知るようになる。」

 説教

今日のヨハネ福音書でイエスは言います。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。これは最後の晩餐の席でイエスが弟子たちに語った言葉です。 

「新しい掟を与える」とは、イエスによって成し遂げられた新しい掟(律法)、新しいいのち、新しい生き方です。第二朗読でも「新しい」という言葉がでてきます。 

ヨハネの黙示では「新しい天と新しい地を見た」と語り、それは御子イエス・キリストの死と復活によって成就した神の御業です。すなわち福音の成就によって「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐいとってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない・・。玉座に座っている方が、見よ、わたしは万物を新しくする」と言われるのです。 

この「新しさ」の大切さを体験することが必要です。 

ある80才を越えた信仰深い老人が言いました。「自分が今生まれ変わったみどり児のようです。わたしの人生は今はじまったのです」。これこそ神に招かれている証人とも言えましょう。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。この言葉は簡単そうですが、深い意味をもっています。第一朗読(使徒言行録)で、パウロは弟子たちを力づけ「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と信仰に踏みとどまるようにと励ましています。人生はすべて苦しみなのでしょうか。 

昨日、お昼、白石墓地で納骨式がありました。風が吹き、雨も降ってきました。どうしてこんな天気になるのだろうかと思ってしまうでしょう。地震が起れば、なぜ、こんなにもひどい被害になるのかと嘆いてしまいます。・・・・・・・実はわたしたちはまだまだ神様のこと、自然のこと、宇宙のことを、知っていないのです。 

「教会の祈り」があります。主日の朝の祈りの第二唱和で、ダニエル書(35788)が唱えられます(今日もトラピスト修道院、カルメル修道院、司祭は唱えます)。 

「造られたものは、みな神を賛美し、代々に神をほめたたえよ。雨と霧は神を賛美し、すべての風は神をたたえよ。・・・火と暑さは神を賛美し、冬の厳しさも神をたたえよ。・・・・ 

稲妻と雲は神をたたえ、大地は神を賛美し、代々にほめたたえよ。・・・アナニア、アサリア、ミサエルは神を賛美し、代々に神をほめたたえよ。・」。実はこれでいいのです。雨が降っても、風が吹いても神を賛美し称えるのです。・・・・・どんなに足掻いてもわたしたちは自然界を支配することはできないのです。すべて神のいのちの中にあります。 

またミクロの世界を見てもそうです。胎児は無菌の状態ですが、生まれ出てくると身体の外にも口からも菌が入っていって、3歳までに自分の体にもつ菌が決まっていきます。人間一人に棲みついている常在菌の数は1000兆個と言われます。人間の体の細胞数は60兆個ですので、その約10倍以上の常在菌が体内に存在しています。ビフズス菌、酵母菌、乳酸菌、納豆菌などいろいろなものがあります。腸内には500種類 100兆個の常在菌がいて、それらの中には善玉菌、悪玉菌、日和見菌があります。このようにわたしたちは常在菌と共生共存しているのです。この世の秩序のなかにわたしたちが生きていて、神によって生かされているのです。 

わたしたちは神によって支配されています。それに抵抗すればするほど苦しみを覚えます。 

わたしたちは自然の世界と超自然の世界という二つの世界に同時に属しています。 

自然と超自然との間に境界線はありません。わたしたちは神の御業に召され神がわたしを通して働いているのです。

新しい掟 ドゥッチョ 1308~1311年  下記より引用

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:FarewellApostles.jpg?uselang=ja

 愛するということは、一人ひとりの中に神が働いているということです。 

「人生の四季」という本があります。スイスの精神科医ポール・トゥルニエが著したものです。人生は冬であっても、春を迎えたりすることが可能です。冬を夏に迎えることもできるでしょう。「人生の四季」はとても大切なことです。出会う人々が、わたしが春であったり、夏であったり、秋であったり、冬であったりします。同じようにわたしたちの隣人も冬であったり、秋であったり、夏であったり、春であったりするのです。 

 人生は愛すること、愛されること。そして赦すこと、赦されることです。 

人生すべては静止しているのではありません。絶えず神が働きかけているものです。 

一人ひとり、神から与えられた計画があります。それを奏(かな)でるのです。愛し合いながら交わり合いながら、神の愛を奏でるのです。 

人生には敗北はありません。人は成功から愚かになったり、失敗から偉大なものにもなるからです。わたしたちは神のものです。神はわたしたしを生かします。 

わたしたちの自己実現はどのようにして可能になるのでしょうか、それは人との交わり、出会いによってです。この出会いは、乳飲み子、子供、友人、妻、夫、死を目前にしている人、その他と、具体的なひとりひとりに耳を傾けることによって起こります。この出会いの出来事の背後に、わたしたちの人生を導こうと働いている神ご自身が立っておられるのです。その御父を示してくださったのがイエスです。 

ある人が言いました。パイプ・オルガンを自分にたとえなさい。演奏者は神様、御父なのですから・・・。あなたの命の器、楽器であるオルガンと言えるでしょう。決して自分を悲観しないでください。わたしは駄目な人間と言われるかもしれません。でも、あなたに与えられたいのちは、神様から与えられたご計画なのです。わたしがわたしであることを受け入れ、わたしは神様の指でどのように演奏されているか気づかなければなりません。和音、不協和音、リズム、強弱、それはまた嘆き、悲しみ、絶望、慰め、希望、信頼、賛美、感謝・・・・いろいろな音色で表現すことができます。演奏者である御父が一人ひとりの器に合せて歌を歌ってくださるに違いありません。今度は自分がそれに併せて主を褒め称えることができるでしょう。 

だから主は仰せになります。 

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と。

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復活節第4主日  2016年4月17日  「聖書と典礼」表紙解説

福音朗読 ヨハネによる福音書 10章27~30節

[その時、イエスは言われた。]「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。 彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」

 説教

初代教会の姿は使徒言行録の中で描かれています。ユダヤ人キリスト者、異邦人キリスト者、言葉もヘブライ語だけでなくギリシア語を話すユダヤ人が地中海一帯に広がり、ローマ帝国内の言語、種族、民族の中で主の御言葉が弟子たちによって切磋琢磨され宣べ伝えられていきました。 

今日の使徒言行録ではパウロとバルナバが登場してきます。バルナバという人はパウロをキリスト共同体に招いた人です。パウロはキリスト者を迫害するものでしたが、幻で出会ったキリストによって劇的回心を果たしました。パウロはイエスを宣べ伝えるのですが、キリスト共同体からスパイではないかと警戒されてしまいます。その難を救ったのがバルナバでした。彼はパウロの回心と今彼がキリストを宣べ伝えていること、主に召されていることを伝えたのです。パウロとバルナバはキリスト者たちに敵対するユダヤ人に向かって語りました。「わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、あなたが、地の果てにまでも、救いをもたらすために」と。多くの弟子たちは喜びと聖霊に満たされていました。ヨハネの黙示では、あらゆる国民、種族、言葉の違う民の中から集められています。そこに集まったものが玉座の前と小羊の前に立っています。これは神の前にわたしたちが集められ、飢えることも渇くことも、奪われることもなくなるのです。この玉座の中央に座っている小羊が彼らの牧者となります。すべてのものはもっとも偉大なものによって救われていくのです。 

善き牧者  ベルンハルト・PLOCKHORST 下記より引用

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bernhard_Plockhorst_-_Good_Shephard.jpg?uselang=ja

今日の福音書では善き羊飼いについて語られています。

「わたしの羊はわたしの声を聞きわける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」。羊飼いと羊の関係を表しています。イエスは羊飼いで、わたしは羊です。わたしと羊飼いの関係が良ければわたしはいいというわけではありません。羊飼いは羊の群れ全体を見ます。木を見て森を見ずではありません。木も見て森も見ます。 わたしは羊であり、他の羊も羊飼いに導かれているということを知らなければなりません。わたしは一匹の羊ではありません。わたしは、群れと共に導かれているということに気づかなければなりません。わたしは群れの一員であるということです。群れから逸れてしまうことがあります。 

イエスの時代、羊飼いは罪人でした。なぜならば安息日を守らなかったです。守らないというより、世通し羊の番をしなくてはならない職業だったからです。彼らは地主から依頼されて羊を飼う人たちでした。託された仕事でありますから、羊を失ってしまうと大変なことになります。イエスはこの羊飼いをご自身にたとえられたのです。蔑視されていた羊飼いをご自身とされて人々の救いを告げ知らせています。 

羊飼いと羊の関係はヨハネの福音書10章に書かれています。羊飼いはキリストですから、わたしたち羊を知り尽くしています。羊飼い一匹ずつを愛しているのです。羊の名前を知ってお呼びになられます。それでは羊であるわたしたちは黙っていていいのでしょうか。いいえ、やはり主を知る限り羊には3つの責任があります。1)、「主(キリスト・神)を知っていること」、2)、主の声を聞きわけること、3)、主のあとに従うことです(交わり)。3),主に従うということは言いかえれば人と人との関係性、交わりです。 

人は関係性において恐れます。 経済的な恐れ、病気の恐れ、人間関係の恐れ・・・です。 それでは教会は人間の集まりです。関係性の中に神の働きかけがあります。 

人間関係における、交わりにはそれなりに話題という「コンテンツ」による交わりがあります。地震、健康、旅行、ニュース、流行、食物、噂・・・・・話題で関わっているということです。羊飼いイエスは話題性の中で働くかたではありません。 

わたしたちは人間関係の中に働いている神の息吹きを意識するプロセスはあまり意識していません。それはイエスの働きかけです。思いやり、慰め、癒し、励まし、希望、賛美、感謝、祈り、受け入れ、理解、・・・・そこに今必要とされている働きです。 

フランシスコの平和の祈りがそうでしょう。愛されるよりも愛することを、赦されることよりも赦すことを、理解されることよりも、理解することを、愛されることよりも愛することです。羊飼いはそこを大切にされます。「神こそ、主であると悟れ、神はわたしたちを造られた。神はいつくしみ深く、そのあわれみは限りなく、そのまことは代々に及ぶ・・わたしたち神の民、その牧場の群れ」(詩編1003、今日の答唱詩編)。今日の祈り、集会祈願、答唱詩編、共同祈願、奉納祈願、拝領祈願。わたしたちは、羊の群れであり、神の民です。「わたし」ではなく、「わたしたち」の主イエス・キリストによって、と祈るのです。羊飼いの役割について他の箇所でも述べられています。「見よ、神である主は力をもって来られ、その御腕で治められる。主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く」(イザヤ401011)。エゼキエル書の341節から10節、羊飼いと羊について書かれています。「良い羊飼いは弱い羊を強め、病を癒し、傷ついた羊を包み、迷い出た羊を連れ戻し、失われた羊を捜しだし、捕らわれた羊を解放し、散らされた羊を包み、空腹の羊に餌を与えます」(45節)。イスラエルでは5月から10月はほとんど雨が降りません。緑豊かな牧草地を想像しますが、そうではありません。ゴロゴロした土地、荒れ地にやっと草が生えているという場所がいたるところにあります。先週の金曜日のミサ、パウロの回心の箇所でした。パウロのところへ遣わされたアナニアは主から呼ばれます。「アナニア」。「はい、わたしはここにおります。お話しください」。イエスは御父の愛をお示しになられました。イエスは「愛する方」です。イエスはペトロに「わたしを愛するか」とお尋ねになりました。わたしが主を選んだのではなく、主が私をお選びになったのです。イエスの匂いを嗅ぎ分けることが出来るでしょうか。産まれたばかりの乳飲み子は母親の匂いをかぎ分けます。乳飲み子はお母さんの肌の感触を知り、声を聞きわけます。イエスを味わって生きていくことはわたしたちの霊的喜び、魂の喜び、牧場の羊の喜び、牧者の喜びです。イエスを味わうのです。「(みことばを)深く味わって悟りを得よ、神は恵みに満ちておられる、神に寄り頼む人は幸せ」。

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復活節第3主日  2016年4月10日  「聖書と典礼」表紙解説

 福音朗読 ヨハネによる福音書 21119 

その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。 その次第はこうである。 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、 ガリラヤのカナ出身のナタナエル、 ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、 彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。 彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。 しかし、その夜は何もとれなかった。 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、 彼らは、「ありません」と答えた。 イエスは言われた。 「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」 そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、 もはや網を引き上げることができなかった。 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。 シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、 裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。 ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。 陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。 その上に魚がのせてあり、パンもあった。 イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。 シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、 百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。 それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。 弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。 主であることを知っていたからである。 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。 魚も同じようにされた。 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。 食事が終わると、 イエスはシモン・ペトロに、 「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。 ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、
あなたがご存じです」と言うと、 イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。 二度目にイエスは言われた。 「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」 ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、 あなたがご存じです」と言うと、 イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。 三度目にイエスは言われた。 「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」 ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、 悲しくなった。そして言った。 「主よ、あなたは何もかもご存じです。 わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」 イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。 はっきり言っておく。 あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。 しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、 行きたくないところへ連れて行かれる。」
ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、 イエスはこう言われたのである。 このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

説教

 かつてイエスが弟子たちを召された時のことを思い起こしてください。イエスは弟子たちを福音宣教者として召し出し、派遣されました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マルコ11620、マタイ4・1825)。また夜通し網を打っても一匹もとれなかった弟子たちはイエスが言われるように網をおろしたこともありました。すると、「おびただしい魚がかかり、網が破れそうになりました。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言いました(ルカ549)。 

今日の福音の中で復活したイエスは弟子たちに御自身を現されました。それはペトロが漁に出る時のことでした。彼は「わたしは漁に行く」と言いました。すると他の弟子たちも「わたしたちも漁に行こう」と言いました。しかし、その夜は何も獲れませんでした。夜明けたころ、復活したイエスが岸に立っておられたのですが、弟子たちにはそれがイエスだとは気付きませんでした。イエスは「何か食べ物があるか」と言いました。彼らは「ありません」と言いました。イエスは「舟の右側に網を打ちなさい」と言いました。弟子たちは漁師として経験と感が秀でていた人たちです。魚がどの辺にいるかが分かるはずです。しかし、彼らは岸から呼びかける人(イエス)の言われるままに網を打つのです。ここが不思議です。弟子たちは何のためらいもなくイエスのことばに引きずり込まれるのです。すると網が破れるほどの大漁でした。そのときです。主に愛された弟子ヨハネが気づき、「主だ」と叫びました。ヨハネは復活したイエスに気づくのです。あの5000人の給食の出来事を思い起こして気づいたのでしょう。四福音書はこぞって5000人の給食の出来事を伝えています。イエスは人々に食べ物を与えなさいと言われて、5つのパンと2匹の魚で5000人の人々を満腹させました。ガリラヤ湖の海はこの世の闇にたとえられます。そこで漁をする弟子たちは海から数え切れない魚を引きあげます。これは弟子たちがイエスの呼び掛けに応え、人々の救いために行う、漁(宣教)なのです。本当の弟子はイエスに聞き従うことなのです。イエスの呼び掛けには無駄がありません。わたしたちは日々の実りを数字や量という成果主義で計ってしまいます。しかしイエスの召し出しは量の問題なのではなく質(神秘)なのです。イエスの呼び掛けに従うことによって大漁、収穫を豊かにしてくださいます(神秘の業)。そしてイエスは食事を準備してくださいます。イエスは炭火を起こし魚の他にパンも用意して感謝と賛美の祈りを唱えて宴の食事にしてくださるのです。第一朗読にありますように、弟子たちはもはや、自分を告げ知らせているのではありません。主の名によって自分の中で生きている主を告げ知らせているのです。わたしのなかに主が働いているのです。 

コンラート・ヴィッツ『奇跡の漁り』(1444年)テンペラ 画 ジュネーブ美術・歴史博物館  以下より引用

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Konrad_Witz_%E2%80%93_Petri_fiskaf%C3%A4nge.jpg?uselang=ja

 そして後半にイエスがペトロに問いかけています。それは「わたしを愛するか」という問いです。聖書では「愛する」という動詞がたくさんでてきます。一時的な愛、選びの愛、契約に基づく愛・・・・・・などなどです。今日は二つの「愛する」がでてきます。それは友愛、友情として表現されている動詞「フィリオー」(名詞:フィロス)と、友のために命を捨てる愛として使われる、動詞「アガパオー」(名詞:アガペー)です。イエスはペトロに「愛する」(アガパオー)という動詞を用い、ペトロは「愛する」(フィリオー)という動詞を使います。今日の福音の原文ギリシア語ではこうなります。 1回目、イエスは 「アガパオー」か。ペトロは「フィリオー」です。 2回目、イエスは「アガパオー」か。ペトロは「フィリオー」です。 3回目、イエスはそれではおまえは「フィリオー」なのか。ペトロは、わたしは「フィリオー」なのです、・・・・・。 

イエスはペトロに「いのちを捨ててまでわたしについて来る愛なのか」と「アガパオー」で問いかけます。これが二回つづきます。しかしペトロは自分の弱さを知り尽くしていましたから、ありのままの自分である友情的愛「フィリオー」で答えました。イエスは3度目に、ペトロの弱さに慈しみと憐みを注ぎ、「そうか、おまえは フィリオーなのか」とおっしゃられたのです。わたしたちは、このような憐れみ深いイエスのまなざしを大切にしなければなりません。三度イエスを知らないと言ったペトロの弱さを知っておられたからです。

 イエスは本当にわたしたちの弱さを見抜いておられます。「わたしを愛するか」と言う問いかけはわたしたち一人ひとりになされていることを忘れてなりません。「イエスについて」知っているのか、それとも「イエス」を知っているのか、この二つの問いは大きな違いがあります。わたしは「イエスについて」よく知っているかもしれません。イエスについての知識、ことば、奇跡のあらすじではよく知っているかもしれません。イエスは疑いもなく「わたしはお前を愛する」と言われます。それではイエスから「あなたはわたしを愛するか」と問われたら、何とお答えできるでしょか。イエスはわたしたちの魂まで入り込んで、おまえは わたしを愛するのか」と問い続けます。わたしたちはわたしを宣べ伝えるのではありません。わたしの中に生き続けている主、すなわち今日の第一朗読にあった弟子たちのように「主の名によって」福音を告げ知らせるのです。何も恐れることはありません。わたしたちが「わたしは主を愛する」と宣言すれば、わたしたちの欠けた所に主は来られるのです。 

「屠られた小羊は、(霊的に)力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしかたです」(ヨハネの黙示51213)。 わたしたちは主の名によって屠られた小羊をほめたたえることができるのです。 

 

追伸:ギリシア語で「イエス・キリスト、神の子、救い主」を書いて、「イエス」、「キリスト」、「神」、「子」、「救い主」のそれぞれ単語の頭文字を並べると、「ΙΧΘΤΕ(イクスース)」となります。これは、ギリシア語で「魚」を意味しています。このことから、初期キリスト教徒は、イエスの象徴、キリスト教徒の象徴として、魚を用いるようになりました。キリスト教徒が迫害されたとき、魚を彼らのしるし、彼らのアイデンティテイーとして生き抜きました。

 

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 福音朗読 ヨハネによる福音書 201931 

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。 そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、 「あなたがたに平和があるように」と言われた。 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。 弟子たちは、主を見て喜んだ。 イエスは重ねて言われた。 「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。 「聖霊を受けなさい。
だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。 だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、 彼らと一緒にいなかった。 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、
トマスは言った。 「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、 また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、 わたしは決して信じない。」 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。 戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、
「あなたがたに平和があるように」と言われた。 それから、トマスに言われた。 「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。 また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。
信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 イエスはトマスに言われた。 「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、 それはこの書物に書かれていない。 これらのことが書かれたのは、 あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、 また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

説教

 今日は「神のいつくしみの主日」です。「白衣の主日」とも言います。イエスが再び週の始めの日にご自身を現されたからです。要するに週のはじめの日とはわたしたちにとって日曜日です。この日曜日に主の復活(復活した日と8日目の出来事)を祝うためにキリスト者はひとつに集まって主の食卓を祝うのです。初代教会の洗礼式は水の中に全身を浸して行うものでした。水からあがった者は、白い衣を着て新しい人となりました。パウロは言いました。「神にかたどって造られた新しい人を身につけなさい」「キリストを着よ」(エフェソ41724。ローマ1311参照)と。そして8日目に、受洗者は白い衣を脱ぐのです。ですから復活節第2主日を「白衣の主日」と呼んでいます。 

 ヨハネ・パウロ二世は2000年、「白衣の主日」を「神のいつくしみの日」と定めました。 

1981513日にヨハネ・パウロ二世はサンピエトロ広場でトルコ人の男アジャによって銃撃されました。銃弾は二発命中しました。教皇は後に「聖母が弾をそらしてくださった」と言いました。1983年のクリスマスの二日後、教皇は狙撃犯と面会するために刑務所を訪れました。「わたしは彼を赦し、完全に信頼できる兄弟となりました」と語りました。20154月、教皇の訃報を聞いたアジャは深い悲しみを覚え、喪に服したと家族から伝えられました。200542日、午前937分、84歳で帰天しました(今から11年間)。最後のことばは「アーメン」でした。その日は教皇が定めた「神のいつくしみの日」でした。201372日に聖人となることが確定され、翌年2014427日に列聖式を執り行いました。 

聖ヨハネ・パウロ二世 下記より引用

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/46/JohannesPaul2-portrait.jpg

  さて、イエスを裏切った弟子たちの心理はどのようなものだったでしょうか。 

弟子たちにとってイエスが大祭司たちによって捕えられ、十字架に掛けられて殺されたことはあってはならないことでした。民衆から慕われ、救い主として称えられた偉大な預言者イエスが、権力者の奴隷になったかのように無力を露わにしました。その陰には、イエスを裏切った弟子たちの複雑な思いがありました。弟子たちは互いに自分たちのしたことを責め立てていました。ユダはイエスを引き渡しました。ペトロは主を三度、知らないと言い、他の弟子たちも主を捨てて逃げてしまいました。しかも、不可解なことが起こります。イエスを納めた墓が空になっていたと言うのです。弟子たちは自分たちも捕えられ殺されるのではないかと、家に鍵を掛けて怯えていました。同時にイエスを裏切った罪のために、自分たちの道さえも失い掛けていました。弟子たちにとってイエスが復活するということなど頭にはありません。ただ遺体が盗まれているということだけで精一杯です。するとそこにイエスが現れたのです。鍵を掛けていた家の中、弟子たちの真ん中に立って「あなたがたに平和がありますように」と言って入ってきたのです。イエスは息を吹きかけて「あなたがたも人の罪を赦さないのであれば赦されないままである。しかし赦せばあなたがたも赦される」

これはとても大切な箇所です。弟子たちの傷の中に、イエスの傷が来られるのです。弟子たちの傷は、不安、裏切り、恐れ、罪悪感、絶望、挫折です。しかしイエスの傷は、赦しであり、平安であり、癒しです。ところがディディモとよばれるトマスはそこに居合わせていませんでした。弟子たちはイエスが出現なさったことを伝えましたが彼は実証主義者でしたからそれを強く否定しました。彼は言いました。「わたしは彼の傷跡に手を入れて見なければ決して信じない」と。 

8日後にイエスは再び弟子たちがいる家に入って真ん中に立ちました。そこにはトマスの深い傷が残っています。彼の心は複雑でした。懐疑主義、実証主義、悲観論者、現実主義者になっています。ですから敵意、冷酷、憎悪、怨念、無慈悲、落胆、葛藤、臆病、誘惑、悲劇、罪責の念、孤独、痛み、焦燥感、分離、分裂、妬み、そしり、誤解、噂、怒り、評価、喪失、挫折、歪み・・・・・・。この深い傷を癒すのはイエスの傷しかありませんでした。 

イエスの傷は、トマスの傷を癒します。イエスの傷は愛を証しているしるしです。イエスの傷は何の疑いもない「愛する」という傷なのです。イエスの傷はこの世の闇、この世の不安、この世の疑いを、取り去り、慈しみと憐れみを注ぐものです。これらの出来事は閉ざされた弟子たちの心を表現しています。恐れている、鍵を掛けている、篭もっている、疑っている。これはわたしたちの心と同じです。しかしイエスの傷は違うのです。わたしたちの次元を超えて、赦し、希望、愛、慈愛、慰め、真理、憐れみ、いつくしみ、信頼、喜び、安心、絆、感謝、真理、調和、栄光、和解・・を注いで下さるのです。イエスの傷は御父そのものです。イエスを見た者は御父を見たのです。トマスはもう言葉にすることができません。ただただ「わたしの神、わたしの主よ」と言うのが精いっぱいでした。 

 わたしたちは自分の考えが正しいと思い込んでします。「イエスは死んだ。我々は幻を見ていたのだ。われわれは敗北なのだ」と。トマスは自分を正当化しないと気が済みません。実は他人を批判して自分を正当化してしまうと、どことなく虚しさを覚えるようになってしまうものです。何かを実証しようと力が入ると、本当の実証は難しくなり、猜疑心だけが強くなっていきます。わたしたちは自分の選択肢をエゴという思いで「ナシ」「アリ」と決めつけてしまっています。トマスは「ナシ」を「アリ」に変えることが恐ろしかったのです。イエスの復活、そんなことはどう説明しても理解不可能なことだと決めつけていたのです。わたしたちにもこのようなことがあります。他人の意見を否定するのではなく便乗してみることも大切です。それによって自分も変えられていくことになるのです。イエスの傷は闇に光を投じます。そして「あなたがたに平和があるように」と言います。 

聖トマスの不信 ドゥッチョ 1308年 下記より引用

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:The-Maesta-Altarpiece-The-Incredulity-of-Saint-Thomas-1461_Duccio.jpg?uselang=ja

 第二朗読のヨハネの黙示は、宇宙的視点で神のなさった御業を語ります。 

「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。さあ、見たことを、今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ」(11718)。 

 第一朗読では弟子たちは公の場でイエスを宣べ伝えています。 

「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われていた」(使徒言行録512)。弟子たちはイエスの死と復活を通してキリストを宣べ伝えているのです。そこには恐れはありません。鍵も必要としません。イエスを宣べ伝えるだけでした。 わたしたちもいつもトマスのようになります。暗闇の中にあっても絶えず、イエスのともし火を受けましょう。「わたしの神、わたしの主よ」と。

 

  最後にヨハネ・パウロ二世の祈りを捧げます。 

「人間ひとりひとりと諸国の民の母マリアよ、私たちを脅かす悪の力を打ち勝てるように助けてください。現代人の心にこれほど容易に根差してしまう悪、そのもたらす計り知れないもろもろの結果によって、すでに現代の人々のいのちを危険にさらし、未来への道を閉ざそうとしている悪から私たちをお救いください。 

飢餓と戦争、核戦争、計り知れない自己破壊、あらゆる戦争より、主よ、わたしたちをお救いください。あがないと救いの無限の力、神の慈愛の力が世界の歴史において、再び発揮されますように。神の慈愛が悪をおしとどめ、人間の良心を正し、あなたの汚れなき御心によって希望の光が示されますように」。

 

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復活の主日  2016年3月27日  「聖書と典礼」表紙解説

 福音朗読 ヨハネによる福音書 201節~9

週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。 そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。 そこで、シモン・ペトロのところへ、 また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。 「主が墓から取り去られました。 どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。 二人は一緒に走ったが、 もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。 しかし、彼は中には入らなかった。
続いて、シモン・ペトロも着いた。 彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、 離れた所に丸めてあった。 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、 二人はまだ理解していなかったのである。

司式(福音朗読)韓 晸守神父様  

 説教       場﨑 洋 神父様  於山鼻教会 音声クリック!

 昨日の復活徹夜祭の典礼は「光の祭儀」からはじまりました。この世の闇に、罪の世界にキリストの光が輝きました。歴史を通して神は語り続けられ、それがイエス・キリストの死と復活によって成就したのです。わたしたちは救いの歴史を伝える神のことばを「みことばの典礼」を通して耳を傾けました。そして今日、新しい人となった洗礼志願者と共に「洗礼と堅信」にあずかり、新たな心でキリストの光に照らされ、「感謝の典礼」に与っています。福音書は「空の墓」の出来事を伝えています。冒頭に、週のはじめの明け方早くと記されています。婦人たちは準備しておいた香料を持って墓に向かいました。これはどうしてなのでしょうか。実は金曜日の午後3時にイエスは十字架上で亡くなられます。その夕方の日没から翌日の日没まで安息日に入りますから、人々は労働をしてはなりません。午後3時から安息日の始める数時間、アリマタヤのヨゼフという議員がピラトに願いでてイエスの遺体を十字架から降ろし埋葬しました。彼らは急いでイエスを十字架から降ろして墓に納めました。土曜日の日没を迎えると安息日は終わりますが、日も暮れて埋葬作業はできませんので翌朝まで待たなければなりませんでした。それで週の始めの明け方早く、婦人たちは香料を用意して、墓へ急いだのです。ところが行ってみると墓穴を塞いでいた石が取りのけてあったのです。中に入ってみるとイエスの遺体がありません。婦人たちは途方に暮れてしまいました。するとそこに光り輝く衣を着た二人の人が現れました。婦人たちは恐れて地に顔を伏せました。二人は言いました「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方はここにおられない。復活なさったのだ」。そして思い起こさせるように言いました。「ガリラヤにいた頃、お話になったことを思い起こしなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」。二人の輝く人は婦人たちをさとしています。「なぜ生きておられる方を死者の中に見いだすのか・・・」と。イエスのみことばは死ではありません。イエスは死を語る方ではありません。イエスのことばは生かし生きているものです。イエスは何度も弟子たちにご自身が罪人の手に渡され、十字架に付けられ、三日目に復活することを告げていましたが、なかなかそれについて悟ることができませんでした。弟子たちはイエスと最後の晩餐に与って、ゲッセマネの園に赴いたとき、すべての闇がイエスを覆い尽くしました。弟子たち(ペトロ、ヤコブ、ヨハネ)は、この世の権力、武力、圧力、弾圧、恐怖に怖気づいて、逃げてしまうのです。御父のみ旨を実行していくことは何と難しいことでしょう。「友のためにいのちを捨てる。これ以上の愛はない」、とイエスは最後の晩餐で弟子たちに告げたはずです。

キリストの墓での3人のマリア 1835年 ルートヴィヒフェルディナントシュノール・フォン・カロルスフェルト 下記より引用

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:L_F_Schnorr_von_Carolsfeld_Die_drei_Marien_am_Grab_Jesu.jpg?uselang=ja

イエスの復活とは何を意味していたのでしょうか。それは死者が蘇生して復活することではありません。復活とはイエスによる愛の証しです。イエスを通して語られた福音がまさに死と復活によって成就するのです。イエスが十字架の死に至るまで従順であったという証しによって御父が栄光をお示しになるのです。それは罪人のために捧げられた無償の愛の証しです。だからこそ、御父はイエスを通して復活の姿でお示しになられるのです。

旧約においてエジプトで奴隷状態であったイスラエル人は、神によって 解放されました。新約において、イエスがこの世の闇と死の世界から、罪びとを解放し、永遠の救い、永遠の生命へ導かれました。 

「十字架の言葉は、滅んでいく者にとって愚かなものですが、わたしたち救われるものには神の力です。ユダヤ人やギリシア人は死の中にしるしや知恵を求めますが、しかしわたしたちは十字架を通してイエスをとおして示された御父の愛を証しします」。 

死はわたしたちにとって、あってはならないもの、遠ざけるもの、目をそらしてしまうもの、つまずきであったり、恐れであったりします。出来れば死はないほうがよいのです。 

 弟子たちにとって十字架におけるイエスの死は敗北と思ったに違いありません。イエスが宣べ伝えた福音は無意味だったのではないか?イエスの行った不思議なわざは、幻想にすぎなかったのではないか?弟子たちはただ絶望と嘆きのうちに苦悶するばかりでした。 

 わたしたちが信じている御父の姿は、イエスが示されたへりくだりの愛の中に凝縮されています。イエスの復活は肉体が元に戻るという蘇生ではありません。イエスの復活はコンピューター・グラフィックで表現できる画像や動画ではありません。イエスの復活を巧みな哲学や神学で説明することはできません。わたしたちの体は生物的にすべてを説明することができません。体は再生しながら、老い、病となって、死を迎えます・・・・・・この流れがわたしたち人間が体験する法則かもしれませんが、わたしたちの体は生物学的な側面だけではありません。わたしたちには朽ちない霊的な体をも備わっていることを忘れてはなりません。 

この世でわたしたちを襲う、死に向かう思いがあります。挫折、空しさ、儚さ、嘆き、絶望、悲観、厭世、虚無、失望・・・・、すべては死に向かう誘惑のなかにさらされています。しかし、死を越える計り知れない力も備えられています。希望、愛、信仰、平和、平安、慰め、癒し、和解、柔和、寛容、誠実、親切、・・・・わたしたちは絶えず立ち上がろうとする後者の言葉に希望と慰めを見出し続けます。いのちは死の中にのみこまれたのでしょうか。死はすべての終わりでしょうか。 

復活によってわたしたちにもたらされたものは福音の成就です。 

「わたしを見た者は父を見たのだ」。「一粒の麦が地に落ちて死なないならば、そのまま残る。しかし死ねば多くの実を結ぶ」。「わたしは復活であり、いのである。わたしを信じるものは死んでもいきる」。「主は生きておられる」・・・・・。 

イエスの復活によって、いのちが死に勝利したことです。 

 「死は勝利にのみこまれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか」(Ⅰコリント155455)。イエスはまさに死に勝利したのです。死に対して抵抗したのではなく、死を甘んじてうけとめて死に勝利したのです。それこそ、御父に従順であった御子イエス・キリストのいさおしです。死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあったところからわたしたちを解放し、根源的な救いにあずからせてくださいました(ヘブライ215)。 

復活はキリストだけのものではなくすべての人々の救いのための初穂となりました。 

キリストは普遍的存在です。主はいつもわたしたちと共に生きておられます。 

マタイ福音書の最後にこう述べられます。「わたしは世の終わりまであなたがたと共にいる」(2820)。「死者の中から復活したキリストはもはや死ぬことはない」(ロマ69)。

  1.  

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ミサ後、復活祭祝賀会韓 晸守神父様送別会がありました。大変盛況でした。韓 晸守神父様、有難うございました。お元気で!

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受難の主日(枝の主日 2016年3月20日 「聖書と典礼」表紙解説

司式  場﨑洋 神父様  佐藤謙一 助祭様

入城の福音 ルカ19.28-40

 [そのとき、イエスは]先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。二人は、「主がお入り用なのです」と言った。そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。  イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。  「主の名によって来られる方、王に、  祝福があるように。  天には平和、  いと高きところには栄光。」 すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」

 

受難朗読 ルカ23・1-49  説教 主の受難

 主の降誕(クリスマス)は1225日、定まった日ですが、復活祭はユダヤ暦に従って春分の日の最初の満月の次の日曜日に祝われます。ですから毎年移行します。今年は327日が復活祭です。 

今日、わたしたちは受難の主日(枝の主日)を迎えました。会衆は枝を手にもってエルサレムへ入城します。わたしたちもイエスと共に受難に向かうために枝を手に取って行進します。この一週間に起こる過越祭の中で、想像もしていなかった神のご計画がイエスを通して成就されていきます。それはイエスの聖体制定、イエスの捕縛、大祭司による宗教裁判、総督ピラトによる死罪の判決、十字架の上の死です。今日は「主の受難」(枝の主日)の日を迎えて会衆はこの一週間におきる出来事を受難劇で黙想します。イエスが子ロバに乗ってエルサレムに入城します。民衆は自分の上着を脱いで道に敷き、イエスを自分たちの王として迎えます。ファリサイ派や律法学士たちにとって、馬鹿げた騒ぎだと思っていました。群集の前ではイエス捕えることができませんから、その機会を狙っていました。 イエスがのった動物は馬ではなく子ロバです。聖書では馬は戦利品ですが、ロバは温厚で大人しいので平和の象徴として語られます。弟子たちはイエスが子ロバにのってエルサレムに入城した様子を見て、いよいよ主は、栄光を現すものだと思い込んでいました。しかし、弟子たちや群集が期待していたイエスの勝利は想像もしない展開になるのです。イエスの捕縛と十字架上の死です。わたしたちも自分の人生をイエスの受難と重ね合わせることが大切です。わたしたちも必ず受難があります。必ず苦しみを経て栄光に入ることを信じていきたいです。

カペラパルティーナ :エルサレムへの入城 1150年 モザイク 下記より引用https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Meister_der_Palastkapelle_in_Palermo_002.jpg?uselang=ja

この枝の日にまつわるお話があります。アシジのフランシスコの生き方に感化した貴族の娘クララです。1212年の枝の主日のことです。19歳のクララはアシジの司教座聖堂(カテドラル)のミサにあずかっていました。クララはその日の夜に出家して托鉢共同体のフランシスコのもとへ行く決心をしていました。信者席で緊張していたクララでしたが、グイド司教が彼女を後押しするように枝を手渡したのです。彼女はその夜、お手伝いさんに伴われてフランシスコたちのいる場所へ赴きました。フランシスコはクララを迎えるとブロンドの髪は惜しげもなく切り落とされました。これがクララの枝の主日の出来事でした。 

聖フランシスコと聖クララ ジョット 1279~1300年 フレスコ画 下記より引用

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Giotto_di_Bondone_-_Saint_Francis_and_Saint_Clare_-_WGA09163.jpg?uselang=ja

 

324日(木)聖なる過越の夕べ 

イエスはあらかじめ用意していた二階の広間で弟子たちと共に過越の食事をします。 

過越祭はユダヤ人にとって最大の祭です。ユダヤ人たちはエルサレムへ次々と巡礼のために訪れます。神殿の境内には神殿で捧げられる家畜が売られていました。 イエスは二階の広間でベッドウィン式の食事をします。当時は横になって食事をとるやりかただったからです。イエスはその席で、聖体制定を行います。「皆これ(パン)を取って食べなさい。これはわたしの体である。同じように杯(ぶどう酒)をとり、感謝を捧げ、弟子に与えて仰せになりました。みなこれを受けて飲みなさい。これはあなたがたのために流されるわたしの血(ぶどう酒)である。わたしの記念として行いなさい」。イエスはまた食事の席で弟子たちの足をお洗いになります。足を洗うのは奴隷のすることです。御主人の足を洗って迎えるのが僕である奴隷です。イエスは自ら僕の姿となって互いに赦し合うようにと模範を示されました。

 

  325日(金) 受難の金曜日 

イエスはピラトから死刑の判決を受けます。イエスは十字架を背負わされて、磔にされ、午後3時に息を引き取りました。夕方の日没から安息日に入ります。安息日は労働が許されていません。最高法院の議員であったアリマタヤのヨゼフがピラトに願って、イエスを十字架から降ろして墓に納める許可をもらいます。時間もなかったので丁寧に体に香油を塗って埋葬することはできませんでした。麻の布で巻いて納めただけでした。この日、教会ではイエスの受難劇(ヨハネ福音書)を朗読します。世界の平和のために盛式共同祈願を唱え、十字架の崇敬を行います。イエスのなさった愛の業である十字架を敬います。

 

 326日(土) 復活徹夜祭 

安息日は26日の日没で終わりですが、お墓に行って丁寧に埋葬し直すことは暗くてできませんでした。それで一晩待たなければならなかったのです。これを復活徹夜祭と言います。 

正教会は土曜の夜半から、徹夜をして、夜明けを待ち続けます。夜明けと共に司祭は「ハリストス復活」「実に復活」と唱えて喜び讃えるのです。 

カトリックは光の祭儀、復活の賛歌、救いの歴史の聖書朗読(7つ)、使徒書(1つ)、福音書を朗読します。入信の秘跡(洗礼・堅信・聖体)も執り行います。司牧的配慮をして朗読箇所を省くことはできますが、出エジプトの箇所は省いてなりません。もし、ゆっくりと全過程を執り行うとすれば3時間はかかります。この日は年間で最高峰の典礼、典礼の白眉です。

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四旬節第5主日  2016年3月13日  「聖書と典礼」表紙解説

 

福音朗読 ヨハネによる福音書 8111

 [そのとき、]イエスはオリーブ山へ行かれた。 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、 座って教え始められた。 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、 姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。 ところで、あなたはどうお考えになりますか。」 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。 イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、 イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。 イエスは、身を起こして言われた。 「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。 「わたしもあなたを罪に定めない。 行きなさい。 これからは、もう罪を犯してはならない。」

司式(福音朗読)韓 晸守神父様 

説教   場﨑 洋神父様

イエスはオリーブ山から神殿のあるエルサレムへお入りになって教えられました。すると律法学者とファリサイ派の人たちが神殿の境内に姦通の現行犯で捕まえた女を連れてきました。彼らはイエスに言いました。「この女は姦通の現行犯で捕まりました。モーセの律法によれば石殺しにせよと言われています。あなたならどうしますか」。これはイエスをおとしいれるために仕組んだ罠でした。姦通は律法に触れる罪です。律法(モーセ五書=創世記、出エジプト記、申命記、レビ記、民数記)にはこう書かれています。「人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる」(レビ記2010)。「男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男もその女も共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない」(申命記2222)。いわゆるモーセの十戒では第七戒にあたる「汝、姦淫をしてはならない」(出2014)です。さて、ここで彼らがイエスを陥れようとしているものはこうです。イエスが「律法に従って殺しなさい」と答えれば、イエスが説いている隣人愛、慈悲は覆させられます。また「殺してはならない」と答えるならば、彼らはイエスが律法に逆らっていると訴えることができます。当時の処刑方法は石殺しです。とても残虐ですがイエスの時代はよくあることでした。イエスは彼らの罠を重々知っておられました。しかもイエスはその女が罪を認め、死を覚悟しているのを深く感じておられました。イエスの憐れみと慈しみがこの女に注がれていたのです。イエスはしゃがんで地面に字を書いています。ここの箇所の解釈にはいろいろありますが、定かではありません。ある学者はイエスが時間稼ぎをしているのだと言います。だからと言って答えに悩んでいる訳ではありません。イエスが答えないので彼らは苛立ちはじめます。本来ならば何もイエスに質問しなくてもいいと思います。この女が律法に背いたならば、その場で石殺しにすればいいのです。けれども彼らはそうせずにイエスから偽証する口実を得たかったのです。するとイエスは起き上がって言いました。「あなたがたの中で罪のない者がこの女に石を投げなさい」。すると年長者からはじまって一人、また一人と、そこを去ってしまいました。最後にはイエスと真ん中にいた女が残りました。イエスは「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」と言いました。女は「主よ、だれも」と答えられました。イエスは「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい、もう罪を犯してはならない」と言われました。ここでイエスは「女よ」とは言いません。「婦人よ」と声を掛けています。尊敬語なのでしょう。あなたも神から愛されているものなのだからでしょう。またここで律法学士も、ファリサイ派の人たちが、自分が罪深いことを重々知っているということです。これには読み手も私自身もそうですから何も言えません。

キリストと姦淫の罪で捕らえられた女  レンブラント 1644年 下記より引用

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Rembrandt_Christ_and_the_Woman_Taken_in_Adultery.jpg?uselang=ja

 第二朗読のフィリピの手紙では、「わたしには律法から生じる義ではなく、信仰に基づいてキリストへの信仰による義があります。わたしたちはキリストの復活にあやかりながら、復活に達したいと願っています。わたしたちは完全なものではありません。何とかして捕らえようと努めているのです。なすべきことはただ一つであることを教えています。後ろのことを忘れ、前のものに全身を向けつつ、上に召されるのです」。義というのは「神の正しさ」のことを言います。人間はいつも「間違った正しさ」(正義)をもって人を裁いてしまうものです。ですから正義をかざして戦争を興しているのです。答唱詩編は、イスラエルがバビロンから帰還するところを歌っています。「捕らわれ人がシオンに戻されたとき、わたしたちは夢を見る思いがした。涙のうちに種まく人は喜びのうちに刈り取る」(126編)のです。イザヤは神の新しい創造を語り続けます。「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。・・・・・・・・ 

わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らなければならない」(イザヤ4316~21)。詠唱は「心からわたしに立ち戻りなさい。わたしはいつくしみと恵みにあふれる神」(ヨエル21213)。スペイン、バルセロナのシンボル、有名な教会建築、サグラダ・ファミリア(聖贖罪教会)があります。カタロニアの建築家、アントニオ・ガウディの手がけたもので未完のままです。完成まで数百年間かかると言われていましたが、最近の建築技術が向上していることが功を奏し、2026年には完成するとのことです。彼の有名な言葉が心に浮かびます。「わたしが創造するのではない。わたしが神の創造に寄与するのだ」。「明日は、よいものをつくろう」(ガウディの墓石に刻まれている言葉)。ですから、わたしたちは自分で自分に立ち返るという間違った思いを起こしてしまいます。わたしたちは神によって創造されたものですから、創造した方に寄与するものでなければなりませんし、そうでなければわたしたちは幸せになれません。 

わたしたちは神に立ち返るのです。神がどのようにしてわたしたちを創造し(愛し)、今もなお創造し続けているのかと言うことに気づかなければなりません。すなわち神の憐れみと慈しみが注がれていること、創造(愛されて、愛する)され続けていることです。 

イエスは姦通の現行犯で捕まった女を、生かして創造するのです。神は死んだ神ではなく、創造する生かす神なのです。

 

サグラダ・ファミリア

ttps://commons.wikimedia.org/wiki/File:Spain.Catalonia.Barcelona.Vista.Sagrada.Familia.jpg?uselang=ja

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四旬節第4主日  2016年3月6日  「聖書と典礼」表紙解説

 福音朗読 ルカによる福音書 15131132節 

[そのとき、]徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、 「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」 と不平を言いだした。 そこで、イエスは次のたとえを話された。 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。  弟の方が父親に、 『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。 それで、父親は財産を二人に分けてやった。 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、 そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、 彼は食べるにも困り始めた。 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、 その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、 食べ物をくれる人はだれもいなかった。 そこで、彼は我に返って言った。 『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、 有り余るほどパンがあるのに、 わたしはここで飢え死にしそうだ。 ここをたち、父のところに行って言おう。 「お父さん、わたしは天に対しても、 またお父さんに対しても罪を犯しました。 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。 ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、 走り寄って首を抱き、接吻した。 息子は言った。 『お父さん、わたしは天に対しても、 またお父さんに対しても罪を犯しました。子と呼ばれる資格はありません。』 しかし、父親は僕たちに言った。 『急いでいちばん良い服を持って来て、 この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。 この息子は、死んでいたのに生き返り、 いなくなっていたのに見つかったからだ。』 そして、祝宴を始めた。 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、 音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。 僕は言った。 『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、 お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。 しかし、兄は父親に言った。 『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。 言いつけに背いたことは一度もありません。 それなのに、わたしが友達と宴会をするために、羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が 娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、 肥えた子牛を屠っておやりになる。』 すると、父親は言った。 『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。 わたしのものは全部お前のものだ。 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。 いなくなっていたのに見つかったのだ。 祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

司式(福音朗読)韓 晸守神父様  (今回音声はありません)

説教          場﨑 洋 神父様  於山鼻教会 音声クリック!

レンブラント・フォン・レイン 『放蕩息子の帰還』1666-68年 エルミタージュ美術館 下記より引用

https://en.wikipedia.org/wiki/Parable_of_the_Prodigal_Son#/media/File:Rembrandt_Harmensz_van_Rijn_-_Return_of_the_Prodigal_Son_-_Google_Art_Project.jpg

  ルカ福音書の15章には3つの憐れみのたとえがでてきます。ひとつは迷子になった羊を探しにでる羊飼いのたとえ、ふたつめは銀貨をなくした女のたとえ、そして三つめが今日の放蕩息子のたとえです。放蕩息子のたとえはイエスのたとえ話の中で一番長く、御父の憐れみを一番深く表現されている箇所です。この放蕩息子のたとえはいろいろな角度から黙想することができます。弟息子と兄息子が御父に対しとっている態度と、それに応える慈しみと憐れみを注ぐ御父の姿です。弟息子は父の家にいるというのに本当の幸せに気づかず違った価値観に憧れて家をでていきました。それは自分が受けるべき財産をお金に換えて旅に出てしまったということです。彼は金を使って自分の幸福を求めていったのです。しかし、弟息子はお金を使い尽くしてしまうと、友達もいなくなり、食べるものに困り果てました。しまいに飢饉に見舞われてしまいます。彼はイナゴ豆で腹を満たそうと豚飼いのところに身を寄せたのですが、イナゴ豆さえも食べることができませんでした。聖書の世界で豚は汚らわしい動物です。彼は異邦人以下のものになってしまったということです。彼は人生のどん底で自分の罪深さを悔やんで回心するのです。「わたしはお父様に対しても天のお父様に対しても罪を犯しました。息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。このようにして彼は父のもと帰ることを決心するのです。聖書では悔い改めることを「回心」と言います。方向転換すること、御父に背を向けていた自分が御父に向かって歩き出していくことをギリシャ語で「メタノイア」(回心)と言い、主に立ち返るという意味です。御父は回心するものをいつもいつくしみの心をもって待っています。罪びとが主に立ち返る者を拒みません。父は回心して戻ってくる息子を見ると、憐れに思い(スプラングニゾマイ=ギリシャ語の原文の動詞、意味は「はらわたが煮えくり返る」です)、走り寄り、首を抱き、接吻するのです。息子は父親に言いました。「わたしはお父様に対しても、天のお父様に対しても罪を犯しました。息子の資格はありません。あなたの雇い人の一人にしてください」。彼は自分の罪に責任を担い、赦してもらう条件として、息子を放棄し、雇い人になることを覚悟するのです。しかし、父は何も言わず無償の愛、憐れみをもって息子を迎えるのです。彼に履き物を履かせ、指輪をはめさせます。この行為は息子の資格を再び与えたという証しです。それだけではありません。父は僕たちを集めて仔牛をほふって喜びの宴会を開くのです。罪びとが神に立ち返ることは、天の国で大きな喜びなのです。この御父の姿が、いつくしみであり、憐れみなのです。イエスの十字架は無償の愛です。御父は絶えずこの食卓に罪人を招き入れたいのです。息子は回心によって御父と息子の関係をとり戻したのです。これが回心です。わたしたちと御父の関係の回復には回心が不可欠なのです。弟が帰ってきて、父が宴会を催すと、兄は怒って、家に入ろうとはしません。そこで父は兄をなだめます。父の語ることばは、御父の豊かないつくしみと憐れみです。「お前のものは私のものだ。あの息子はいなくなったのに見つかり、死んでいたのに生き返ったのだ。共に喜び祝うのは当たり前ではない・・・・」。 主は絶えず罪人の回心を待ち続け、共に喜び祝いたい方なのです。 

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四旬節第3主日  2016年2月28日  「聖書と典礼」表紙解説

司式  佐藤宝倉神父様   場﨑洋神父様

 

福音朗読 ルカによる福音書 13章1~9節

ちょうどそのとき、何人かの人が来て、 ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。 イエスはお答えになった。 「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、 ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。 決してそうではない。 言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、 皆同じように滅びる。 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、 エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、 罪深い者だったと思うのか。
決してそうではない。 言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、 皆同じように滅びる。」
そして、イエスは次のたとえを話された。 「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、
実を探しに来たが見つからなかった。 そこで、園丁に言った。 『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、 見つけたためしがない。 だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』 園丁は答えた。 『御主人様、今年もこのままにしておいてください。 木の周りを掘って、肥やしをやってみます。 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。 もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

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説教  場﨑神父様

 わたしたちは日々起こる出来事を対して、何らかの因果関係を持つものだと考えてしまいます。今日は、ついている日とか、ついてない日とか。もしからしたら、神が罰を与えたのではないか。先週もわたしは二回、雪道で転びました。これはふだんの行いが悪いからかもしれませんし、不注意だったのかもしれませんし、その時間にその場所を通ったからなのかもしれません。もっと意地悪く理由を作れば、北26条教会に主任司祭として赴任したから、真面目にやりなさいと、神がわたしに気づきを与えるために転倒させたのかもしれません・・・・・・。とにかく、どれが理由なのかは分かりません。 

今日の福音書ではイエスがエルサレムで起きた二つの出来事に対して言及しています。

 ひとつは、過越祭にエルサレムの神殿にいけにえを捧げにきたガリラヤ人がローマ兵によって殺された事件で、もう一つは、エルサレムの下水工事のために立てられた見晴らしの塔が倒れて18人が死んだという出来事です。人々はこれらの不名誉な死に対して宗教的な解釈を求めてきたのです。

  ローマ兵によって殺された人たちや、塔が倒れて死んだ18人は、罪深い者だったからそうなったのかと、人々は考え込んでしまいます。しかし、イエスはそれに釘を刺します。エルサレムに住んでいるどの人たちよりも、彼らは罪深い者だったからそうなったのか、・・決してそうではないのだ、と言います。大切なのは心から悔い改めなければあなたがたも皆もそのようになると言うことを諭しています。 

たとえば、東日本大震災で亡くなった人々は、そこに住んでいた人たちの中で罪深い者だったから津波に襲われ死んでしまったのでしょうか。なぜ罪もないのにお父ちゃんが、おかあちゃんが、あるいは自分の子供が死んでしまったのか、と嘆き続けてしまうのも、弱い人間が抱く気持ちです。 

人生の中で因果関係が明らかな事故もあるでしょうが、分からないものの方がはるかに多いのです。戦争で虐殺された子どもたち・・・・彼らが罪を犯したからなのか、その親が罪を犯したからなのか・・・・・・・違うのです(ヨハネ9章も参照)。

 

自然災害で命を落とす人もいます。思いがけない時に事故に巻き込まれて死んでいく人もいます。死は他人事ではありません。 

イエスの言いたいのは、自然災害であっても、どんなときでも人はいつ死ぬか分からないということです。大切なのはいつも神に立ち帰っていく心が必要だということです。日々の出来事は出会いです。理解不可解な出来事の中に神のいつくしみと憐れみを求めてやまないのが私たちです。

 

神は肉体の死ではなく、魂の死を悲しまれます。明日、また明日・・・・・ではなく、今この時にこそ神に立ち帰ることなのです。

「実のならないイチジクの木」のたとえ エッチング ヤン・ルイケン 下記より引用https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Teachings_of_Jesus_36_of_40._parable_of_the_fig_tree._Jan_Luyken_etching._Bowyer_Bible.gif

福音書の後半は実のならないいちじくの木です。神様の憐れみは園丁の配慮で表現されています。すぐに切り倒すのではなく、憐れみをもって、木の周りを掘って、肥しをやってみるということです。回心を懸命に待つ、忍耐して待つのが御父の慈しみです。 

 今日は洗礼志願式があります。四旬節は信者さん皆さんに求道者にとっても恵みのときであり、回心のときでもあります。 

第一朗読ではモーセの召命の箇所が朗読されました。燃える柴から神の声がします。柴は燃えているのに燃え尽きません。その中から神ご自身がご自身について語ります。それは「わたしはあるもの」だということです。この存在は「あってあるもの」、御父である神なのです。わたしたちは存在する神の中に絶えず創造されているいのちです。神は時を用いてわたしたちの心を諭されるのです。

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四旬節第2主日 2016年2月21日  「聖書と典礼」表紙解説

 福音朗読 ルカによる福音書 928b36 

[そのとき、]イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。 祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。 見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。 二人は栄光に包まれて現れ、 イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。 ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、 栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。 その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。 「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。 仮小屋を三つ建てましょう。 一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。 ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。 彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。 すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」 と言う声が雲の中から聞こえた。 その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。 弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。

司式(福音朗読)森田健児 神父様 

四旬節第1主日 2016年2月14日 「聖書と典礼」表紙解説

福音朗読 ルカによる福音書 4113 

[そのとき、]イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。 そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、 四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。 その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。 そこで、悪魔はイエスに言った。 「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」 イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」 とお答えになった。 更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、 一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。
そして悪魔は言った。 「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。 それはわたしに任されていて、 これと思う人に与えることができるからだ。 だから、もしわたしを拝むなら、 みんなあなたのものになる。」 イエスはお答えになった。 「『あなたの神である主を拝み、 ただ主に仕えよ』
と書いてある。」 そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、 神殿の屋根の端に立たせて言った。 「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。 というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、 あなたをしっかり守らせる。』 また、 『あなたの足が石に打ち当たることのないように、 天使たちは手であなたを支える。』」 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」 とお答えになった。 悪魔はあらゆる誘惑を終えて、
時が来るまでイエスを離れた。
 

説教   場﨑洋神父様

 今年の四旬節は210日の「灰の水曜日」から始まりました。四旬節第一主日の福音はイエスが荒野で断食し誘惑に遭われる箇所です。 

断食とは、神に立ち返るために身を清め、飢え渇く人々の心を心とするためのものです。日常には様々な誘惑が待ち受けています。イエスは宣教に入っていくために、荒れ野に赴き様々な誘惑を排除されました。試みる者がイエスに言いました。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」。 イエスはお答えになりました。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」(マタイ414節) 

わたしたちは肉体を担っています。肉体には多くの臓器があります。この世界に生きるためにこの体と共に歩んで行かなくてはなりません。無心になって神に立ち返ることは理解できたとしても、体と精神(脳)は究極的な思いと正反対のところへ引きずり込まれます。誘惑するものは魅力ある言葉、「神の子なら」とささやきます。石をパンにかえるということは、いつの時代にもありました。何の価値もない石ころがパンになったら、どんなにすばらしいことでしょう。ヨーロッパでは産業革命が石をパンにかえました。機械文明によって人間はたちまち豊富なパンを得たのです。ドイツの女性神学者ゼレはこう言いました。「近代社会はパンによって死んだ」と。近代化はパンを得るために兵器を製造し、戦争を興し、土地と労働を奪って植民地にしていきました。そこで起きたのが貧富の差です。資本至上主義はまさにそれを生み出してしまいました。 

悪魔はイエスに言いました。「もし、あなたがわたしを拝むならば、この世のすべての栄華を与えよう」と。イエスはご存じでした。ご自身にとって必要なのは、この世の栄華、地位、名誉ではありません。御父ご自身を現すことでした。御父の愛の輝きを指し示すことだったのです。イエスはこの世の悪に屈服せず、仕えられるためではなく、仕えるために、十字架上で御父をお示しになられました。 

わたしたちは祈ります。わたしたちは自分の意志を行うためではなく、御父の意志を行うために来たということに心を留めていきましょう。自分は何者なのか、自分はどこへ向かって生きているのでしょうか。四旬節はこのことをわたしたちに求めておられます。神に立ち帰っていくことです。わたしたちが神の前で「わたしはここにおります」と確信をもった信仰で宣言できるためにです。そのために心も体も節制と祈りによって神に近づくことが大切です。

サンドロ・ボッティチェッリ キリストの誘惑 フレスコ画 以下より引用

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sandro_Botticelli,_The_Temptation_of_Christ_(detail_6).jpg?uselang=ja

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四旬節の黙想会 2016214日(日)

 

今日はルカ・ヴォナビコ神父様による四旬節の黙想会がありました。 

テーマは「神さまの恵みに生かされて」です。子供たちの中に働いている神様の恵みを楽しくお話ししてくださいました。以下は一信徒が心に残ったルカ神父様のお話し、並べてみました。 

 

お母さんが新聞の投稿で書いていました。小学校の息子の宿題を見ていたときです。文字のおけいこです。息子は紙に「春はきせき」と書きました。お母さんはびっくりしました。「春はきせき」。自分の息子は詩人ではないかと思いました。何とすばらしいことを書くのでしょうか感心しながらずっと見ていましたら、息子は消しゴムで下のほうの文字を消して書き直しました。「春はきせつ」になりました。これにはがっかりしました。最初は「きせき」だったのに、訂正して「きせつ」になったからです。子供の感性を大切にしていきたいものです。「春はきせき」でいいのです。でも大人は「春はきせつ」と文字通りの教育をしてしまうものなのです。もっと「春がきせき」になるような発想を育んでいきたいです。

 

またこれも新聞の投稿です。12歳の男の子が書いています。「どうして僕は生きているのだろうか。何のために生きているのだろうか・・・・」。すばらしいことです。スウェーデンの富豪が書いていました。「わたしは何もかも恵まれていました。地位も冨も、財産も手中にすることができました。しかし、人間は必ず死ぬということです。信仰がなければ生きる意味は消えうせてしまいます。・・」。この人は自分の人生を問い続けながら自ら命を絶ってしまいました。きっと救いを求めていたに違いありません。

 

次はある女の子の投稿です。「わたしは毎日 ほめほめ日記を書いています。まず今日のよかったところを書きます。自分で自分のよかったところを書くほめほめ日記です。こんなことをしていると本当に幸せになれます。そして今度は人のいいところをほめる、ほめほめ日記を書きたいです」。

 

幼稚園に通っている娘のことをお父さんが新聞に投稿しています。娘は食事の前と終わりにきちんとお祈りをします。親はそれに合せてお祈りをします。とても感心します。

 

ある夜、娘の寝室から声が聞こえてきました。茶の間のドアからその様子を両親が観ていたのです。すると娘は「寝る前の祈り」を忘れていたようで、思い起こしてベットの上に正座して祈ったのです。「今日は一日、いたずらばかりしてしまいました。どうか、かみさま、この罪びとをおゆるしください」。これには父親は驚き、新聞に投稿したのです。子供は預言者です。神の言葉をもった預言者です。大人の心を神様の心に向かわせる力があります。・・・・

 

北イタリアの巡礼地に参加していたときに、ルカという少年が地滑りにあって重傷を負ってしまいました。9か月の間、意識のない状態が続きました。お母さんはいつも教会に通って涙ながらに祈りを捧げました。ある日、少年の意識がかすかに戻ってきたのです。お母さんは思わず息子に尋ねました。「あなたは今までどこに行っていたの?」。すると少年は筆談か、文字を打つソフトで「僕は天国に行ってきました」と答えました。少年の物語は続きます。

 

僕は天国で聖人たちや天使たちに会いました。とても素晴らしいところだったので、ずっとそこにいたいと思いました。でも、戻りなさいと言われて戻ってきました。母親が意識のない自分の体のそばで祈っていたこと、同じように寄り添う人々の姿もすべて見えました。ルカは天国について確信をもって言うのです。「天国はあります。永遠の生命はあります」と。

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年間第5主日  2016年2月7日  「聖書と典礼」表紙解説

 福音朗読 ルカによる福音書 5111 

イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、 神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。 イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。 漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。 そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、 岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。 そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。 話し終わったとき、シモンに、 「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。 シモンは、「先生、わたしたちは、 夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。 しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。 そして、漁師たちがそのとおりにすると、 おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、 来て手を貸してくれるように頼んだ。 彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、 舟は沈みそうになった。 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、 「主よ、わたしから離れてください。 わたしは罪深い者なのです」と言った。 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。 すると、イエスはシモンに言われた。
「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

司式(福音朗読)韓 晸守神父様

説教  場﨑神父様  於山鼻教会 音声はここをクリックしてください

 パウロはタルソスで生まれ、天幕職人の子供でした。彼はユダヤ人でありながらもローマの市民権をもっていました。使徒言行に記されていますが、パウロは最初、ファイサイ派の律法学士で、キリスト教徒を迫害するものでした。ステファノの殺害のときにも居合わせました。しかし、幻の中でイエスの声を聞いて目が見えなくなってしまいます。神はすぐにアナニアを召し出されパウロのもとに遣わして目からウロコを取り除きました。彼は回心したのです。キリストを宣べ伝えるものとなったのです。 

回心したあとパウロはキリスト共同体に入っていきますが、彼がキリスト者を迫害するものだったので、共同体から警戒されました。その仲介に入ったのがバルナバでした。バルナバはパウロが回心した経緯について説明することによってキリスト共同体に受け入れられました。パウロは共同体の中で人々がイエスについて語り合っていることに驚きました。それが今日の箇所です。この手紙の内容は紀元前50年前後に書かれたものですから、それよりもっと前のことになります。パウロは実にあなたがたに伝えたい福音、生活の拠り所としている救いのみ言葉について、自分も「受けたもの」だと言っているのです。「受けたもの」だということが大切なのです。今までになかったことを受けたというのです(聞かされたのです)。 

  ・・・・・キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、 

  葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり、三日目に復活したことです。 

  ケファ(ペトロ)に現れ、その後12人に現れたことです。500人以上の兄弟たちに同時に現れました。そして今、月足らずのわたしのような者にも現れてくださったのです。このようにしてパウロはキリストを宣べ伝える者となっていったのです。

 今日の福音ではガリラヤ湖での漁が語られています。ペトロは夜通し苦労して網を降ろしましたが、何もとれませんでした。しかしイエスの言葉に促されて網を降ろすと、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになったのです。彼らの二そうの舟は魚でいっぱいになり、沈みそうになりました。ペトロはこのしるしを見て「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言いました。しかしイエスは「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師にしよう」と言われました。彼らはすべてを捨ててイエスに従いました。 

人間をとる漁師とは何でしょうか。それは人々の救いのために弟子たちを召し出すということです。わたしたちは何のためにこの世に召されてきたのでしょうかガリラヤ湖(ゲネサレト湖)は淡水の湖です。魚の一部分はヨルダン川に流れます。しかし流れれば流れるほど塩の海である死海に向かいます。海抜マイナス400メートルという低いところです。イエスは網が破れるほどに人間を救いたいのです。海の底から人々を救いたいのです。 

救いとは何でしょうか。わたしたちは魚のよう、神様の愛のなかで生きると同じです。 

第一朗読イザヤ書ではイザヤの召し出しが語られています。 

・・・・・・・そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」。わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」・・・・・・・ 

わたしたちはイエスに捕えられているのです。捕えられているからキリストの愛を証しすることができるのです。捕えられているということは私たちがキリストの網にかかっているということです。網に上げられる方向へ歩めばいいのです。わたしたちはすでにキリストのものなのです。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と信仰を証しするのです。 

マザー・テレサは一日、2回、聖体拝領(イエス)を頂きます。一回はミサの中で、もう一つはスラム街にいる貧しい人の中にいるイエスを拝領するのです。マザーの聖体拝領はそこで一つになるのです。わたしたちの日常生活でもイエスを見出し、イエスを拝領しましょう。喜びのうちにイエスをわたしたちの中に迎え入れていきましょう。

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 日本26聖人殉教の日 に

25日、日本のカトリック教会においてキリストを証しした日本26聖人殉教の日を迎えました。そのなかで3人の勇気ある少年についてお話しします。 

 

            3人の勇気ある少年 

 

25日は日本二十六聖人殉教者の日です。1549年、フランシスコ・ザビエルによってもたらされたキリストのみことばが芽を吹き出していくなか、厳しい弾圧が起こりました。最初の24名のキリシタンがとらえられ、京都の投獄に入れられました。そのなかには12さいのルドビコ茨木、13さいのアントニオ、15さいのトマス小崎のような少年たちもいたのです。159713日、とらえられたキリシタンたちは京都で左耳たぶをそがれ、長崎までの見せしめの旅を強いられました。道中、ふたりのキリシタン青年が「わたしも一行に加えてください」と役人に申し立て、あわせて26人となりました。 

 トマス小崎は広島の三原に着いたとき、母親にあてて手紙を書きました。 

「母上さま、神さまのおめぐみに助けられながら、この手紙を書きます。わたしは長崎で十字架につけられます。どうかお願いです。ご心配なさらないでください。天国で母上のお越しをお待ちしております。母上さま、死がせまったとき、神父さまがいらっしゃらなくとも、心から罪を悔い改め、いのってください。イエスさまは救いを与えてくださいます」。

 

いたいけなルドビコ茨木を見た長崎奉行所の役人が声をかけました。「信仰を捨てなさい。 

そうすればわたしたちの家に引き取り、武士にしてあげよう」。するとルドビコは、「わたしは神さまに背くことはできません」ときっぱりと断ったのです。

 

アントニオの父は息子に言いました。「おまえはまだまだ若いじゃないか、大きくなってから殉教してもおそくはないんだぞ」。けれどもアントニオは毅然とした態度で言いました。

 

「神さまにいのちをささげるのに、年をとってからというのは問題ではありません。あの罪のない幼子たちも、生まれてまもなく、キリストさまのために殺されたではありませんか」。

 

 25日、長崎の西坂の丘に26の十字架が立てられました。京都を出発して1ケ月以上もたち、つかれきっていたにもかかわらず、26人のキリシタンたちは自分の札がかかげられている十字架へ走り寄り、しっかりと抱きしめたのでした。ふたりずつ26組に分かれた役人がいっせいに槍で胸をつきさしました。無残にも見せしめとして殉教者の遺体は10月まで十字架上にさらされていたと言われます。

 

 それから265年後の186268日、教皇ピオ9世によって彼らは聖人の位に上げられたのです。

 

 (「イエスのまなざし」~福音がてらす子どもたちのあゆみ~ 場﨑洋 )より